2016.01.01 初詣:烏森神社 ~那須野ヶ原開拓前夜物語~(その3)



 

■ 実は引退後に開拓を始めた印南丈作




さて明治3年、白河での戦後処理の仕事が一段落して丈作が佐久山に戻ると、すぐに版籍奉還と廃藩置県があって、翌年には福原氏の治めていた旗本領3500石は消滅してしまった。佐久山は日光県に所属することとなり、同時に戸籍法ができて旧来の7~8ヶ村を 「区」 に再編して管理することとなった。そして殿様がいなくなった佐久山は印南丈作が名主となって治めることとなったのである。




この後の新政府の行政機関の統廃合は猛烈なスピードで試行錯誤を繰り返し、下野国北部にあった宇都宮県、大田原県、烏山県、黒羽県、茂木県がまとめて新生宇都宮県になり、やがて栃木県に再編され、また名主という身分がなくなって戸長という名称に変わった。

明治6年になると徴兵制の施行によって印南丈作は徴兵議員を兼任し、さらに地租改正に伴って地券調掛(土地の管理役人)を兼任、さらに酒造税調査委員、雑税調査官などを兼任して阿修羅のような仕事を抱えていく。



しかしさすがにオーバーワークとなってしまったのか、丈作は明治8年には病気を理由にこれらの公職の一切から退職してしまう。これ以降、肩書は区長だけになった。

那須野ヶ原開拓の構想が語られ始めるのは実はこの頃からである。翌明治9年、初代栃木県令鍋島幹が大田原に出張した際、殖産興業に関する会合が行われ、そこで開拓の話が出た。そこには同じく矢板で区長をしていた矢板武が居り、後の那須疎水の元となった運河構想の話が出て…その後は、多く語られている話なので省略しよう。

…というか、初詣のおまけのエピソードとしてはやっぱり話が長すぎた気がするぞ(笑 ^^;)



 

■ 年の明けるとき




さて延々と寄り道をしてしまった本年最初のレポートだが、そろそろ年越しの瞬間である。時計を眺めていると、11:55頃から太鼓がドーンドーンと鳴り響いて祝詞の奏上が始まった。




筆者は時計を見ながらカウントダウンをしていたのだが、いつのまにかなし崩し的にお参りが始まってしまい、0:00を回っても新年を伝える太鼓の音は鳴らなかった(あれ…? ^^;)。時刻チェックはしてきたので筆者の時計が狂っている訳ではない。神社の時計が進んでいたのかもしれないし、祝詞を上げながら年越しをするのがここの作法なのかもしれないが、まあ細かいことは気にしないでおこう(笑)




一応、筆者は日本標準時で 0:00 を回ってから参拝。願い事は…五穀豊穣、国家鎮護、家庭の平和、収入の安定、ついでに反日国家の滅亡(笑)を慎ましく祈願。




余談になるが氏子さん一同の拝んでいる祭壇のずっと奥、壁の向こう側にはもうひとつ小さな社があって、そこが烏森神社の原型となった稲荷神社になっている。烏森神社に向かって参拝すると自動的に遥か昔の山の神にもささやかなる敬意を示すことになる。

拝殿の中では神職さんに続いて地区の偉い人の挨拶が延々と続いていた。筆者はとりあえず神様に敬意を示して一段落である。



 

■ 開拓後130年を想う




さて初詣ミッションを終了した後は、火に当たってしばらくゆるゆると過ごした。ここにはテキヤの売店はなく、混雑するほどの人ごみもない。ぼちぼち初詣客がやってきて、ゆるゆると火に当たり、なんとなく去って行く。静かないい年越しである。



昔はもっと賑やかであったという。ここは開拓地の鎮守社として氏子も多く、上石上、下石上、千本松、一区、二区、三区、四区、三島、二つ室あたりまでがそのテリトリーであった。




しかし第二次大戦後、GHQによる農地解放と復員者の入植を経て氏子は減少し、現在では一区~四区と二つ室…つまり旧那須開墾社の入植エリアのみがこの神社を守る形に縮小している。




それは印南丈作の遺徳を直接にうけた最後の地区と重なっている。

那須野ヶ原に開拓に入った者はみな彼の描いた構想と那須疎水の恩恵に等しく浴した筈だが、結局最後に関わった者たちだけがこの社を守っている。なんとも律儀なものだと思う。




筆者は氏子さんたちといくらか話をしてみたのだが、さすがに百年前の開拓の様子をそらんじているような好事家はいないようであった(笑) 難しいことはわからないが当番制で神社を守っているのですよ、とのことで 「細けぇこたーいいんだよ、まあとりあえず豚汁を食え」 という展開になり(^^;)、筆者はありがたく頂くことにした。




寒空に熱々の豚汁は実にうまかった。ともかく、今年も良い一年でありますように…!


【完】




■ あとがき


いや~もっと簡単に済ませるつもりだったのに、周辺事情を調べだすと面白くなってきて、いろいろ詰め込んでしまいました。年の初めからこれだと先が思いやられますけれども、まあ道楽でやっておりますのでご容赦いただければと思います(^^;)

さて印南丈作は教科書的には 「那須疎水を作った人」 で簡単に済まされていますけれども、その生涯はなかなか波乱万丈で、映画や小説の題材にしたらさぞ面白いだろうな…というエピソードに満ちています。筆者は子供の頃、那須疎水開削の話を聞いて 「田舎のおっさんがどうして伊藤博文や松方正義や有栖川宮熾仁親王を現地まで引っ張って来れたのさ?」 と素朴に疑問に思ったものですが、戊辰戦争で新政府の偉い人との人脈ができてそれを活用していた…と教えてもらえていたら、きっと納得もしやすかったことでしょう。ちなみに筆者の学校の先生は答えられませんでした(…だめじゃん:笑)

ただ彼の活躍は開拓地側(那須塩原市)ではかなりヒーロー然として伝えられていますが、同じ那須野ヶ原の中にあっても大田原側では 「言われているほど凄くない」 「福原の殿様の威光が大きかっただけ」 的な捉え方をされているようで、理解のされ方はまちまちです。本稿は旧西那須野町百年記念事業のときの資料を骨子として、そこに日光、佐久山、大田原城下、白河をローカルに巡って聞いた話を加味して書いていますが、人によって話のニュアンスは随分振れ幅があり、真実がどのあたりにあるのかは実はよくわかりません。ここに書いたのは、あくまでも筆者の視点でみた印南丈作像ということでご理解いただければと思います。


■ なんちゃって武士と安給料について(笑)




さて印南丈作が幕末に一瞬だけ武士になったというのは、筆者は今回調べてみて初めて知りました。残念ながら登用されたときの資料は無いそうで、廃藩置県のときに武士の身分から帰農する際の届出文書(※)で確認できるというものです。これをみると確かに二代以下(=新参の)譜代近習席という身分と禄高が十五石であった旨の記述がありますね。

現代の貨幣価値では十五石は年収50~60万円くらいに相当しますが、これだとコンビニの専従バイトより安い給与水準ということになってちょっと衝撃的です。彼は旅籠を経営していてそちらで十分生活できていましたから、もしかすると名誉職のようなかたちで "なんちゃって武士" 身分を拝命していたのかもしれません。

※写真は 「交代寄合那須氏・福原氏と大田原」(那須与一伝承館)より引用
※大田原藩士だと役職無しの場合三十石取りが平均的な所得水準だったそうで、現代の貨幣価値では年収100万円くらいになるそうです。パートのママさん並ですね…(^^;)

ところで帰農したのちの丈作は、新政府からのご指名で県の役職をいくつも兼任するようになり、ついにはパンクして区長以外のすべてを辞してしまいます。このとき丈作は44歳。定年にはまだ早いようにみえるかもしれませんがこの頃の日本の平均寿命が44歳だそうですから、まあいい歳だったのでしょう。那須野ヶ原の開拓事業と那須疎水の開削は、その後の "隠居生活" の中で実現されていきます。我々の多くが知っている印南丈作の姿はこの頃のものです。


■ 開拓事業のその後の顛末




さて彼は那須疎水の開通(明治18年)は見届けたものの、那須開墾社の事業の成就は見ないまま明治21年、57歳で世を去りました。その墓所は生前の彼の希望で二つ室の常盤ヶ丘という小高い丘の上に設けられました。ここは最初に開拓者の入った一区の目前で、遠くには日光連山を、南側には佐久山の丘陵をみることができます。

丈作の跡を継いで那須開墾社の二代目社長になったのは、20歳も年下の矢板武でした。ちなみに三代目はいません。十五年と年限を切って開始した開拓事業は、予定通り事業を終了して、入植者、出資者に土地を分配して清く解散したからです。このたった十五年が、その後の百年以上にわたる那須野ヶ原の発展を方向付けています。




さてあまり長々と後書きを続けるのもアレなので(^^;)、最後にひとつだけ数字を挙げて終わりたいと思います。本文中で那須野ヶ原の一万町歩の荒れ地が水田化したら10万石の領地が出現する云々…と書きましたが、結局のところ那須野ヶ原の開拓はどういう結末を迎えたのでしょう。

明治以降の開拓農地はほぼ那須塩原市の領域と重なります。そこで那須塩原市のコメの生産量をみると、平成26年の実績で26000トンあり、これを一石=150kgで換算するとなんと約17万3000石に相当しています。これは江戸時代の石高でいうと300諸侯の上位25位くらいにあたり、充分 "大大名" を名乗れるくらいの規模です。この他に牛乳出荷量が本州で一番だったりするのですから、開拓前には想像もできなかったような豊かな土地が出現しているわけですね。

…それもこれも、先人の努力があったからこそ。後につづく我々の世代は、心してこれを受け継がねばならないような気がします。


<おしまい>