2012.11.03 紅葉の日塩もみじラインを行く:前編(その2)




■日塩もみじラインへ




さてここからは日塩もみじラインに入っていく。時計をみれば、今市を抜けるまでに渋滞でかなり捕まってしまったこともあり、既に午後2時を回っている。…まあ日没まであと2時間少々、見えるところまでは見てみようという気構えで、ゆるゆると行ってみよう。




案内板によると本日は白滝付近(1160m)が見頃であるらしい。もみじラインの最高点がおよそ1260mくらいだから、ほぼ頂上に近い付近である。ただしここで言う "見頃" の樹種は主に楓(かえで)であり、他の黄葉系の木々は既に落葉気味になっているであろうことは頭の片隅に入れておこう。




料金所を過ぎると、早々と降りてくるクルマの列がズラリと見えた。午前中早くに登った行楽客が撤収してきているのである。首都圏からの行楽客はあまり遅くなると高速道路で長い渋滞のひとときを過ごさなければならない。早めの撤収は、賢い選択のように思える。

こんな時間に山岳道路に登ろうなどというのは、よほどの物好きか暇人か、そうでなければ筆者のような後先考えないナイスガイくらいのものだろう(ぉぃ)




おお見ればさっそくイイカンジの紅葉がっ…♪ヽ(・∀・)ノ



 

■太閤下ろしの滝




さて料金所を過ぎて2kmあまり走ると、最初のビューポイント、太閤下ろしの滝に至る。




標高は560m。龍王峡からはざっと100mほど上がったことになる。




このあたりまで来ると、周囲の状況は本格的な秋の様相に変わった。この↑写真は駐車場から山の稜線を見上げているもので、実際には標高600〜700m付近を見ていることになるのだが、まあ細かいことは言わずに楽しむのが風流人というものだろう。




遊歩道を降りてみると、黄葉の木々がイイカンジだ。よく見ると枝先が赤く染まり始めていて、本来この枝は赤色に染まるべきものらしい。今年は冷え込みの寸止め状態が長かったので、葉緑素が壊れてから赤色が立ち上がってくるまでにタイムラグがあった。その間に黄色の純度が上がってしまった…と解釈すればよいのかな。




遊歩道を進んでいくと、その突当りが太閤下ろしの滝である。今回は紅葉紀行なので歴史系の話は大幅にカットするが、豊臣秀吉が奥州仕置きの後に通ったと伝えられるところである。あまりに険しい道だったので太閤といえども輿から降りて歩かねばならなかった…というのが滝の名の由来だ。




太閤秀吉が東北巡行を終え、会津西街道経由で宇都宮に戻ったのは旧暦で8/14であった。現在の暦で言うと9月で、紅葉にはまだ早い。さすがの太閤も、この景色は見ずに終わった。

…それを眺めながら行く貧乏ドライブというのも、ある意味風雅なものと考えることにしよう。



 

■二枚沢林道入り口




さらにゆるゆると登っていく。道路沿いの木々は、色が付いているもの、まだ青さを残しているものが交互に現れる。日の当たり方、風の当たり方で差があるのか、まだ幾分色づき具合にはムラがある。




それでも、だんだん鮮やかな色彩の割合は増えていく。




やがて二枚沢林道の分岐点が見えてくる。現在は一般車は乗り入れることができず、営林署専用となっている林道である。標高はちょうど700mである。




この分岐点周辺に、色づきのよい楓が群生していた。




ちょうど日が陰ってきて写真条件としては良くないが、あまりに綺麗なのでしばし眺めてみることにする。龍王峡で仕入れてきた缶コーヒーで、ちょっとしたコーヒーブレイクと洒落込もう。




葉の色は、寸止めカラー(?)のオレンジ色から、目の覚めるような赤色に変わりつつある。ここ2、3日の冷え込みで一気に色が乗ってきた感じだな。




…と思ってデータを見てみると、おおこれは凄い。移動平均(5day-MA)でみるとカッキリと5℃付近で寸止め状態をキープされていた葉が、下げトレンドに入った途端に赤味を増したような傾向が見えている。5℃を下回ると色づきが鮮やかになるというのは、どうやら本当らしい。




この絶妙の状態を、葉の下側から逆行気味に撮ると実に綺麗なのである。




結論からいうと、ここから標高の高い側が本日の最高の見頃となっていた。




楓は色素の素となる糖分の蓄積具合に勾配をもつためか、一本一本のグラデーションが美しい。日の良く当たる部位から赤色の発色が始まってそれが全体に行きわたるまでに時間を要するため結果的に色の持ち具合も長く、周辺の木々が葉を落としても最後まで粘ってくれる。山全体がすっかり丸坊主になっても、楓だけは "一刺しの赤" として残るのである。




そういう性質が、日本人の美意識とマッチして古来から歌の題材に読まれてきたのかもしれない。楓(かえで)は紅葉(もみじ)ともいう。もみじ(もみち)は古語では動詞である。

紅葉を詠んだ歌は、日本最古の万葉集から既に多数が存在している。奈良時代の歌ではこんな詠まれ方をしている。

この里は
継ぎて霜や置く
夏の野に
我が見し草は
もみちたりけり

万葉集巻之十九、第四二六八首、孝謙天皇の歌である。以前の金精峠に道鏡の巨根伝説を追うでは 「この里は霜が降りるほど寒いのだろうか、夏であるのに私の見た草は紅葉していたけれど」 と解釈してみたけれど、あらためて検索してみると現代語訳のバージョンはいくつもあるらしい。ただしいずれの解釈でも 「もみち」 は=もみじ=紅葉しているの意である。

しかし残念ながら楓について詠まれた歌は万葉集にはほとんどない。上記の歌では、その情景について以下のような注釈が付いている。



天皇(すめらみこと)と太后(おほきさき)と、共に大納言(おほきものまをすつかさ)藤原の家に幸(いでま)しし日、黄葉(もみち)せる沢蘭(さはあらき)一株(ひともと)を抜き取りて、内侍佐佐貴山君(ささきやまのきみ)に持たしめ、大納言藤原の卿また陪従(みとも)の大夫等(まへつきみたち)に遣賜(たま)へる御歌(おほみうた)一首、命婦(ひめとね)が誦(とな)へて曰(い)へらく



ここでいう沢蘭とは字の如くランの一種だ。花期は夏で、このときは黄色く染まった葉の一株を摘んで 「秋でもないのに色付いているとは」  と面白がっている。万葉集の時代では赤系よりも黄色の "黄葉" が好まれたようで、残っている歌はほとんどが黄色系のものだそうだ。これが平安時代の古今和歌集になると "紅" や "錦" の表記が増え、色の好みが赤系統にシフトしていく。京都の古寺(平安時代以降)に紅葉(楓)の庭園が多いのは、そんなところにルーツがあるのかもしれない。




ついでながら、楓の蓄積する糖分(色素の素でもある)はかなり濃密なものらしく、西洋では寒い時期に樹液を集め、煮詰めてシロップとして用いたりする。いわゆるメープルシロップがそれである。日本では食用にするより紅葉を見て楽しむのが主流で、このへんは国民性とか美意識の違いからくるものだろう。


<つづく>