2013.03.20 鉄と日本刀を訪ねる:備前長船編(その2)
■長船(おさふね)への道
さてではいよいよ本編に入りたい。最初の訪問地である備前長船に向けて旅立ったのは、まだ肌寒い3月19日の夜のことであった。なにゆえそんな夜間移動をしたのかというと、溜まっている有給休暇の消化密度にも限度はあるので(笑)効率重視で前夜移動のロケットスタートをしたのである。
長船では今回はたたら製鉄や鍛錬の実演が見られる訳ではないのだが、日本刀の最大の産地であったという歴史的経緯を通して、ざっくりとその全体像のようなものが概観できればよいくらいのスタンスでいる。とにかく日本刀といえば "備前長船" といわれるくらいの圧倒的な物量を誇った地域なので、道すがらスルーする訳にはいかないのである。きちんと眺めていくことにしよう。
余談になるが筆者の地元のヒーロー、那須与一宗高の刀はこの備前の産である。平家物語に語られる屋島合戦の際に装備していたとされる刀が那須家に代々伝わっており、大田原市の那須与一伝承館に実物が展示されている。作者は成高という刀工で、古備前派に特有の反りの大きな作風が見て取れる。古い時代の日本刀は、こんなぐいっと湾曲したスタイルだったのだ。
※写真は 「那須与一と那須家資料の世界」(那須与一伝承館/2007)より引用
そんな訳で、仕事を終えてから新幹線を乗り継いで5時間あまり。定刻通りに岡山に到着し、さすがに深夜に日本刀を求めて彷徨い歩くのはアレなので(笑)、この日はそのまま安宿に宿泊することにした。こういう無茶な移動をすると旅情もへったくれもなくなってしまうのだけれど、現地滞在時間をなるべく長くしたいのである程度の割り切りは必要である(^^;)
※ちなみに長船は駅前の桃太郎の像の眺めている方向にある。
■ 岡山から長船へ
さて夜が明けるとさっそく行動開始である。 岡山駅前でレンタカーをGETして、長船をめざしていく。天気はイマイチだがまあ気にしないで行こう。
駅前の 「桃太郎通り」 を東進するとやがて岡山城に至り、普通のミーハー観光ならばここで桃太郎饅頭とか吉備団子を食べながらお茶タイムを過ごすのが定番なのだろうけれど、今回はそっち系はスルーして南側に折れ、国道2号線 (=かつての山陽道) に乗った。夕方には次の目的地である出雲に向かう列車に乗らねばならないので、気分はゆるゆるでも効率的に動きたい。
岡山の市街地から長船まではおよそ20km、たいした距離ではなさそうだが市街地ではクルマの混雑があり、レンタカーで走ると40分くらいかけて到達することになる。混雑区域を抜けてしばらく行くと、やがて吉井川がみえてきた。
さて先走って写真をずらずら並べ始める前に、まずここで地理的な説明をしておきたい。長船は瀬戸内海に面した東西40kmにも及ぶ広大な岡山平野の東端に位置している。岡山平野は河川の集中ポイントで、もともとは幾つもの島があったところに川の運んでくる土砂が堆積してできた洪積平野である。現在は干拓が進んで広大な平野になっているけれども、平安時代〜鎌倉時代の頃は沿岸部に干潟が多く、児島湾は倉敷付近で海峡となって抜けていた。良港と平野、豊富な河川に恵まれて、ここは人文がとても古い。
そのメジャーな川筋のひとつに吉井川があり、その川に添って海から16kmほど遡ったところに長船はある。ここはちょうど山陽道の陸運と吉井川の船運が交錯するところで、物流基地とするには非常によい条件が整っていた。吉井川をさらに遡っていけばやがて美作(みまさか)国に至り、ここは鉄を産する地であったので、刀剣の原料供給はこの水運に依ったのだろう。製品はやはり吉井川の流れに乗って海に下り、瀬戸内海の舟運を通じて全国に散っていった。現代風の捉え方をすれば、原料、製造、流通が一体となったコンビナートの原型が、ここに垣間見えているように思える。
日本刀の原料となる砂鉄の分布をみると、比較的近場に良質の鉱床が分布している。日本では地質的に鉄鉱石よりも砂鉄のほうが得やすく、ゆえに砂鉄を原料とした製鉄が盛んであった。なかでも中国地方は砂鉄を豊かに産し、それを精錬するための燃料(木炭)にも事欠かなかったので、早くから国内最大級の鉄の供給地となっていた。
砂鉄はそれを含む母岩によって成分が異なり、製鉄の観点からは 「真砂(まさご)」 と 「赤目(あこめ)」 という分類で分けるのが一般的のようである。鉄であることに変わりはないのだが含まれる不純物が異なり、チタンなどの非鉄金属を多く含むのが赤目、鉄の純度が高いものを真砂と呼んでいるらしい。中国地方では大雑把にいって瀬戸内海側で赤目が多く、日本海側で真砂が多く取れる。
刀剣の入門書籍を読むと 「日本刀の材料には真砂砂鉄から作った玉鋼が使われる」 とよく書いてあるけれども、調べてみるとそれはどうやら近世になってからのことのようで、古くは赤目砂鉄も刀剣の材料としては盛んにつかわれていたらしい。 長船も、立ち上がりの時期は赤目砂鉄を原料につかっている。
赤目砂鉄は還元(→酸化鉄の状態から酸素を取り除く)が比較的容易で、得られた鉄は流動性がたかく鋳物によく使われた。ただしそのままでは強度的に脆(もろ)いので、一手間かけて刃物に向いた組成にしてから (→鍛冶の世界ではこれを "卸す" という) 刀剣に使用する。日本刀黎明期の材料は、むしろこういうものが多かった。
しかしやがて切れ味のよい刃物を求めて鉄の材質に対する要求が高くなり、やがて真砂砂鉄で作られた玉鋼(特に出雲産のもの)が好まれるようになっていく。このくだりは突き詰め始めるとややこしいので、ここではあまり深く考えず出雲編でもう少し詳しく書いてみたい。
■ 長船集落に入る
さてR2を降りて、長船集落の付近に入ってみた。…が、ぱっと見た感じは普通の田舎町という感じで、なにか特別なインダストリアル・シティというような雰囲気はさっぱり感じられない。案外地味なところだな…というのが正直なところである。
…というか、有名な割にあまりも観光案内標識などが無さすぎる。筆者はもっとこう、ズババーンと看板とか城砦オブジェとかがあるのかと思っていたのだが、 鎧武者とか忍者もいないし、道端で素振りをしている剣豪もいなければミニスカに網タイツのくの一嬢(ぉぃ)も歩いていないのである。…なんたることであろうか!ヽ(`◇´)ノ
…まあ冗談はともかく(笑)、筆者は割と真面目なレポートをしようと心がけているので(え? ^^;)、ここで長船の周辺MAPについていくらか解説をしておきたい。鎌倉時代から戦国時代までの吉井川にはいくつかに分流した流れがあったらしいが、江戸時代以降の川筋はほぼ一定で、上記地図で中州が点々と続いているあたりが山陽道の渡しの痕跡らしい。
一見してわかるように、ここは西日本の主要街道=山陽道(現:R2)の陸運と吉井川の水運が交錯し、また川を下ればすぐに瀬戸内海に出られることから古くから物流の要衝となっていた。そして荷物の動くところには商機があり、長船の南西2kmほどには西日本有数の商業都市:福岡があって大いに繁栄していた。長船の刀剣はここで取引されて遠方まで運ばれており、マーケットまでの近さはほとんど反則(笑)のような有利さである。
原料調達のうえでもここは有利だった。吉井川は上流に鉄鉱床地帯があり川砂は砂鉄を含んでいる。強力磁石で集める現代風のやりかたなら目の前の河原でも集めることができ、昔ながらの比重選鉱(いわゆる鉄穴流し)をやるなら上流の山間部に行く必要があったが、運搬は船で川を下ればよく、調達に支障はあまりなかった。
この舟運が使えるというのが物資を輸送するうえでは非常に有利であることを我々は知らねばならない。陸運で特に山間部の物流を賄おうとすると、小口に分けた荷物ごとに牛馬が必要であり、それらを運用するには餌場と水場を用意して駅を置き、さらにいちいち馬子をつける必要があった。これが舟運なら高瀬舟程度の小船でも米百俵くらいは積むことが出来、船頭は一人で間に合ったので効率、コストの点で圧倒的なのである。
長船の繁栄は、この水のネットワークなしではちょっと考えにくい。とある地方にひとつの産業が立ち上がるには、やはりそこならではの立地というのが大きいのだろう。
<つづく>
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