2011.07.23 復活のアクアマリン、そして福島原発に向かってみる:後編 (その4)
■広野町
四倉から久之浜を経由して北上すると、やがて広野町に入る。東西13km南北7kmの小領域は合併で巨大化したいわき市とは対照的だが、実は小なれども財政的には豊かな町である。それは域内にある広野火力発電所(東京電力)がもたらす莫大な税収によるもので、ことさら合併していわき市のような "規模の経済" を志向しなくても、広野町は単独で十分にやっていける素地があったのである。
それが今や放射能と対峙する最前線の町として、あまり名誉とも思えない知名度を獲得しつつある。ここではレポートの最終章として、その現状を見てみることとしよう。
さてR6を北上していくと、やがていわき市と広野町の境界が現われる。…といっても、特に変わったところはない。写真では道路工事とテロ対策警戒の縦看板が見えるが、工期は3月までと書いてありこれは震災前の設置である。
筆者的にはもっとこう、白い防護服を着た謎の政府組織(^^;)が検問をしているとかモノモノしい風景を想像していたのだけれど…実際には拍子抜けするほど普通の道路であった。あたりにはセミの声が響いていて、実に正しい日本の夏山風景が広がっている。
町の境界から市街地までには小さな峠を2つ越えるが、クルマなら3分もかからない。現在の中心的な市街地はR6と常磐線に挟まれたウナギの寝床のような細長いエリアに集中しており、そこを外れるとわずかばかりの耕地が山間のスキマを埋めるように幾筋か伸びている。一方で北部の海岸には火力発電所がデン、と構えてその存在感を誇示している。
さらに発電所に隣接してサッカー施設である J-VILLAGE があり、ここが原発事故対策の最前線基地となっている。ただし筆者のような一般人が尋ねていったところで入れてもらえる筈はなく、今回のミッションはここの玄関先を確認できればヨシというスタンスである。
■本町〜広野火力発電所の周辺
ところで J-VILLAGE に行く前に、筆者は広野火力発電所周辺の状況を確認しておきたかった。ここは東京電力が営業区域外にもっている唯一の火力発電所なのだが、見てのとおり(注:写真は震災前のもの)巨大津波のことはあまり考慮されていない構造で、震災では5基あった発電炉のすべてが損傷し、首都圏の電力不足の一因となっていた。
この発電所は380万kWの発電能力をもち、復旧できれば震災直後に低下した東京電力の発電容量(5200万kW → 3100万kW) を12%以上押し上げるインパクトがあった。そのため被災地の最前線かつ原発事故の避難区域ぎりぎりの立地でありながら復旧工事の着手は早かった。筆者はその状況を見ておきたかったのである。
…が、結論からいえばその願いは叶わなかった。正面ゲートはガッチリ閉じられており、発電所の全景を見るのに最も適していた広野海浜公園 (※) も閉鎖されて部外者は完全シャットアウトだったのである orz
※ここは発電所の埠頭を釣り客に有料開放していたもので、福島県沿岸では割と有名な釣りスポットだった。
仕方がないので少々遠景で申し訳ないが、発電所の煙突を眺めながら東京電力のHPを参考に書いてみる。東京電力は恐るべき突貫工事で7/16までに5基の発電炉すべてを再稼動させた。4/21に福島第二原発の立入禁止区域が縮小されたことを受けて復旧に着手、その後3ヶ月に満たない工期で瓦礫の撤去から塩分除去、建屋と炉とタービン、その他の配線配管などを完了している。
規模はまったく違うけれども筆者も設備工事の進行管理などという仕事に関わることがあり、ガントチャートをひねくりながら日程を立てていく面倒さは少しばかり知っている。管理担当によって流儀は異なるだろうが、工期短縮が至上命題の場合は作業マージンはほぼゼロで、やり直しの効かない一発勝負が並んでチャートは構成される。裏方には大量のエンジニアが控えていて、ミスや遅延が生じたらその都度いちいち会議を開いて対策を練り、チャートを組み替えるのである。そしてそれに応じて作業者の投入やら設備の搬入が動いていく。マスコミの視点では殆どスポットが当たらなかったが、その再稼動までの道のりは純エンジニアリング的にもう少し評価されてもよさそうな気がする。
工事は夏の電力不足対策としてのタイムリミットもあり、一日あたり最大で2800名もの作業員を投入しての物量作戦となった。敷地内の発電炉はまず5号機が6/15、ついで7/3に1号機、7/11に2号機、7/14に4号機、そして7/16に最後の3号機が再稼動を果たしている。見事なものである。
しかし発電所の目覚しい復旧とは対照的に、周辺の一般住宅地や道路、水道などのインフラの復旧はほとんど手付かずで放置されているのであった。
特に常磐線から東側の低地部がひどい状況で、季節は巡って瓦礫はすっかり雑草の苗床となりつつある。
ここを襲った津波の高さは7〜8mほどもあったらしい。低地とはいっても広野町の海岸は断崖貴重で住宅地は海面から5m以上はあったが、津波はそこに乗り上げて500mあまりも内陸まで押し寄せ、常磐線の土手(写真奥)に阻まれて止まった。このとき流された瓦礫は今でもそのまま残っており、片付けようとした気配さえない。
…この差はいったい何処から来るのだろう。すぐ隣の発電所には毎日数千人もの作業員が通って復旧も一段落し、東京電力には努力の痕跡が見えるのに、行政にはそれが殆どみえない。政府にも何か言い分はあるのだろうが、それにしても4ヶ月が過ぎてこれではちょっと弁護のしようがない。
これを住民の側から見れば首都圏が必要としている発電所だけがさっさと立ち上がって被災者の救済がほったらかしという状況に見えるに違いなく、不公平感MAXもいいところだろう。
そんな状態が放置されているうちに、首都圏では広野町の果たしている電源供給地としての働きはゆるやかに忘れられつつある。…というよりも、放射能とJ-VILLAGE絡みの報道で無意識のうちにイメージが上書きされてしまってそちらの方が強くなってしまったと言えばよいのだろうか。
この夏、輪番停電の可能性が少なくなったことで首都圏の節電に対する感覚は"切実な生活問題"から"観念的な努力目標" に格下げとなった感がある。もはや誰が何処で電力を供給しているのかは重要ではなく、LED電球を買い、ソーラーパネルを設置すればなんとなくエコ!…といった方向に意識が向いている。
…そこに広野町の名前がない、というところに筆者は多少の同情を禁じえない。そして都会人の生きている偽善と上辺の格好だけの世界にも、少々思うところがあるのであった…
■住宅街
さて発電所からR6側に向かうと、広野町の古い住宅街があらわれる。現在のR6は住宅街の西側を中央分離帯つき4車線のゴージャス仕様で通っているが、その前身となった旧街道=陸前浜街道は住宅街の中心を通っており(…というより街道に沿って集落が形成されたのだろう)、その沿道には "北迫の地蔵尊" と呼ばれる古い石仏が鎮座していた。おそらくは道祖神的な役割を期待して建立されたものだろう。
市街地にはほとんど人の気配がしない。地蔵尊には花などが供えられており完全に無人という訳ではなさそうだが、残留しているのはごく少数のようだ。商店なども営業していない。
広野町は屋内退避指示こそ4/22に解除されているものの、あらたに緊急時避難準備区域なる指定を受けて、行政サービスの多くは停止したままである。特に現在に至っても水道が復旧していない影響は大きく、住民のほとんどは域外に避難して戻ってきていない。町の人口約5500名のうち、現在も留まっているのはお年寄りや発電所関係者など300名程度に過ぎない。
しかしそんなゴーストタウンのような状況も、R6の界隈においては別世界のようである。東京電力関係者のクルマがひっきりなしに往復していて、交通量は驚くほど多い。タクシー、バス、そして何やら荷物を積んだトラックが、J-VILLAGEに向かって走っていき…そして戻ってくる。
そんなR6界隈で、珍しく人が集まっている一角があった。町内で唯一営業している民宿 「ひろの」 である。ここは敷地内に井戸を持っているので自力で風呂を沸かせる強みがあり、今では J-VILLAGE に最も近い宿泊施設として原発作業員に人気がある。どうやら肝っ玉女将が残留して切り盛りしているらしく、こういうご時世にもかかわらず宿泊費は据え置きで頑張っているらしい。
…ただし、筆者の見た限りここ以外の宿や商店などは軒並み閉店しており、町の経済活動はほぼ停止している。ここの活況は例外中の例外…と思ったほうがよさそうだ。
そのまま二ツ沼総合公園の脇をゆるゆると北上していくと、向こう側にファミリーマートの看板が見えてきた。おそらくは一般人が到達できる最後のコンビニだが、やはり営業はしていなかった。クルマの往来はあるので店を開けば客は入りそうなものだが、やはり水が使えないのがネックなのだろう。
■二ツ沼総合公園
上記コンビニの向かい側に、二ツ沼総合公園の入り口がある。J-VILLAGEに隣接する南北400mx東西400mにわたる公園で、名称の由来となった双子の沼を中心とした運動公園である。
最初はスルーしようかと思ったのだが、入口に東芝の社旗がかかっていたので 「おや?」 と興味を引かれた。見れば入口には 「東芝対策本部」 と書いてあり、寄り合い所帯の J-VILLAGE と違ってここは東芝が独占使用しているようだった。
東芝は福島第一原発で事故を起こしたGE製Mark-1の施工を請け負ったメーカーである。
特に損傷が激しい2号機、3号機は東芝が建設を請け負っており、比較的症状の軽い4号機 (といっても水素爆発は起こしているのだが) を受注した日立と立場の明暗を分けている。…と言うか、こうして独立した本部を持っているということは、原発事故対策の主役は東京電力ではなくて東芝なんじゃないの…という気分になってくるなぁ(´・ω・`)
公園の駐車場には、大量の自家用車、バスなどが駐車しているのがみえる。事故発生直後は最小限の決死隊のみが残留して Fukushima-50 などと言われたものだが、現在のチーム陣容はかなり厚くなって、1日あたり3000人ほどが投入されているそうである。
さきに紹介した広野火力発電所の工事ではそれに加えて2800名が投入されていた。…合計で5800余名。広野町から避難した住民が5200名だから、これとそっくり入れ替わるように別の町ができたようなものだな。
これだけの人数が、災害現場である福島第一原子力発電所にむかって日々 「出勤」 していく。筆者が災害現場と聞いて思い浮かべるのは崖崩れとか洪水の対策で少数精鋭のレスキュー隊などが出動している場面が多いのだが、ここではそういうレベルを超えて、もう巨大建設現場のようなノリで組織が動いているのだった。
※実際、この時点では破損した原子炉建屋にテント式の防護壁を被せる工事が進行中であったらしい。
■そして終点=J-VILLAGEへ…
さてそれではいよいよ終点を目指してみよう。残り少ないR6の区間を北上すると、交通表示機に立入禁止の文字が現れる。こういうところにホイホイ入っていくのは馬鹿か暇人と相場は決まってるものだが、筆者は紳士なので 「戻れ」 と言われるまでは進んで、その後は素直に引き下がることにしよう。
やがて広野町の境界を越えて、楢葉町(=福島第二原発のある町)に入る。これはちょっと予想していなかった展開だったが、後で調べてみたら J-VILLAGE は広野町と楢葉町にまたがっており、入り口は楢葉町側にあるのだった。 その正式な所在地は "福島県双葉郡楢葉町大字山田岡字美シ森8番" で、登記上は楢葉町の施設である。
見れば交差点に機動隊らしい人影がみえる。町の境界からわずか100m…これが、一般人の到達できる最奥部ということになるらしい。
ついに検問所に到達した。このアングルでは見えないが、左側の工業団地側にも検問所が作られている。信号は消灯しており、ここでマッチョな機動隊のおっさんにクルマを停められた。いよいよ、ジ・エンドである。
機動隊 「通行許可証はお持ちですか?」
筆者 「ありません」
機動隊 「どのようなご用件ですか?」
筆者 「あー、まーなんですな…」
…まさか 「観光です」 とも言いにくいので、ここは素直に 「いやまあ、規制があるのは知っていましたが、どこまで行けるものか確かめてみようと思いまして…わはは」 と回答してみた。
機動隊 「ここから先は一般車両は通行止めです。ユーターン願います」
必要最小限の会話で有無を言わさず引き返させる…というのも彼らのスキルのうちに入るのかもしれないが、実に手馴れた感じでユーターンさせられてしまった(´・ω・`) それにしても、この無機質ぶり…フルメタルアーマーでも装着すれば彼はきっとロボコップになれるんじゃないだろうか。
付近の写真を撮るのはOKだというので、そそくさと数枚だけ撮って撤退することにする。
ちなみに、輸送車(バスのようなクルマ)の向こう側にいるのは機動隊の指揮車両である。騒乱時でもフロントガラスが割られないように鉄格子シャッターがついているゴツいやつで、どんな状況を想定して配備しているのか不明だが威圧感はそれなりにある。血の気の多い反原発屋さんとか左翼活動家がやってきてもこれならうまく鎮圧してくれそうだ。
肝心のJ-VILLAGEの施設は樹木に遮られてほとんど見えなかった。唯一、交差点から見えたのは屋根つき人工芝フィールドのみ。その向こう側にはスポーツ医療施設、ホテル、レストラン等があるのだが、ここからは見えない。
福島第一原発に向かう作業員は、まずここまで自家用車や会社のバス等でやってきて、別のシャトルバスに乗り換えて現場に向かう。これには、避難区域内を走る車両を限定して放射性物質がクルマに付着して域外に出ることを防ぐ意味合いもあるらしい。
楢葉町も広野町と同様、水道は断水中で復旧はしていない。おかげで建物の内部はトイレの水も流せないような状況だそうで、飲料水は外部からの持込みに頼っている。…それ以上の内容は今のところ分からないので、下手な憶測で適当なことを書くのは控えておきたい。
…まあ、とりあえず終点までは確認したのだから、一応ミッションは成功である。さて引き返そう。
J-VILLAGEから二ツ沼総合公園にかけて戻るR6の界隈には、大量のゴミらしいコンテナが並んでいた。
袋から白いものが覗いているのは、どうやら放射性物質の防護服のように見える。ナンバーを振られてズラリと並んでいるのは壮観そのものだが、日々増え続ける大量のゴミをどう処分するのかはよく分からない。道路に置ききれなくなったら、そのまま公園内に野積みになるのだろうか…。
■死んだ町の奇妙な光景
さて当初の予定は一通り完了した訳だが、役場周辺の中心市街地を飛ばして火力発電所経由で来てしまったので、最後に広野町の中心部の様子を確認しておこう。
検問所から引き返していくR6の風景は、一見するとクルマも多くて普通の町のようにみえる。しかしこれは原発事故対策の作業員が J-VILLAGE までの往復を繰り返しているもので、地元民でないことは既に述べた。町民の95%は町から避難しており、ここには住んでいない。
※原発作業者の多くは常磐自動車道を利用して小名浜以南から広野までやってくるようで、筆者のように四倉方面からシタミチ=R6を通ってやってくると、突然広野町に入ってから交通量が増えたような感覚を覚える。
R6から300mほど常磐線側に入ってJR広野駅の駅前商店街を見ると…もう町が実質的に死んでいることがわかる。あらゆる商店が閉まっていて、経済活動が成立していない。歩く人影すら見られない。
市街の中心付近に位置しているJR広野駅も、長らく無人のままである。津波はこの駅舎のあたりまで到達しており、線路の向こう側の農地(一段低い)に水を被った痕跡がある。常磐線はいわき市の四倉以南で折り返し運行されており、広野駅までの区間が運行再開される日程は不明だ。
ただ駅舎にはシートと足場が組まれており、JR東日本にはこれを修繕をしようという意思はあるらしい。
駅前に設置された案内板には、決して雄弁ではないけれども "発電所だけで成り立っている町ではないぞ" という地元の主張がにじみ出ていた。ここは小さいながらも陸前浜街道の宿場として栄え、古くは奈良時代にまで遡る駅 (当時は馬を置いた) としての歴史がある。明治以降は童謡の舞台ともなった。
原発事故が収束して陸前浜街道が相馬まで辿れるようになったら、いつかこの海沿いの街道を通ってみたいところだが…その日が来るのは、いつの日になるのだろう。
さて駅から内陸側に400mほど戻ると、広野町役場の庁舎がある。隣接する消防署には自衛隊の車両、役場のほうにはごく普通の自家用車が停まっていた。役場の機能は既にいわき市に退避してしまった筈だが、まだいくらかの業務は行われているようだ。いったい誰が何を…と思っていたそのとき、チャイムが鳴って防災無線らしい放送が流れた。
「こちらは…広野町役場です…本日、午後3時の空間放射線量は、0.45マイクロシーベルト…」
淡々と、事実だけを完結に告げるアナウンスが数回、ゆっくりと繰り返されて、また静寂が戻った。なるほど…こういう業務がまだ残っているのだな。
それはまるで、昔よく見たB級SF映画のラストシーンのような光景なのであった。 核兵器とか未知の病原菌とか、とにかく何か陳腐な理由で人類が死滅してしまって、環境計測機器だけが日々自動で定期アナウンスだけを続けている…そんなイメージなのである。
とはいえ0.45μSv/hというのは人が住めないほどの放射線量ではない。上下水道が復旧すれば住民もある程度は戻ってくるだろうし、さらに避難準備区域の指定が解除されれば行政サービスも復活できるだろう。指定解除は早ければ9月中にも行われるとの報道があるので、そう暗い未来ばかりではなさそうである。
ただ農地の状況は厳しそうだった。水田は田植えの季節を過ぎても水が張られることもなく、雑草が生い茂るままになっている。見渡す限りすべての田畑で作物の栽培はまったく行われている様子がない。3月の大量の放射性物質の拡散騒ぎで、農家は耕作の意欲を失ってしまったようだ。
それは悲しい風景なのであった。
小名浜の漁業の辿った経過と同じように、おそらくここでも 「作物を作って市場に受け入れられるか?」 …という重い課題を背負ったうえでの復興を模索することになるのだろう。それがいつまで続くのかを予言できる者はいない。
なにしろ、ここではまだ復興の槌音どころかまだ何も始まっていない。四倉あたりまでは見えていた "生きている町" の風景が、広野町に入るとパッタリと途絶えて静止した闇の中…という感じになっている。
ここに一条の希望の光が射すのはいつの日になるのだろう。…まだまだ遠い気がする。
【完】
■あとがき
当初はもっと明るく前向きなレポートになるのかな…と思って出かけてみた福島県沿岸部ですが、予想に反して最後のほうは重苦しいものになってしまいました(´・ω・`;) 被災地の復興が遅れているというニュースは何度もTVや新聞で見ましたが、筆者が福島県で見たものは 「遅れている」 などという生易しいものではなく 「ほとんど手についていない」 に近い状況です。そのような次第で、海岸沿いの被災地を延々と30kmほど走ってみた感想の第一は 「いったい政府は何をやっているのだ」 という素朴な疑問なのでした。
■静かなる破壊の跡
さて今回のレポートでは津波の被害の写真が多く、まるで福島県のすべてが破壊されているような印象が前面に出てしまっているかも知れません。しかし破壊されているのはあくまでも津波で浸水したエリアであって、それ以外の建物、道路などの損傷はそれほど大きくありません。小名浜や四倉の市街地では内陸側で津波の影響のなかったブロックでは普通の市民生活が続いていて、本編では特に触れませんでしたが帰路筆者は小名浜市街地で結構な渋滞に遭遇しました。商店街やレストランなども普通に営業しており、少なくともこの地域の中核都市である小名浜は、しっかり生きているわけです。
本来ならこうした生きた市街地の活力をうまくつかって被災部分の復旧、復興がなされていくべきなのでしょうが、幹線道路の瓦礫が一通り片付いたくらいのところでパッタリと動きが止まってしまって、その先の展開がない…というのが筆者の受けた印象です。
本来なら被災から4〜5ヶ月も経てば復興の槌音が響いて建設ラッシュになっていなければなりません。昔から災害が多い日本では、こうしたスクラッチ・アンド・ビルドが頻繁に行われて街が維持されてきたのです。…しかし今回訪れた被災地はとても静かで、救いの手より先に雑草がやってきてゆっくりと瓦礫を覆っている…といった状況なのでした。これはどうやら、現地を支援すべき政府の手腕に問題があるのでしょう。
ところで今回、現地で行き交う瓦礫撤去の車両を見て気づいたことがあります。いわきナンバーの車ばかりで他県の車両がいないのです。これはかなり極端な比率で、筆者は今回1000枚近く写真を撮っておりその中にはちろん工事車両もたくさん写っているわけですが、どれを見てもいわきナンバーばかりで他県ナンバー車は1台もいないのです。
原発事故が起こって以降、県外のトラック運転手や重機オペレータが現地に入りたがらず、特に被災者への物資補給が滞ったことは記憶に新しいですが、復旧/復興工事においてもいまだにその傾向は伺えます。結局、被災地が自前で調達した戦力で手が回る範囲でしか物事が進んでいないというのが 「復興」 の実態なのかもしれず、もしそうだとするならば今回筆者のみた風景は "当然の成り行き" としてそこに存在していたことになります。
しかしその一方でJ-VILLAGE経由の原発事故対策や広野火力発電所の復旧工事には数千人単位で人が集まっている訳で、ちゃんと募集をかければ人員は集められる訳です。まあ東京電力は腐ってもインフラ事業者ですからこの種の復旧事業のノウハウもあり業者を使うのもうまかったということなのでしょうけれど、これだけスコアに差が開いてしまうと行政側ももう少し真面目にその原因を考察してほしいと筆者は思うのでした。
■アクアマリンふくしまの復興の速さ
さてそんな暗い世相の中でも、アクアマリンふくしまの営業再開は久々の明るいニュースでした。
筆者が訪れたときにはまだ魚も少なかったのですが、その後に大量の魚の追加があったようで(イワシも大量補填♪)、水槽の見栄えもよくなって夏休み期間中の入場者はかなり盛況だったようです。オープン以来の累計入場者数10万人突破もあったようですし、いわき市復興のシンボルとしての役割は十分に果たしているといえそうです。
ところで水族館の復興が周辺市街地とくらべても早かったのはその運営形態が財団法人であり資金の調達が早かったためなのだそうです。筆者はてっきり国からピンポイントに潤沢な補助金でも降りたのかと思っていたのですが、実際にはそうではなく自前資金でフライングスタートをした訳ですね。
財団法人とはある一定額の "基金" を用意してその運用益で運営する団体ですが、アクアマリンふくしまでは会社でいえば資本金に相当するこの基金の一部を取崩すか担保にするなどして今回の復興資金を調達したようです。(筆者は会計には疎いのでいい加減にしか理解していません ^^;)
経営的には水族館は福島県所有の小名浜港第二埠頭の建物を借りて入居しており、要するに百貨店とその内部のテナントのような関係にあります。この場合、テナントは百貨店の建物そのものには責任を持ちませんが、今回の震災復興ではそれも含めてアクアマリンふくしま側が資金を調達して修繕をしています。そうでもしないと早期の営業再開は難しいということで、館長さんが決断をした訳ですね。
これは英断といえば英断ですが、結局のところ行政がスピード感を欠いているところを民間企業(というか半官半民?)が引っ被ってコトを進めているわけで、復興の遅れの本質がどこにあるかが垣間見えるケースといえます。
ただしこれは非常に逆説的ではありますが、"どうすれば復興が早まるか" というテーマに対するひとつの回答でもあります。まあカネさえ用意すれば良いという話でもないのでしょうけれど、実績を出したところには大いに学んでその成果を取り込んでいくというのが、結局は被災地の住民にとってよりよいサービスの提供につながると思います。
なんだかまとまりがありませんが、とりあえず今回はこんなところで…
<おしまい>
縲先羅縺ョ縺贋セ帙
繝サ豌苓ア。蠎騾ア髢灘、ゥ豌
繝サ鬮倡衍螟ァ蟄ヲ 豌苓ア。諠蝣ア雋「
繝サ豌苓ア。蠎√Γ繝繧キ繝・莠亥ア
繝サ驍」鬆郁ヲウ蜈牙鵠莨
繝サ鮟堤」ッ隕ウ蜈牙鵠莨
繝サ蝪ゥ蜴滓クゥ豕牙ャ蠑秋P
繝サ隘ソ驍」鬆磯手ヲウ蜈牙鵠莨
繝サ螟ァ逕ー蜴溷クりヲウ蜈牙鵠莨