2014.01.01 初詣:那須温泉神社 ~月山寺の残照とともに~ (その2)
■ しかしそれも明治維新でガラっと様子が変わった♪
さてさて、話にはまだ続きがある。そのわずか6年後、なんと明治維新が起こって状況はまたガラリと変わってしまうのである。
王政復古の大号令で歴史の表舞台に華々しく登場した明治天皇は、宗教的には全国の神社の頂点に君臨する大神主の地位にあった。明治新政府はそれを最大限にヨイショしながら革命政策を推し進めたわけだが、その過程で発令した神仏分離令が、やがて廃仏毀釈(=仏を廃し釈迦の教えを棄てる)の風潮となり、仏教寺院の大量廃寺につながっていったのである。
※肖像画はWikipediaのフリー素材から引用
そのような風潮の中、ここ湯本村でも月山寺があっさりと廃されてしまった。この時の月山寺は黒羽城内の帰一寺(きいつじ)の住職が兼任しており、その帰一寺がいち早く廃寺となってしまったためいわば連鎖倒産してしまったのである。おなじく神宮寺の別当を兼ねていた観音寺も廃寺となり、同様に神宮寺も連鎖倒産となった。
※帰一寺は現在の
廃仏毀釈の終息から10年ほど後=明治15年(1882)の絵図をみると、月山寺のあった所には学校と温泉神社の社務所が建ち、神宮寺はワカキ神社と表記が変わっている。学校は明治8年6月に設立された湯本尋常小学校(鍋掛宿日新館1番分校)で、当時は月山寺の建物を仮校舎としていた。この時点で那須湯本の風景からは仏寺の存在は綺麗さっぱりと抹消され、一神教の欧米人などが見たら 「Unbelievable! お前らの信仰って一体何なんだヨ!」 …とツッコミが入るのに十分なくらいの変貌ぶりとなっていた(^^;)
こんな芸当が可能だったのは、おそらく神仏混交の時代に "神様も仏様も実は一緒なのです" とやってきたことが大きいのだろう。これは本地垂迹(ほんちすいじゃく)という論法で、従来の神道と仏教の衝突を避けるために編み出された考え方であった。
曰く、慈悲深い仏様は教えを垂れるときには相手に応じて最も分かりやすい姿(=化身)となって権現なさるのだ、日本ではそれが国津神であったり天津神であったりその他の土着神であったりしたのだ、…という理屈である。おかげで日本の主要な神様は仏教の立場から見れば仏様、神道の立場から見れば日本古来の神、という二重性を帯びることとなった。どの姿を信仰しても中身は一緒なので、時と場合に応じて様々な "読み替え" 行われた。
おかげで明治新政府から 「今日からは神道形式で神様を奉じなさい」 と号令が出た途端、神様の姿のほうを優先させることであっさりとシフトチェンジが完了してしまった。大日様は那須権現となり、高湯山信仰の行者の管理は仏教色を廃してリニューアルオープンした那須温泉神社 2.0 が引き継ぐこととなったのである。拍子抜けするほどに鮮やかなものであった。
そしてこれを機に月山寺の檀家はそっくり那須温泉神社の氏子にクラスチェンジして、以降の冠婚葬祭は神式で行われるようになった。そんな訳で現在この温泉街には仏寺がなく、すべてが神式で回っているのである。
■ 見立神社
さて話が長くなりすぎた。そろそろ参道を進んでいこう。
これは二之鳥居である。右奥に見えているのが温泉の発見者=狩野三郎行広を祭った見立神社で、対になって左奥には愛宕神社がある。明治以前の参道は、ここから始まっていた。
せっかくなので久方ぶりにその見立神社にも立ち寄ってみる。かつては谷底の源泉脇に立っていた、温泉の守護神らしい素朴な古社である。
祀られている狩野三郎行広は天津神でも国津神でもない人神で、さすがの仏教もこの狩野三郎行広に 「実は仏様の化身であって…」 という扱いはせず(^^;)、神仏習合時代もここは独立を保っていたようだ。ある意味、最も神社らしい神社として、那須温泉神社不遇の時代にも古神道の匂いを残していた社といえる。
個人的にはこの社殿が源泉脇のあの岩倉の上に建っていると非常にしっくりとくるのだが(^^;)、土石流災害で当時の岩倉付近は埋まってしまい、神社の再興は崖上で行われた。移転場所の選定は特に奇をてらったところはなく、当時の参道を源泉側から素直に登って若干の平地のあった温泉神社参道脇が選ばれている。
なお復興された社殿は風雪に耐えながら140年あまり存続し、平成13年に立て替えられて現在に至っている。今では殖産興業の神とされる天児屋根命を合祀して、温泉だけではなく観光産業全般を振興する神社として湯本を見守っている。
■ 神宮寺跡と琴平神社
さて次は愛宕神社に…と思ったのだが、ご覧の通り照明がまったく無く、今回は登っていくのは控えることとした。ただここは源泉からのアプローチルートを見ると、古代には温泉神社の本殿だった可能性もありそうで、あとで機会があれば調べてみたいと思う。
ということで、そのすぐ隣=かつて神宮時があった付近を見てみることにしよう。
ここは明治時代にはワカキ神社なる社殿があり、現在では祖霊社になっている。何も考えずに温泉神社の本殿にむかってスタスタ歩くとスルーしてしまいそうになるが、実は神仏習合時代の那須を考える上でここは地味に重要ポイントである。
登ってみると、こんな状況であった。仏寺であったころの建築物はもう何も残っていないが、参道から一段高くなったところにちょっとした建物が建つのに十分なくらいのスペースがあり、現在は殉国者の碑と祖霊社が建っている。
寺の詳細な資料は現在では失われ、その実態はよくわからない。ただ湯本村に存在した観音寺の支配下にあって、その観音寺は高湯山の参拝者を連れて霊場を案内する "先達" の役割を担っていたことが古文書(白湯山との境界争いの裁判記録)から伺える。
別当と先達って別々の仏寺が受け持つものなのか? …と思って調べてみたところ、どうやら修験の山では、聖地を管理する責任者="別当" と、そこに修験者を案内するガイド役にあたる "先達" が二寺で1セットとなって仕事をするのが一般的らしい。高湯山では別当=月山寺、先達=観音寺(実態としては神宮寺)であり、山の向こう側の白湯山では別当=法善寺、先達=西光院であった。おそらくこの敷地は、山に登る行者の最初の集合場所として機能していたのだろう。
見れば祖霊社のさらに一段上にも平地があった。土地の面積に対して不釣合いなほどに小さな琴平神社、神明宮、山神社が鎮座しており、ここも何かの跡地のような印象をうける。なお温泉神社で聞いたところ、三社は現在はひとつの社殿(写真中で一番大きいもの)に合祀されていて、隣の社殿は無主であるらしい。
振り返ると、こんな感じで参道を見下ろせる。斜面沿いなので巨大建築がバンバン建つような余裕はないけれども、ほどほどの規模の宗教施設が体裁よく収まるのには、ちょうどよいところかもしれない。
…さてもうしばらく歴史に思いを馳せていたかったところだが、時計をみるとそろそろ新年まで20分を切っている。このあたりで気分を切り替えて拝殿に向かってみよう。
■ 本殿/拝殿
そんな訳でようやく拝殿までやってきた。今回は寄り道ばかりしているので従来の3倍以上はエネルギーを使っているような気がするぞ(^^;)
拝殿脇をみると、かつての行人道(登山道)の入り口が雪に埋もれていた。付近に並ぶ灯篭は神社に多い神明式ではなく、仏寺によく置かれる四角、六角系だ。みな江戸時代のもので、いずれも神仏習合時代の痕跡である。
このルートは、一応登山マップには載っているけれども、今ではよほど酔狂な人でもないと登る人はほとんどいない。修験の行者は今ではヒマラヤのイエティ並みの幻の存在になっていて、もちろん筆者は遭遇したことはない。
さてもうすこし、修験道の末期の頃について書いてみよう。
明治新政府の宗教政策は、あちこち迷走はしつつも、雑多な宗派を整理統合して単純化していくという方針では一貫していた。仏教は7宗派にまで四捨五入されることとなり、明治五年には修験道廃止令が出て当時全国で17万人あまりいた修験行者(職業山伏)は教義の類似していた天台宗、真言宗のいずれかの僧籍に入らねばならなくなった。この17万人というのはいかにも箆棒(べらぼう)な数で、現代の仏僧を宗派に関係なく全部まとめても22万人あまりであるから、当時の修験道(山伏)の勢力がどれほどのものであったかが伺えよう。
これほどの数の修験者が存在できたのは、加持祈祷以外に山野草や鉱物の知識を用いて民間薬(漢方)を調合して行商するという役割があったためらしい。医者のいない田舎の集落では彼らのもたらすクスリは簡易的な往診医療のような意味合いがあり、実際に重宝されたのである。
これが明治政府によって 「今日からお前達は仏僧だ」 という扱いになってしまった。しかし昨日まで山野を駆けていた彼らに固定した "檀家" などは無い。また明治三年に、薬事法の前身となる売薬取締規制が施行され、民間薬の販売が大幅に制限されてからは、ドル箱だった漢方薬販売も不振となった。これについては明治政府は医療制度の近代化を目指していたのであって、山伏を迫害しようとする意図はおそらく無かったと思うのだが、その効果は覿面(てきめん)であった。…こうして結局、修験行者は神威でも法力でもなく、経済で干上がって淘汰されてしまった。
この間、一般民衆の信仰登山が禁止されたわけではなかったけれども、山伏の凋落が鮮明になるにつれ、その信仰熱は徐々に衰えていった。那須湯本で言えば、月山寺も神宮寺も、そして観音寺も無くなって、那須温泉神社(神仏分離後)は修験道の儀式には深く関与しなくなった。これでは修験行が衰亡するのも時間の問題であっただろう。
現在の那須温泉神社の由緒書には、修験の山だった頃の那須の姿はみえない。"修験道は仏教とみなす" という明治政府のカテゴリ分けが、神仏分離令以降の那須温泉神社の歴史から、高湯山の存在を消してしまったともいえる。
那須における修験登山は、昭和10年代頃までは年数回の "自治会の行事" として、簡略化されながらも細々と継続していたそうだ。しかし戦後はほとんど登られなくなった。
…高湯山修験の命脈は、そこで尽きた。
…で、ここで何か気の聞いた滅びのフレーズでも出ればレポートとしては綺麗にまとまる(?)ところかもしれないけれど、実は戦後になって修験道を復活させようという動きがあり、「那須修験」 というのを始めている方々がいると聞いた。どうやら高湯山ではなく白湯山の方面の方々らしい。
月山寺や観音寺は消えてしまったけれど、別のアプローチで山に関わり続けようとする人たちがいるというのは、なんとも興味深い。機会があれば、どういうものなのか見てみたいと思う。
■ 新年
さて気がつけば、そろそろ残り時間も10分ほどになった。月山寺に関する昔語りはこのくらいにして、新年までの短い時間をゆったりと待つことにしよう。
毎度毎度ながら、ここは年越しの風情を堪能するには非常によい。神社そのものが有名な割に年末年始は観光宣伝もなく、素朴な雰囲気が漂う。日本の正しい正月は、こうでなくてはならない。
全国にいったいどのくらいの神社が存在しているのか筆者には想像もつかないが、いちいちそれらには氏子がいて、新年を迎える儀式が行われている。ここもそのうちのひとつな訳だが、巨大な大神宮よりもこういう山間の古社のほうが、日本古来の "年越し" という感じがする。
2013年は世の中の景気も上向いて少しずつ世相が明るくなったといわれた。その割りに筆者の懐具合には金銭的な恩恵はさっぱり届いていないような気もするのだが(^^;)、来年こそはホカホカ具合の財布事情で花鳥風月と洒落込みたいものだな。
・・・などと思っている間に、氏子さんが拝殿に入って年神様を迎える儀式が始まった。
気がつくと何やら行列が凄いことになっている。いつもなら年を越してから人が集まってくるのに、今回はずいぶんと賑やかだ。筆者もそろそろ、列に並んでおこう。
列に並んでおよそ5分。やがて、ドーン、ドーン…と太鼓が鳴り響いて、平成二十六年がやってきた。今年はヤンキー兄ちゃんが前列側にいたようで 「3、2、1…ヒャッハー!」 なんて奇声が上がっていたけれども、まあとやかくは言うまいw
今年は例年に比べると盛りだくさんの願い事をする人が多いようで、何やら一人ひとりの参拝時間が非常に長かった。初詣の列はゆっくり、ゆっくりと進んでいく。まあ望みとか希望とかいうものは、少ないよりは多いほうが良いに決まっている。今年も良き年であることを願いたい。
そんな訳で筆者の順番が回ってきた。筆者の新年の願い事は、家内安全、郷中安全、交通安全、五穀豊穣、武運長久、招福万来、給与倍増、美食満腹、と小市民的なささやかな内容でまとめてみた。ついでに景気の爆上げと日本の敵の滅亡などもお願いしてみたが、これはちょっとハードルが高いかもしれない。
さて参拝が済んだらお神酒コーナーへ。といっても筆者は呑んべぇではないので形だけ。
お目当ては杯のほうなので、とりあえず馬Versionをゲット。
そして貧乏人らしく一番お安いお札を戴いて、ひとまず初詣ミッションは完了である。
そんな訳で本年もよろしくお願いいたします ヽ(´ー`)ノ
<完>
■ あとがき
もっと簡単に書けるかな…と思った月山寺の周辺ですが、初詣のついでに取り上げるには少々ネタが大きすぎたかもしれません。もう少し真面目に予備取材をしておけばよかったかな…と思いつつ、本年の初レポートとしてみました。如何でしょう(^^;)
今回は月山寺という切り口で那須湯本を眺めてみたのですが、那須温泉神社の構造を改めて見直してみると、仏教に侵食されながら何世代かに渡って拡張されてきたような雰囲気が伺えます。このあたりは後でもういちどきちんと調べてみたいところですが、特に中世にあっては修験道との関係は切っても切れないところがあり、その主役となった月山寺がどこからやってきたのかを考察するのはなかなか楽しそうなテーマのような気がします(^^;)
ところで今回筆者が特に面白いなと思ったのは、本編でも少し触れた那須温泉神社の摂社、琴平神社+神明宮+山神社 でした。境内にはただ神社名があるだけでその意味するところについては何の解説もありませんが、神様の系譜を解読すると、どうやらこれは高湯山の痕跡のようです。
まず琴平神社(金比羅権現)についてですが、この神社の本宮は香川県琴平町の金刀比羅宮です。此処は廃仏毀釈の前は松尾寺金光院という仏寺で、月山寺と同じく真言宗の寺でした。ここは役行者(山伏)にゆかりの深いところで修験道の聖地のひとつとして知られています。
この琴平神社の祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)といい、出雲神話で有名な大国主と同一視されている神様です。この大国主はまた幾つもの別名を持っていて、そのうちのひとつが大己貴命つまり那須温泉神社の祭神と重なります。つまり非常にまわりくどい方法論ながら、かつての修験道の痕跡(真言宗の匂い)が廃仏毀釈以降の那須温泉神社と矛盾しない形でここに残っている訳です。
また一緒に合祀されている神明宮は天照大神を祀っているのですが、祭神名は幾つかある天照大神の別称のうち大日霊命(おおひるめのみこと)が当てられています。もちろんこれは大日如来のアナグラムで、さらに同じく合祀されている山神社(祭神:大山祇命)は山そのものを神として祀る神社ですから、この二社がセットになって大日如来=修験道で祭られる山の神を表わしていると思われるのです。
そんな訳でこれらをまとめて読み解くと、真言宗、修験道、大日如来 が浮かび上がるのですね。まるで切支丹のつくった魔鏡とかダ・ヴィンチ・コードみたいですけれども(^^;)、これを祀った人は相当な策士であると同時に、禁じられてしまった修験道に対する真摯な崇敬の念を持っていたのではないかと思われるのです。
そしてこの日、三社には鏡餅が供えられ、幾人もの参拝者がやってきた痕跡が、足跡として残っていました。もしかすると、隠れ切支丹のように、今でもいるのかもしれませんね。
…世を忍ぶ仮の姿をまとった、修験の行者さんが…♪(^^;)
<おしまい>