2013.05.25 那須殺生石:御神火祭 〜玄翁和尚の周辺〜(その4)




■絵本三国妖婦伝にみる玄翁和尚




さて事実関係は案外渋くて地味な一方、物語としての殺生石物語は派手に展開している。

もともとの玉藻前伝説からどのような尾鰭の付き方で壮大なSAGA(サーガ)に発展したのか、その全体像は実のところ素人調査ではなかなか分からない。…が、その到達点のひとつとして、江戸時代の文献で絵本三国妖婦伝(文化元年/1804、高井蘭山)というのがおそらく最も詳細に書かれたもののひとつと思われるので紹介してみたい。

この書物は、古い伝承がかつて部分ごとにバラバラに絵巻物等に分かれていたものを統一して一本のストーリーにつなげたもので、江戸時代の読み本としては大ヒットを飛ばし、のちにこれを元にした歌舞伎や謡曲がさかんにつくられた。江戸時代の版木本は少々筆致が達筆すぎて読むのに苦労するが、明治時代になって活版印刷された版では変体仮名(※)の一覧表さえあれば中学生程度の古典の素養でなんとか読むことができる。

そんなわけで筆者もこの版を斜め読みしてみたのだが…これが結構、面白いのである(^^;)

※変体仮名:文部省令で統一される以前のひらがなには多くの異字体があり、これらは変体仮名と呼ばれている。残念ながら現在の中学/高校の古典の教科書ではこれらは統一字体に置き換えられているので、それでわかったつもりになっていると本物の古典を目にしたときにカルチャーショックをうけるかもしれない(^^;)




さてそもそも物語の冒頭部分からしてなかなかイカしているので、少しばかり引用してみよう。



夫(そ)れ太極の一理陰陽の両儀と別れて天あれば地あり暑あれば寒あり男有れば女あり善あれば悪あり吉あれば凶ありされば乾坤(けんこん)開闢(かいびゃく)呂律の気は清みて軽きは昇つて天となり濁りて重きは降りて地と成り中和の霊気大となれり。大日本には國常立尊(くにとよだちのみこと)、唐土(もろこし)は盤古氏、天竺には毘婆尸佛を人の始めとす。其の大気禽獣となる時に不正の陰気凝って一箇の狐となるあり。開闢(かいびゃく)より以来年数を経て終(つひ)に姿を変じ全身金色に化して面ハ白く九ツの尾あり名つけて白面金毛九尾の狐といへり。元来邪悪妖気の生ずる所ゆへ世の人民を殺し盡(つく)し魔界となさんとす。



まさか天地創造から始まるとは思わなかったが、書き出しは陰陽道の原理をもとに世界の理(ことわり)が述べられ、九尾の狐が誕生するまでを一気に語る。天地に分かれた原初の混沌から霊気が生まれ、その中の邪悪な気が凝縮して妖狐と変じたとあるが、このくらい大風呂敷を広げてくれると読むほうもテンションが上がる♪

それにしても中学/高校の古典の授業も、こういうのを教材にすれば眠くならずに済むと思うのだが…まあそれはそれとしてここでは置いておこう(^^;)




さて全部紹介していると紙面が足りなくなるので途中は大幅カットして三浦介/上総介の段も省略し、今回のテーマである玄翁和尚の登場するあたりまで話を進めたい。

一度は倒された九尾の狐の怨念が殺生石に姿を変えたのち、周囲には陰陽師安陪泰成によって近づくべからずとする禁制の札が立てられたが、近づいた動物の死骸が山のようになっているとの報告に、朝廷はふたたびこれを退治すべく高僧を派遣することになる。




しかしいきなり玄翁和尚が呼ばれた訳ではなく、最初に派遣されたのは妖怪変化調伏の専門家=密教系寺院の高僧であった。文中には紀伊国紀三井寺の浄恵、播磨国書写山(圓教寺)の了空坊、筑前国真静寺の道基阿闍梨の名がみえる。

特にトップバッターとして殺生石に敗れた浄恵は天台宗の僧であり、天台宗は曹洞宗の草創期に開祖道元を攻撃していた歴史がある(※)ことから、もしかすると作者はそれを知っていて意趣返しをしているのかもしれないが…いやそれは考えすぎかな(^^;)

※紀三井寺、圓教寺は現在も実在するが、作中の僧はどうやら架空の人物のように思える。
※道元は元々は天台宗の僧で、宋に渡って天台系の仏典を持ち帰るはずが、現地で曹洞宗の門下に入って帰国後に独立、曹洞宗を立ち上げたのでイロイロと意地悪をされた経緯がある





そして、そこに颯爽と登場するのが玄翁和尚なのである。

絵本三国妖婦伝では泉渓寺の名はみえず播磨国法華寺の僧と書いてある。ただし筆者がにわか調査した限りではどうも播磨で法華寺というのは見つからず、このへんは何かテキトーに書き飛ばされているような気がしないでもない。

また特徴的なのは時代が80〜100年ほど圧縮されていることで、作中では玄翁和尚は鎌倉時代の後深草院(1243-1304)に呼び出されたことになっており、後円融上皇/後小松天皇の名は見えない。これは当時なりの大人の事情によるものと思われ、どんな事情かといえば出版年代が国学/水戸学隆盛の時代であるから、世の中の風潮として南北朝時代の(特に北朝側の)天皇を登場させると、その正統性を巡ってイロイロと問題になる可能性があったのではないかと筆者は推測している。



さて物語の本筋に話を戻そう。細かいことは端折って記すと、播磨から京都御所に呼び出された玄翁は、勅を受けるとそのまま関東に向かい、途中鎌倉で征夷大将軍宗尊親王(執権は北条時頼)に謁見して殺生石得度に向かう旨の報告をしてから那須に入ったとある。もちろんこんな史実はないのだが、大人の事情でタイムスリップしたとはいえ武家政権である鎌倉殿に一言挨拶をしておかないといけないやはり大人の事情があったのだろう(^^;)

このとき玄翁は弟子は連れず、ただ一人綿服に麻布の三衣を着し右手には拂子(ほっす)、左手には念珠、足は草鞋(わらじ)履きという軽装で殺生石に挑んだ。こんな軽装で山に向かうなんて登山の常識としてはアレなのだが、もちろんそのあたりは物語なので気にしてはいけないw



いよいよ殺生石に近づくと 「忽ち妖風烈しく吹き来て一歩もあゆむべからず身を横にそむけ拂子を打ち振り風をよけ大乗妙典高らかによみかけよみかけ近づきければ不思議や着せし衣服衣もずたずたに吹き裂け破れみだれて荒和布の如くなりけれども身には其の毒中(あた)らざりし難なく石の側により経文読誦し…」 と講談調に盛り上がって、ついに石の中から玉藻前が姿を現わす。

…が、玄翁はおそらく臨済宗の僧ならば延々と論理立てて妖狐に説教するであろう場面で、
いきなり一喝して 「煩悩即菩提」 で済ませてしまうのである(^0^;) さすがは体育会系の肉体派というか、解決方法がまっすぐで清々しい。



驚くべきなのは玉藻前がそれで納得してしまうところで(ぉぃ ^^;)、これだと序盤戦で敗れた浄恵、了空坊、道基の立つ瀬が無いわけだが、脇役の悲しさか彼らの名誉については何のフォローもないのであった。




斯くして、玉藻前は 「修羅の輪廻に浮かぶまじき大悪念、暫時に解脱するこの嬉しさよ」 と言い残して煙のごとく成仏してしまう。そしていよいよ、殺生石が砕かれるのである。この場面は絵本三国妖婦伝では以下のように描かれている。



玄翁猶(なほ)も念珠をふりあげ阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)石に精あり水に音あり風は太虚にわたると叱志て殺生石をはっ志と打てばふしぎや苔むしたる大石二ツにわれ一條の白気立ちのほり砕けし石の細かなるを交じへ西の空へ行衛も見ずたな引き去りける。



おお、最後もやっぱり "喝" なんだなぁ…(^^;) ちなみにこのとき玄翁は打撃系の武器は携帯しておらず、右手に拂子(ほっす:払子とも)、左手に念珠という恰好である。禅宗では拂子は煩悩を打ち払う法具ということになっているので、文意としては煩悩を払ったら石が割れた…ということのようだ。

なお解説するのも野暮な話だが飛んで行った先が 「西の空」 なのは仏教における西方浄土の象徴と思われ、阿耨多羅三藐三菩提とは正しい悟りのことで、この場面は座禅において突然訪れるという悟りの境地=頓悟を象徴しているらしい。

※ちなみに突然訪れる悟りが 「頓悟」 なら、突然ひらめく知恵は 「頓智(とんち)」 であり、こちらは臨済宗の名僧一休宗純の専売特許のような感があるがいずれも禅宗の概念である。
※一部の世代の方々は阿耨多羅三藐三菩提というと特撮ヒーローのレインボーマン(古っ ^^;)の変身の呪文だと思っているかもしれないが、これはレッキとした仏教用語である。





さて割れた殺生石のその後については、絵本三国妖婦伝では玄翁が破片のひとつを持ち帰り、地蔵の像に彫り上げて京都に祀ったとある。それ以外には長門国の萩の古郷というところに落ちたものが玉藻大明神となり、美作国の高田に落ちたものは玉藻大権現となったとある。それ以外の詳細は書かれていない。




…が、これに類する話は実は玄翁ゆかりの曹洞宗の寺には多いのである。たとえば会津喜多方の示現寺は玄翁が亡くなったところであるが、墓所の近くの池のほとりには飛んできた "殺生石" の破片といわれるものがある。




これがその "殺生石" である。物理的にはどうも那須の賽の河原の硫黄分が沈着した石とは違うような気がしないでもないが、そもそも伝説と史実はそんなに厳密に一致するものではないのでツッコミはほどほどにしておきたい(^^;)

むしろ面白いのはこういう 「あやかり史跡」 とでもいうものがあちこちに散在していることで、特に源翁派寺院に見られるものは "破門の250年" の間のヨイショ活動の痕跡といえるだろう。

※示現寺に伝わる話ではこの石の上で玄翁和尚が座禅をしたとか、池(取材時には水位が低く水は写っていない)に映った自分の姿を写生したといった逸話が伝わっている。




ところで玄翁の名が金槌の別名になった謂われについては、後日談の最後の部分で以下のように述べられる。これによると石工の道具がまず玄翁とよばれるようになり、さらに番匠(中世の大工職人をこう呼んだ)の道具にも此の名が付いたようだ。



今乃世に石工の石を穿つ鉄器に玄翁の名有るハかたき石を割り砕く縁に號(なづ)けしより。をしなへて番匠乃用ゆる器にも此の名あるを也。去とても玄翁和尚廣大の法徳によつてかかる石魂の怨念を解脱なさ志め後代まで諸人の愁ひを除きあまつさへ毒石変じて利益(りやく)ある神社となりし前代未聞の伝記を述べ画図を交て腐女子の耳目を慰せしむ。
 



また作者の意図的なものかは不明だけれども、那須温泉神社の起源(本来は飛鳥時代)を玄翁和尚エピソードに結び付けてしまっているのはまあ演出上の都合みたいなものだろうか(^^;) 歴史書と違って説話集などではストーリーの都合に合わせてこういう改変はよく行われる。そしてこういう "面白バイアス" が集積していくことで、もともとは史実であった地味なエピソードが荒唐無稽で不思議な魅力を伴った伝説へと変わっていくのである。



 

■そしてさらなる伝説へ…




さて長々と紹介してきた絵本三国妖婦伝も、そろそろおしまいである。話は玄翁和尚のエピソードを最後に以下のように締めくくられる。



貴賤美色に心を蕩わるものは家をうしなひ身を亡ぼす。古往のみにあらず今來の美人たとへ其の性妖狐の変ずるにあらずとも男子昏迷せば何ぞ妖狐にあらずとせん。これを鏡として少しく修身齋家の端ともはらバ奇怪の談も咎むべきにしもあらざるかと聊(いささ)か弁じて筆をとどめぬ。 



うーむ。要するに "美人に惑わされると身を亡ぼすから気を付けろ" ということなのだが(^^;)、これは古今東西不変の真理と思われ、最近では自称世界大国の某報道官とかの事例もあり枚挙に暇(いとま)がない。…いやそんなのはどうでもいいか(^^;)

…それにしても、九尾伝説ってこんな話だったんだなぁ。



さてそろそろ太鼓の演奏の方も終盤なので本稿もなんとかまとめなければならないのだが、どうもあまり気の利いたまとめ方を思いつかない(笑) …まあそれだけ殺生石と九尾伝説の周辺には大量の情報と長い歴史がある訳で、一言でポンと集約する訳にはいかないのだ。

…ただ、殺生石の逸話が江戸時代をピークにふたたび伝説化への道をたどっていることは確かなので、ここではそのあたりの事情に少々触れながら本稿の締めくくりとしたい。




ふたたびの伝説化とは、端的に言って情報の喪失に他ならない。江戸時代の書物の例として今回は絵本三国妖婦伝を紹介したけれども、この書物は明治時代出版の活字本にして168ページもある伝奇譚で、記述も実に詳細かつ文語文としても流麗なものだ。

しかし21世紀の現代、これに匹敵するような情報量の殺生石伝説を我々はなかなか目にすることができない。ネットで検索してみてもせいぜいペラ紙数枚に印刷すれば終わってしまうくらいのダイジェスト版しか知り得ず、古典を現代語訳した書籍がない訳ではないのだが、一冊に何本もの話を収録したうちのひとつ…といった扱いで、内容は簡略化されているしタイトル検索でも引っかからないことが多い。



そのため、かつてはさまざまな物語本、絵巻物、謡曲、演劇などで詳細に語られていた物語のディティールは失われ、ふたたび霧の中に埋もれつつある…というのが、多少の素人調査をしてみたところの筆者の偽らざる印象なのである。

まあもともと史実と創作の入り混じった話で、どれが 「決定版」 とか 「正統」 などとは言いにくいのは確かだけれど、やはり現代語の単行本が入手しやすいかたちで流通してほしいと筆者は思う。そうして伝説のディティールをしっかり把握したうえで祭りを楽しむことができれば、素晴らしい体験になると思うのだ。





…などと他力本願なことを言っているうちに、演奏はビシィっと終わった。 

いやぁ〜、今年は炎がよく燃え上がって最高だったなぁ…♪ ヽ(´ー`)ノ




演奏終了後、九尾様にお願いして狐の面を見せて頂いた。一個一個、手掘りで作ってある本格派で、持ってみると非常に軽く、どうやら材料は桐のようだった。




…で、裏側をみると…実にお茶目な顔なのである(^^;) これがホントの 「意外な一面」 というやつで、うまいことオチがついたところで今回の駄文を終わりにしたい♪

【完】





■あとがき


今回は珍しく予備取材も入れて九尾伝説後半の主要エピソード=玄翁和尚の周辺をテーマにまとめてみました。ほとんど祭りの紹介になってないじゃねーか、とのツッコミはあろうかと思いますが(笑)、そのまま祭りの進行を記事にすると過去記事とほとんど同じになってしまうので敢えて多少のひねりを入れてみた次第です。

さて室町時代というのは後半は戦国時代になってしまって資料散逸が甚だしく、なかなか資料を追いかけるのが難しいのですが、筆者的には年表と照らし合わせることで、あるいは関連寺院を訪ねることで、玄翁和尚の周辺にはいろいろ想像力をかき立てられる事象が埋もれているのだな…と興味深く眺めることができました。

2009年のレポートで書いた三浦介/上総介のエピソードは源頼朝の巻狩をモチーフにしてはいるものの、基本的には創作物語です。しかし玄翁和尚のエピソードは史実として1385年の勅、および報償としての勅額が現在まで伝わっていて、伝説と史実がちょうど交錯しているんですね。しかしそこには様々な謎があり、実際に勅を出した後円融上皇(名義は後小松天皇)は殺生石SAGAにおいてはその存在が綺麗に抹消されていますし、玄翁和尚も一人だけ妙なタイムスリップをしているあたり、いろいろと研究されて然るべきものがあろうかと思います。




なお本編では取り上げませんでしたが、地質学的にもこの時代は興味深い点があります。というのも那須の主峰:茶臼岳は応永年間の1404年、1408年、1410年に連続して大爆発をおこしているのです。現在山頂にみえる巨大な溶岩ドームはこのときに形成されており、文献上では周辺の村々で180名あまりの死者を出したともあります。

玄翁が殺生石済度を行ったとされる1385年はちょうどこの噴火の直前(20年程度のタイムラグは地質的スケールでは誤差みたいなもの)にあたっており、要するに火山活動の活発期で殺生石の噴気もさかんに出ていた時期でした。ここから、玄翁が向かった行き先が殺生石だった理由は当時なりの災害予防(といっても呪術レベルの ^^;)だったという解釈も成り立ちます。

…まあ、だからといってわざわざ時の帝が勅令を出してまでやることか…というツッコミどころはありますけれども、足利義満に睨まれながら暇人状態にあった後円融上皇(+後小松天皇)のお仕事案件としては、政治性を帯びないという点で無難なチョイスだったのかもしれません。


■玄翁伝説のゆりかごとしての寺院




ところで筆者は玄翁和尚が曹洞宗を破門されていたということを今回の取材の過程で初めて知りまして(^^;)、前後関係をみるとやはりこの期間に玄翁の超人的な活躍物語が(主に源翁派の曹洞宗勢によって)作り上げられたのかな…という印象を持つようになりました。金槌の別名が "玄翁" になったのも、もしかすると信徒の鍛冶屋に "玄翁ブランド" の商品を作らせて物語とセットにして販売したのかもしれませんし(^^;)、考え始めるとなかなか興味は尽きません。

玄翁については駒澤大学(※)の学生がたまに卒論のテーマとして選択していまして、筆者もいくらか参考にさせて頂いています。…が、いずれも掘り下げ方がやや中途半端でもう少し視点を変えてもいいのになぁ…と、少々残念なところがあるんですよね。寺院文献を図書館でちょこっと引っ張ってきて 「こんな記述がありました」 で終わってしまうと、専門課程でそれは無いんじゃないの…という気がしないでもなく(笑) …特に後円融帝との関連性(特にご乱心以降の御所事情を絡めて)を論じたものはほとんど無いので、そういうところを丁寧に拾って殺生石伝説に至る過程を追っていく気骨のある暇人学生の出現に少々期待したいところです(^^;)

※駒澤大学は中世の曹洞宗の学問所に起源をもつ仏教系の大学で、禅宗の研究などを行っています。玄翁の周辺事情を調べていくと、この大学の学生の論文によく辿りつきます(^^;)




さて玄翁和尚の墓は、喜多方の示現寺(亡くなったところ)にあります。墓はただの河原石が一個乗っているだけの何の飾り気もないものでした。ここから一段下がったところに歴代の住職の墓が600年分ずらりと並んでいるのですが、これが年代を追うごとに立派になっていくのがなんともアレなところがありまして(^^;)、まあそれをどうこう言うつもりはないのですが、巡り巡って玄翁の精神性のようなものが見えてくるようでなかなかに感慨深い風景でした。

実はゆかりの曹洞宗の寺には、あちこちに玄翁の墓があります。おそらくは分骨されたものなのでしょう、墓苑の一番奥まったところに、やはり質素な河原石ひとつという慎ましい姿で鎮座しています。…そして、そんなところに殺生石の破片と言われるものがセットで伝わっているのです。




日本各地に伝わる "殺生石" は、現在では神社として分離しているものもありますが、ほぼ曹洞宗源翁派の寺院の境内にあります。なかでも墓と殺生石がセットで揃っているところは、破門の250年の間も玄翁の教えを守りつづけた筋金入りのファミリー寺院と思われ、こういうところを丁寧に訪ねていくと、もしかすると今まで知られていない玄翁和尚のローカルな超人伝説(?)を発掘できるかもしれません。

機会があれば、そういうところをゆるゆると訪ねてマターリと歩いてみたいものです。


<おしまい>