2013.03.23 鉄と日本刀を訪ねる:出雲編(後編その5)




■ 積み沸かし




さてそれでは午前中の続きである。食事をしている間に、泥水の水分がイイカンジに藁灰に吸われて反乾きっぽくなっている。狙った状態かどうかは不明だが、この状態でいよいよ積み沸かしに入っていく。



見ていると、心持ち火力が強くなっているような気がする。ここにさきほどのテコ棒を入れて加熱していく。午前中に比べると、過熱している時間も長くなっている。いよいよ本格稼働ということらしい。




やがて火炉から取り出された玉鋼は、バチバチと火花を散らして表面が沸騰したような状態になっていた。おお…これが、"沸く" という状態か!?




この状態では単に積み木を積んだだけの状態なので、6代目がアシストに入って慎重に鍛着させる。ゆっくり、静かに、コン…、コン…、という感じで叩いていく。間違っても、いきなり馬鹿力でガッチーン! …なんてやらない(^^;)




硼砂の働きが素晴らしいのか、沸かし方が巧いのか、叩き方が名人芸なのか(たぶん全部なのだろう) 筆者にはよくわからなかったが、積み木みたいな玉鋼の欠片(かけら)はあっという間に鍛着して、転がしても平気な状態になった。ここから先は、力技で叩くことが可能になってくるらしい。藁灰をまぶして、泥水をかけて、ふたたび沸かしに入る。



化学的には、藁灰にも泥水にも、珪酸が含まれている。これが熱で溶けると薄いガラス状のコーティングになり、鉄の表面が酸化して目減りしていくのを防ぐ効果があるという。叩けば飛び散ってしまう程度のコーティングで、鍛錬作業には影響を与えない程度の、ちょうど具合のいい働きをするらしい。どこにでもある材料でこういう効果を見出すとは驚くべきことである。昔の人はよく考え付いたなぁ。




さて刀匠さんは、鞴(ふいご)の取っ手を大きく前後させて、ゴーーーッ、ゴーーーッ…と火力を強力に維持しているようだ。その間、玉鋼の赤熱する色をじっと見つめている。

玉鋼は放っておけば表面ばかりがどんどん融け落ちていってしまう。そうならないように表面を藁灰と泥でコーティングしている訳だが、それを加熱する火加減もまた微妙なコントロールが必要とされるらしい。聞けば重要なのは表面と中心部の温度差が小さくなるように制御することで、バカみたいにガンガン熱を加えれば良いというものではないらしい。




やがて、また "沸いた" 玉鋼が取り出された。沸騰する鉄なんて滅多に見る機会はないけれど、やはり迫力が違う。炭火でこんな温度にまで加熱できるというのも凄い。松炭の炎というのは、料理に使うような備長炭とはまったく違う、剛毅な炎なのだ。




この状態で素早く藁灰の上を転がし、少し控え目な力加減で叩いて、より鍛着を確かなものにしていく。




おお…サラミのスライスを重ねたような状態だったものが、すっかり一体化してしまっている。これは大したものだなぁ。



 

■ 折り返し鍛錬




やがてテコ先に切刃で切込みを入れて…




折り返し開始。




コンコン叩いて折り返していく。千切れそうで千切れないのが面白い。




折り返した部分はぴったりと重なってズレたりしていない。




この状態で、また藁灰をつけて、泥水をかける。




そしてまた加熱。




沸いたところで藁灰をつけて、ここから渾身の鍛錬作業が始まる。大金槌を振り上げて…




勢いよく振り下ろすと、ガチーン…!! と火花が散る。今回はISO感度を3200まで上げて撮っているので火花が尾を引いていないけれども(^^;)、スローシャッター気味にして撮ればきれいな尾が見える筈である。




そうしている間にも、向こう槌、相槌が小気味よく、カキーン、カキーン…と響いていく。




見ていると、野球の打撃フォームのように打つたびにきっちりと型がキマっている。重要なのは金床面に対して綺麗に垂直方向に降りおろし、均等な打撃を加えることにあるようだ。

…見ていると、玉鋼が沸いている最初のうちが一番派手に火花が散っていて、冷えてくると散り方がおとなしくなってくるのがわかる。写真を撮るうえではとにかく最初の一発目をうまく捉えるのがコツといえばコツになるのだろう。火花が散るのはほんの一瞬だから、シャッターチャンスは逃さないようにしたい(^^;)




再度沸かして、藁灰をつけたテコ先。綺麗に折り曲げられて鍛着している。これをまた打ち伸ばして整形し、さらに折り曲げていくのである。




…が、真面目に折り返し鍛錬を続けると、10回以上も同じ作業を繰り返すことになるので、とてもではないが時間内には終わらない。そんな次第で、適度なところで観客の参加タイムに移る。これは正直なところ、とても楽しい(笑)

しかし筆者もいくらか打たせて頂いたのだけれど、沸かして柔らかくなっているとはいえ、ちょっとやそこらの力加減では全然 "鍛える" レベルには達しない(^^;) とにかく見るのと実際にするのでは、まったく違うのである。刀匠さんはいかにも 「普通ですヨ、ははは♪」 という感じで作業をしているのだけれど、やはり年季の入り方は半端ではなかったw



ところで素人が玉鋼を叩いて、打ち所がわるくて何か悪影響が出たりしないか…と思われる方もいるかもしれない。しかしそれは稀憂である。なぜならここで行われている鍛錬はいわゆる下鍛えで、これをそのまま伸ばして刀にする訳ではないからだ。




写真がピンボケで申し訳ないけれども(^^;)、折り返し鍛錬には下鍛えと上鍛えの2段階がある。下鍛えはまず鋼を練り混ぜて均等にすることが目的で、こうして鍛えた玉鋼は薄い短冊状に伸ばして切断され、これをさらに積み木のように積んで上鍛えをする。観客が手を出している部分は後からフォローが効く上流側の工程ということになる。

ちなみに単に 「切る道具」 として刀を捉えた場合は、こんな手の込んだ鍛え方をする必然性は薄いらしい。上鍛えの積み木細工の目的は地金の文様を綺麗に出すことにあって、流派によっていろいろな手法に分かれる。ただいずれも高級刀剣としての打ち方であり、安価な量産刀では予算と納期によってさまざまな簡略化が有り得た。現代は美術刀剣の時代だから、高級な作り方が前面に出てきていて、我々もそれを目にすることが多いというだけのことである。



そうこうしている間に時間は過ぎ、本日のフィニッシュの準備として刀匠さんの最後の沸かしと整形作業が始まった。中途半端な状態では終われないので、角コンニャク風味の状態にまで整形してフィニッシュするのだ。




ここからは機械打ちでリズミカルにカン、カン、カン…とラストスパートが始まる。




あっという間にこんなきれいな形に成形。酸化被膜も綺麗に飛んで、まるでオレンジ果汁入りのアイスバーのような形状が出来上がった。…とりあえず、ここまでで本日の実演はお終いである。

いやー、それにしても素晴らしく面白いものを拝見することができたなぁ…! ヽ(´ー`)ノ



 

 ■ 後片づけ




さて最後は後始末。火炉(ほど)は神様のいる場所でもあるので、炭はざっくりと回収して掃除をする。やりっ放しにはしないところに、神事としての側面が見えているような気がする。




…と、「面白いものがありますよ、うひひ」 と炭の底から何かが取り出された。




まだ真っ赤に焼けている鉄滓である。細心の注意を払っていても、鉄は沸かしている間にどんどん目減りしていってしまう。こうして融け落ちた鉄は、藁灰や泥水の珪酸成分と混ざり合って炉の底に溜っていく。平たく言えばガラスと鉄の混ざりもので、鉄としての純度は低いので鍛冶ではもはや使い物にはならない。




充分に冷えるとこんな外観になる。これは俗に 「カナクソ」 などと呼ばれるシロモノで、鍛冶遺跡の跡地にはこれが大量に転がっている。つまりこれが出れば 「かつてここで鍛冶が行われた」 という考古学的な判断が成り立つわけだ。

※明治時代、洋式の角炉が導入された頃にこのカナクソを拾い集めて製鉄の材料にすることが試みられたことがある。結果は、銑鉄をつくる材料にはなったらしいが、あまり長続きはしなかったらしい(^^;)



後片付けをしている数分間の間に、テコ先は冷えて金属色になってきた。まだ触れるような温度ではないけれども、鈍い銀色に輝く "日本刀の原型" としてのテイストがほの見えている。




これがさらに鍛えられて、やがて日本刀になっていく訳だなぁ…




さて時計をみるともう午後三時。そろそろ引き上げないと、レンタカーの時間制限に引っかかってしまうし、鉄道ダイヤの都合もある。…名残惜しいけれども、ここで撤退することとしよう。



 

■ 出雲から去る




帰路は、出来たばかりの松江自動車道でショートカットしながら出雲平野に戻るルートをとった。

道すがら、斐伊川のほとりに桜が開花しているのをみる。どうやら筆者が滞在している3日間のうちに、桜前線が通り過ぎていったらしい。…いよいよ、春の到来なんだなぁ。




松江自動車道 → 山陰自動車道と爆走して宍道ICで降りると、そこはひろびろとした出雲平野。なんだか奥出雲での体験が濃密すぎて、ものすごく久しぶりに見たような気分だ(笑)




特急の時刻まで少々余裕があったので、10分ほどの無駄足をして筆者は最後にもう一目だけ、宍道湖に注ぐ斐伊川を見に行った。…もちろん、3日間で大した変化があった訳ではないのだが、この偉大なる川の風景を、もういちど見ておきたかったのである。

今日もまた、何cmか砂州は沖に伸びたのだろうか。鉄穴流しが盛んに行われていた時代と違って、現在の斐伊川はほぼ自然の浸食作用の範囲でのみ、砂を運び、砂鉄を堆積させ、ゆっくりと宍道湖を埋め立て続けている。その水の流れは、ほとんど音も立てずに、薄く、広く、芦原の中を抜けては、湖面に溶け込むように消えている。

…それは、日本で製鉄が本格的に立ち上がる以前の、古い古い風景の残照のような気がした。




…さて、次に向かうのは、岐阜県の関である。

神話の時代、鉄の時代の黎明期から抜け出して、そこでは戦国末期の刀の姿が見られる筈なのだが…はてさて、どういう旅になるのだろう。


<出雲編:完 - 関編につづく>




■ あとがき


いやー、長いっ、…長すぎますっ。これでも実は相当に端折ったつもりなんですが、結局いつものようにダラダラな内容になってしまいました。数えてみたら、出雲編は前/中/後編併せて写真/図表が480枚(^^;) …こんなに無駄に長いレポートになってしまったのは、もちろん書きたいことが山盛りだったというのが最大の原因な訳ですが、やはり多少は自重しないといけませんね。読みにくかったら申し訳ありません。




さてこの出雲編を振り返ってみますと、日本刀というよりは古代製鉄の黎明期の姿はどうだったのだろう…といった視点の内容から始まって、砂鉄による製鉄、そして実際の刀剣の鍛錬の様子までを駆け足で見るような構成になりました。そのなかでも一番筆者の印象に残ったのは、一本の日本刀が出来るまでにそぎ落とされていく大量の資源…そのあまりの多さでした。

まず砂鉄を採る段階で、真砂土の砂の成分(99%)を流し去り、たたら炉ではその砂鉄の9割を失って1割の玉鋼を得ます。さらにその玉鋼は鍛錬の過程で9割が失われて、ようやく1kg前後の日本刀の刀身が出来上がるわけです。単純計算で概算すると1本の日本刀を得るには真砂土が10トン必要…(^^;) まあいわゆる束刀(戦国時代に一山いくらで取引された量産刀)などは鍛錬回数も少なめでなるべく目減りを減らしたりしたんでしょうけど、それにしても、刀が生まれてくるまでに経た工数の多さとそぎ落とされた資源というのは膨大です。博物館でショーケースの中に飾ってある日本刀を 「ふーん」 と眺めるだけでは、こういう背景事情はなかなか分かりません。やはり、それが生まれてくる風土というものを見て 「実感」 することが必要だと思います。


■ 序章としての古代朝鮮史について




さて筆者は割とミーハーなノリでこのシリーズを企画して安易に歩き回っている訳ですが、日本刀の生まれてくる背景を考えていくと、どうしても古代朝鮮の事情をバックボーンとして知っておく必要があります。朝鮮というよりも "唐" の勃興に伴うアジアのパワーバランス…といった方が良いかもしれません。もういちどここで整理しておきましょう。

朝鮮半島の鉄資源は、現在の北朝鮮と中国の国境付近に主要な鉄鉱床が広がっていて、半島の中部には何もなく、南端の伽耶の付近にピンポイント的にきわめて良質の鉄鋼石が採れる鉱床があります。古墳時代の日本(倭)は主にここの鉄に依存していて、古墳の副葬品として出土する鉄剣はここで造られたのではないかと言われています。この時代には日本列島ではまだ本格的な製鉄遺構が発見されていませんが、倭人が鉄の買い付けにしばしば訪れていたことがわかっており、精錬された素材鉄(鉄板の形で売られていた)を持ち帰って加工していたようです。

この伽耶の地域は周辺を山に囲まれて防御性にすぐれ、なかなか外部の征服を受けずに小国家が群立しているような状態でした。4〜5世紀には日本式の弥生土器や前方後円墳が造られるなど、日本(倭)の強い影響下にあったことがわかっており、任那日本府はそこに作られた日本の出先機関であったようです。この頃は中国大陸は群雄割拠の時代で統一王朝がありませんので、日本の武力が相対的に強く、地域覇権は日本のものでした。新羅、百済は日本に対して臣下の礼をとり朝貢していたのです。

しかしこれが、隋(→このときは高句麗が抵抗して朝鮮半島は影響下に入っていない)、そして唐と中国の巨大王朝が誕生すると、朝鮮半島は次第にその影響下に飲み込まれ、7世紀後半には日本は半島から駆逐されてしまいます。このとき最初に日本を裏切って唐の子分になったのが新羅で、これがこののち300年ほど日本の安全保障体制を苦しめる元凶となる訳ですが、おかげで日本は覚悟を決めて国内で鉄を自給しようと本気で資源開発を始めます。(鉄だけではなく、金、銀、銅などの鉱物資源も一緒で、飛鳥時代末期から奈良時代にかけて次々と鉱床がみつかって開発が進んでいきます。いずれもそれまでは国内では産しないと思われていたものでした)

白村江の戦いから40年ほど途絶えていた大陸との交流は、702年の遣唐使から徐々に再開していきますが、日本は唐からの冊封を拒否してその臣下にはならなかったため、本文でも述べたように入境は20年に1度に制限されてしまいます。よって交流の密度は学校の教科書でヨイショされているほど密接なものにはならず、当たり障りのない四書五経や仏典ばかりが入ってきて、軍事分野での情報交換はほとんどありませんでした。武器の量産につながる製鉄法(炒鋼法)などは秘匿され、当時の最先端技術である火薬に至ってはその存在すら伝わりませんでした。

…こういう状況の中で、日本の製鉄は古代朝鮮の製鉄民の "古墳時代の技術ベース" を元に独特の進化を遂げていくことになるのですね。





さて出雲からの帰路、宍道湖から中海をかすめて岡山に抜ける途中、車窓から大山(だいせん)が見えました。伯耆国として分割されてしまった、かつての旧出雲国の東半分のシンボル的な霊峰です。あの山麓に、10世紀ごろ安綱という刀匠が現れ、在銘最古ともいわれる刀を打ちます。姿は古備前によく似た作風で、のちにこれは源頼光が酒呑童子を斬った刀として 「童子切り」 の名を冠され、足利将軍家を経て秀吉、家康へと渡り、さらに平家の末裔である津山藩:松平家を経て現在は国有財産となっています。




ただ銘のある刀としては最古…といわれる童子切りですが、このとき既に刀の形式は片刃の湾刀となっていて、かつての直刀時代の面影はありません。日本刀の誕生は、これよりも前の時代、平安前期くらいだろうと言われています。残念ながら今回の探訪コースではその時代の痕跡というのは確認できませんが、筆者的には興味津々なところで、ぜひとも別途探訪をしてみたいと思っています。

…といっても、次の行先=関は戦国期のマス・プロダクトという感じのところで、またちょっと視点が変わってしまうのですけれどね(笑)

そんな訳で、あまり長々とあとがきを引っ張るのもアレですので、このあたりにしておきたいと思いますヽ(´ー`)ノ

※刀の写真は Wikipedia のフリー素材から引用


<おしまい>