2013.01.01 初詣:母智丘神社と三島神社(その2)




■三島神社




母智丘神社を出てからは、一路三島神社へと向かった。ここは碁盤の目の区画の山寄り側で、かつての開拓事務所のあった一角である。三島亭は現在のボーイスカウトキャンプ場の付近にあり、現在の三島神社の一角を通って開拓事務所(現在の那須野ヶ原博物館)に通う位置関係であった。




これが三島神社の入り口である。鳥居は一基のみとシンプルだが敷地面積は広い。

まだ11時を少し回った程度なので参拝客の姿は見えず、氏子さん達が年越しの準備をしている。ざっとみて30〜40人以上は集まっているようだ。さすがに市街化区域だけあって母智丘神社よりは動員力はあるらしい。




境内には東日本大震災で破損した灯篭などがまだいくらか散見される。震災復興はそれなりに進んでおり鳥居や社殿などの修繕は一段落しているようだが、灯篭は数が多いのでなかなか手が回らないらしい。

※庭先に置くような 「なんちゃって灯篭」 と違って、神社仕様のちゃんとしたものは一基設置するのに数十万円〜百万円くらいかかる。地震で一斉に壊れるとエライこっちゃなのである( ̄▽ ̄;)




さて三島通庸は栃木県令を3年間勤めて道路開削や那須疎水開通、県庁移転など数々の土木/建設事業を行ったのち、特に治安維持に関する能力を買われて明治18年12月25日付で警視総監に転じたのだが、長年の激務で体を酷使しすぎたためか途中で体調を崩し(リウマチと心臓疾患が重なったらしい)、在任3年で病没することとなった。明治21年のことである。

その後、入植した開拓農民らによって神社建立の発議があり、翌明治22年に母智丘神社から分祀する形で新たな神社を創建(※)し、そこに三島通庸が祭神として加えられた。これが後に拡充され、代々の三島家の子孫と初期の開拓農民142柱が合祀されて今に至っているのがこの三島神社である。農場の鎮守として建立された母智丘神社とは、里宮と奥宮の関係になっている。

※神社境内の案内板には明治39年建立とあるが、三島農場発行の史料によると明治22年建立、同40年改築とあるので、当サイトはそちらに基づいた表記としたい。



 

■人神の話





ところで、長らく戦後の宗教否定論(しばしば戦前日本の否定論と重なる)で教育を受けてきた世代には、この
「故人を神様にしてしまおう」 という発想はなかなか直接的には理解しにくいかもしれない。しかし歴史的にみると、日本ではこういう事例は案外多いのである。

人を神として祀ったものを
「人神」 という。読み方は 「ひとがみ」 である。社会に貢献した人、政治家、軍人、恨みを残して祟りを為すと考えられた人、あるいは単なる奇人変人(^^;)…などを、神様として祀ったものをいう。単独で人を神として祀る場合と、既存の神社に合祀する形で人を祀る場合があり、三島神社は後者のケースにあたる。




人神の誕生するメカニズムは無理矢理に分析すればアニミズム論で説明できるのだろうけれど、理屈で固めてしまうのはちょっと無粋な気がしないでもない。人間に限らず無生物であっても九十九神のように神性を帯びるものがあり、日本の信仰は曖昧でなんでもありなのだ。

人間に関していえば、日本では死者の魂を丁重に扱って祀りあげておくと、時間とともに人間としての生々しさが消失してやがて守護神にクラスチェンジすると考えられてきた。古くは菅原道真(天神様)、豊臣秀吉(豊国大明神)、徳川家康(東照大権現)などがあり、近代の那須野ヶ原周辺では乃木神社の乃木希典大将、西郷神社の西郷従道元帥、烏ヶ森神社の印南丈作/矢板武などが代表的な人神だろう。




過去1000年ほどを概観すると、時代が下るにつれて神様になれるボーダーラインは下がる傾向にあり、江戸時代後半から明治〜大正〜昭和初期頃までは、特別な英雄豪傑でなくても何か事業を興して社会貢献をした者であれば神様となった。那須野ヶ原開拓に功績のあった三島通庸、印南丈作、矢板武らはこのような流れで神格を得ており、当時の感覚としては故人に贈る栄誉の最上位のものであった。現在でもたびたび見られる死後に栄誉賞や勲章などを贈るのと似たようなものと思えばよい。




三島通庸が人神として祀られた理由を探っていくと、単に開拓の旗振り役でした…ということだけではなく、入植者への面倒見の良さが当時としては破格の条件だったことに行き当たる。それだけ入植者からみてありがたい事業主だった訳だが、三島開墾地要覧(昭和3年、三島開墾事務所)の記述をみると、その理由の一端が伺える。以下、少しばかり引用してみよう。



(前略)土地の解放は近代農民の叫びであるが我が三島開墾地では既に早く明治十四年から明治十九年まで移住しゐたる者に対しては、町移住民に宅地として五畝歩(→約150坪)、百姓移住民としては原野一町歩(→約1ヘクタール)を無償分譲し、十五年から十九年までの移住者に対しては四反歩(→1200坪)、其の後の移住者には三反歩乃至一反歩を加ふることヽし、且十九年までに開墾したるものに対しては反當(当)り金参円五拾銭で売却するの約定で移住民をして永住せしむる策を講じた(後略)



住宅地と土地(原野ではあるが)一町歩は最初から無償譲渡、さらにそれを超えて開墾の進んだ土地に対してはあらかじめ価格を明示して分譲するオプション付き、インフラの整わない初期の入植組にはボーナスとして割増分譲が付く…(´・ω・`;) 成功報酬型ではなく、いきなり無償譲渡とはなんとも気前の良い話である。当時の北海道入植よりもよほど条件が良いのではないか。




まあ開墾経済の細かい話を書いていくと初詣ネタではなくなってしまうので適当に切り上げるけれども(^^;)、三島農場に於いては福利厚生なども手厚く、どうやら三島通庸は人の定着を最優先にして半分慈善事業のようにこの開拓を考えていたようだ。すくなくとも、神様として祀られる程度の感謝とか崇敬は集めていたのだろう。

三島は子爵の身分をもっていたが、もともと下級武士の出身であり、あまり身辺を飾り立てることはなかったという。開拓地に来ても自ら鋤鍬をもって農作業を行うこともしばしばであり、国道4号線の整備工事などは視察に来たはずなのが自ら "もっこ" を担いで作業に飛び入りするなど破天荒なところがあった。そういう点では、入植した農民にとって感覚的に近しい存在に見えたかもしれない。




そんな農場も、現在では戦後の "農地解放" で事実上解体されてしまい、市街化も進んでかつての開拓地の雰囲気は薄れつつある。農場事務所跡は那須野ヶ原博物館に、旧三島亭跡はボーイスカウトキャンプ場になり、当時のままの建物が残っているのはこの神社くらいになってしまっている。



 

■拝殿に上がってみる




さてそんな神社の社殿を眺めてみる。特別に派手な建築という訳ではないけれども、整備はよく行き届いている。境内は碁盤の目の1ブロックに相当する面積があるが、大部分は公共スペースとして開放されていて、地元の催事の会場や子供の遊び場として使われている。そういう意味では、ほとんど公園に近いような存在かもしれない。社務所も公民館のような使い方をされていて普段から人の出入りは多いらしい。




筆者はここの宮司さんとは多少の縁があり、今回は拝殿に上がらせていただくことにした。そういえばこんな形で二年参りをするのはかなり久しぶりのような気がするな。




さてここで 「三島神社」 の額の隣に色紙がみえるが、これは三島通庸の精神世界を考える上で貴重なものである。ここで書いておかないと永遠に書く機会がないと思うのでちょこっとだけ余談を記しておきたい。(なんだか今回は余談ばっかりのような気がするけれども ^^;)

 


達筆すぎて読むのが少々大変なのだが実はこれは三島通庸が若年の頃持ち歩いていた "辞世の句" を清書したものである。同じ内容のものが県令時代のつながりで山形県立博物館にも展示してある。「皇国の御代安けれと武士(もののふ)のあかき心をつくす今はかな」 と書いてあるそうだ。(宮司さんによると本人の直筆だそうだが、ここに掛かっているものは複製のような気がする… ^^;)




幕末の倒幕急進組に参加していた若き日の三島通庸は、有名な寺田屋事件(※)の現場にも居合わせており、もちろん死を覚悟してこれを身に着けていた。いわば筋金入りの勤王の志士だったわけで、後に生半可な自由民権活動家が楯ついて敵わなかったのも何となく頷ける。

※坂本龍馬の事件ではなく、その前の薩摩藩士同士の斬り合い事件の方



 

■年越し




さてそんなわけでいよいよ年越しの時間が迫ってきたのだが、そういえばここまで引っ張っておきながら三島通庸の肖像を紹介していなかった(ぉぃ ^^;)ので、改めてヴィジュアルに掲載しておきたい。これ↑が祭神の三島通庸公である。

母智丘神社から分祀した豊受大神はたおやかな女神様なので、こんなコワモテのおぢさんと合体(合祀)したらヴィジュアルはどうなっちゃうんだろう…と思わないでもないのだが、気にし始めると悩ましいので考えないことにしよう(^^;)




なおここには三島家代々の子孫の皆さんと初期入植組の開拓民142柱もまとめて合祀されている。みな人神(ひとがみ)であり、五穀豊穣をもたらす豊受大神を母体に、地域にゆかりのある祖霊が習合して鎮守の社に鎮まっている。




筆者は、三島通庸ひとりが祀られたのではなく、農場を引き継いだ代々の三島家の人々と開拓農民(おそらく明治初期に入植したほぼ全員)が一緒に祀られていることを興味深く受け止めている。

考えてみれば開拓民の第一世代には、共通の氏神がある訳でもなければ、地縁がある訳でもない。それが不毛の土地に開拓に入って、新しい共同体をつくり、世代を重ねるうちに、この開拓農場の敷地であたらしい地縁となっていったのである。




氏素性ではなく地縁でつながる信仰形態に "産土信仰" というのがある。その土地に生まれたものが土地神である産土神(うぶすなのかみ)に守護されるというもので、産土神とは特定の神様を指すわけでなくその土地に鎮まる有力な神様とか地霊などを大雑把に指す。一般には村単位の鎮守の神様が産土神になっているようである。

その点、那須野ヶ原(特に大田原より北西側)は長いこと人が住んでいなかったので村落も少なく、実は神様のテリトリーとしては空白地帯に近かった。だからこそ三島通庸は鎮守として開拓地で一番高い赤田山を選んで母智丘神社を建立したのだろうと筆者は推測している。

そして今は、そこからさらに分祀された三島神社が、主に碁盤の目地区の周辺を担当して産土神(うぶすなのかみ)の地位に就いている。その母体となっているのは五穀豊穣をつかさどる豊受大神だが、合祀された三島家の面々と開拓農民は開拓の当事者そのものであり、地縁としてはこれ以上ない濃密な存在となっている。




さて表を見ると、そろそろ初詣の参拝客が列をつくりはじめている。…なんだか、こういう神様視点で見下ろすアングルは不思議な感じがするな(^^;)

それにしても、考えてみれば第一世代の入植者がここに入ってもう130年が経つのだなぁ。その子孫はもう五世、六世といった世代になっていて、この行列の中にもおそらくリアルな "神様の子孫" がたくさん居るのだろう。…こんな地域が、果たして日本でどのくらいあるだろう。




やがて宮司さんがドーン、ドーン…と太鼓を打ち鳴らし、年明けを告げた。平成25年の開幕である。

「あけおめ〜」 「おめ〜」 の挨拶の声が多重音声のように響き、賽銭がちゃららっちゃら〜と景気よく投げ込まれ始めた。…願わくば、筆者の財布具合も今年は暖かくなってほしいものだが…はてさてw




さてそんな訳で筆者も初詣と洒落込もう。今回は拝殿から玉串をもって正式な形で参拝してみた。背後で一般参賀の皆さんがお参り中なのであまり視界を遮って撮影している余裕はなく、この写真だけで申し訳ない(^^;)

祈願の内容は、さきほど訪れた母智丘神社に倣って家内安全と武運長久、景気の爆上げと給料とボーナスの安泰(^^;)を祈り、ついでに反日国家の滅亡などをささやかに祈願してみた。地元ローカルな神様なんだから市内で完結する願いしか聞き入れません…などと言われたら困るのだが、まあそこはそれであるw




参拝後は、氏子さんの振る舞うお汁粉に舌鼓を打った。
背後では餅焼き部隊が 「ほぉぉああぁぁ〜〜〜っ♪ ┏( ̄◇ ̄;)┛」 と網の上で格闘している。見れば火加減がかなり豪快すぎるようだが、まあ細かいことは気にしないのが漢であろう。




そんな訳で、若干情熱がありすぎて炭化気味(笑)のお汁粉を頂きながら、このへんで今年最初のレポートを終わりにしたい。

本年もゆるゆるとよろしくお願いいたします〜ヽ(´ー`)ノ

【完】