2013.03.23 鉄と日本刀を訪ねる:出雲編(後編その2)




■ 鬼神神社 〜 村雲 〜 そして斐伊川




さて日刀保たたらを見た後は、時計をチラチラと気にしながら(^^;)、近くにある鬼神神社に寄っていくことにした。ここは朝一番で立ち寄った伊賀多気神社の祭神=五十猛神の陵墓とされるところで、古くから八岐大蛇の怨霊が出るとの言い伝えがある。

五十猛神は記紀神話では日本国中に木を植えまくった果てに、最後に紀伊国(古代では木国)に静まったことになっている。ここに陵墓があるということは神様も死ぬのか?…などとツッコミを入れたくなったりもするのだが、そのむかし治山と植林を指導した地元の親分さんが五十猛神の名で葬られているのかもしれない。



移動の途中、水田の中で "神跡碑" なる石碑をみる。どうやらこれはスサノオ(素戔嗚)神の降臨地を示すものらしく、聞けばここの字(あざな)は "鳥上" なのだという。鳥上とは記紀神話に書かれたスサノオ降臨の地名で、筆者はてっきり船通山のてっぺんかと思ったのだがどうやら違うらしい。(※山頂だとする説もある)



やがて1km少々で鬼神神社に到着。本来は五十猛神の陵墓の筈なのに、オロチの怨霊(鬼神)のほうのウェイトが高くなってしまって、今ではすっかり主客逆転してしまっている不思議な神社だ。




…が、そのあたりを書き始めると、ただでさえ長いレポートがまたもや収集がつかなくなりそうなので詳細はカット(^^;)




むしろ筆者が面白いと思ったのは神社本体よりもその所在地の字(あざな)のほうである。ここは村雲といって、もちろん元ネタは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)のあの "むらくも" である。ここは大蛇(おろち)を退治した場所とも伝えられていて、古代の鉄剣史(あくまでも伝承レベルではあるけれども)を考えるうえでは非常に象徴的な場所となっている。




その "村雲" を流れる斐伊川は、やはり砂地基調を呈していた。もうすっかり源流域で、大きめの石がゴロゴロしているけれども、相変わらず "砂鉄の川" であり続けている。




もちろんそれは、風化した花崗岩(真砂土)がそこらじゅうに満ち溢れているからだ。

産業としてのたたら製鉄がほぼ消滅した今でも、川には自然の浸食作用でその砂が流れ込み、天然の比重選鉱のプロセスは静かに働き続けている。…そして流れの緩やかなところでは、砂鉄はそれこそ真っ黒になって堆積しているのである。




ためしに手で掬(すく)ってみると、水を含んだ砂鉄はまるでバターかラードのような "ねっとり" とした感触で、ずしりと重かった。一般的な岩石=石英や長石などに比べると、砂鉄は比重が3倍もあり、手感であきらかに 「特別なもの」 であることがわかる。古代人もきっと、この不思議な黒い粉末を初めて見たときには、何らかの驚きをもって眺めたにちがいない。




さて時計をみるともう 8:30を過ぎている。そろそろ横田集落にむかって引き返すべき頃合いだろう。資料館のオープン時間は10:00と聞いているけれども、せっかく早朝から行動開始しているのだから、あまり行列の後ろにならない程度には先着しておきたい。

…そんな訳で、叢雲に煙る船通山をしばし見上げて、筆者は神話スポットを後にした。…もうあと1日あれば、もっと丁寧な取材ができたのかもしれないが…まあ、期待した以上の収穫はあったので、良しとしよう(^^;)





■ 奥出雲たたらと刀剣館




さてそんな訳で、早朝のお散歩ドライブはひとまず終了。お目当ての奥出雲たたらと刀剣館に到着したのは午前8:50のことであった。さすがに開演時間の1時間前には並んでいないとまずいだろう…と思ってのことである。




しかし結論からいうと、どうやらこれは過剰な対応であったらしい。

…なにしろ人がいない(笑)




出雲では定刻前に集合するという感覚がなく 「出雲時間」 などと言われるそうだが、まさかこんなところでそれを知ることになろうとは( ̄▽ ̄;) …仕方がないので臨時の缶コーヒー休憩を入れながら、40分ほど家康のホトトギス気分で待つ。




やがて係員氏が出社してきて開館。刀鍛冶の中の人もやってきて 「早いですねぇ」 などと声をかけてくださった。話しぶりからすると、やはり定刻前にやってきて 「待つ」 という行為は、出雲では非常に奇異なものであるらしいw




ともかく、定刻より20分ほど早く館内に入る。おもむろに展示してあるのは再現された天叢雲剣。…もちろん真剣である。

説明を読むと、奥出雲神代神楽で使うために作刀したものとある。学術的な再現刀ではなく、あくまでも神楽の小道具ではあるけれど、しかしこういうものがしっかりと本物の刀剣として作られているところは素晴らしい。

※現在皇室に伝わっている天叢雲剣は長らく封印されたままで正確な形状はわかっていない。




現代の技術で作られた剣は、綾杉肌風の地金に直刃(すぐは)の刃紋で作られていた。綾杉肌は月山派に多い作風で、聞けばこれを打った刀匠:小林貞永氏はたしかに月山派の系譜なのである。また直刃は奉納刀や貴人への献上刀にしばしば用いられるものだが、材質の均一性、芯/皮の合わせの均一性、そして焼き入れの温度管理などが高度にバランスしていないと綺麗には仕上がらない。これが諸刃の剣で作れるということは、技量がすぐれて高いことを示している。

※偉そうなことを書いているが筆者は素人なので論評部分は実はハズレれいるかもしれない(^^;)




さて館内はたたら炉の解説とそこで得られた玉鋼による日本刀の展示が主要な内容になるのだが、原則は撮影禁止で残念ながら全容をレポートすることは出来ない。ではどうして筆者は撮影できたかというと、刀匠さんに 「こちらはウチのものですからOKですよ」 と刀剣関係の部分だけ許可を頂くことができたからだ。これは素直に感謝申し上げたい。

館内の展示物は、たたら関係の物が日立金属(→日刀保たたら)の持ち物、刀剣関係が鍛冶職人:小林家一門(→今回実演していただける刀匠さんの家)の持ち物で、展示館は建物(ハコ)を用意してこれらの展示品を借りているという関係にある。たたら関係の展示は実物大の炉の断面図など見どころも多いのだが、なにしろヴィジュアルが何もないと写真紀行としては非常にやりづらいので(^^;)、今回は刀剣に関する部分のみの紹介に留める。




ちなみに小林家は安来の鉄山師の家系で、初代となる小林才兵衛以来、本業は基本的には大鍛冶職人であるという。日本刀はもともと軍刀を打っており、五代目の大四郎(貞善)のとき人間国宝:月山貞一の門人となり、月山派の作風が入った。一門としての強みは全盛期の "たたら製鉄" から大鍛冶、小鍛冶に至る代々の豊富な技術蓄積を継承していることで、一言でいえば出来ることの幅がとても広いということらしい。




本日は、このうち七代目の貞俊氏が作業のメインとなり、六代目の貞永氏がアシスト+解説するという形で実技が行われる。いままでえらく前振りが長かったような気もするけれど、いよいよその状況を紹介してみたい。


<つづく>