2024.01.01 初詣:光真寺(その1)




光真寺に初詣に行って参りました♪



さていつもなら神社に向かうことの多い筆者の初詣だが、喪中なので仏寺である光真寺に行ってみることにした。光真寺は大田原城に居した大名:大田原氏の菩提寺である。 開基は戦国時代の天文十四年(1545)で大田原城の築城と軌を一にしている。 今回は大田原氏の歴史を踏まえながら、戦国の雰囲気を纏う古刹に参拝してみよう。




■前振りとして、初詣と喪中のルールなどを少々


さて今回筆者は、喪中のなかで初詣に出かけることになる。喪中は慶事、寺社参拝は控えなさい、というのが一般的な世間の認識のように思う。筆者も一応それに倣って年賀の挨拶は控えているのだが、仏寺への初詣はとくに問題ないと思うのでまずそのあたりの説明をしておきたい。

親族の葬儀を行うと、仏教では四十九日法要、神道では五十日祭というのがあり、そこまでは「忌中」ということになって慶事は慎むこととされる。しかしそれが明ければ、仏教では故人は極楽浄土に到着済み、神道では家を守ってくれる守護霊に昇華している状態で、宗教的な問題はなくなる。筆者の家では既に四十九日法要は終えているので、条件はクリアしている。

ただし筆者宅では仏式で法要を行ったので、四十九日は済んでいるものの、神道的な祭祀はしていない。そんなわけで念のために神社への初詣は遠慮して仏寺に行くことにした訳だ。




ところでいわゆる「喪中」というのはこの忌中の状態が明けてなお、行動を慎んでおく期間にあたる。一般には1年程度と認識されているがこれは明治時代初期に服忌令(ふくきりょう)という太政官布告があって、その規定が今でも慣習として受け継がれているものだ。その起源は奈良時代の養老律令にまで遡り、陰陽道でいう物忌みもその延長線上にある。

そんな律令の決まりごとは武家の世になってもずっと残っていて、明治政府は江戸幕府が貞享元年(1684)に制定したものをベースにして布告を行った。元々は公家と武家の行うもので庶民には関係がなかったのだが、四民平等の建前で維新後は庶民も対象になった。

服忌令では故人と自分との血縁距離で細かく忌中/喪中の期間が決められていた。喪中期間は実父母なら13ヶ月、父方祖父母なら150日、母方祖父母なら90日、家を継ぐ子は90日、その他の子女は30日……となり、異父兄弟姉妹の子まで離れると4日であった。月数のカウントが太陰暦基準なので閏(うるう)月を入れて13ヶ月=1年である。のちに改定があり、明治の終わり頃には13ヶ月は太陽暦の1年表記に改まった。

※上図は国会図書館デジタルコレクションより引用(服忌令/高橋太一郎/明治9年)




この服忌令は大日本帝国憲法が日本国憲法に改まった翌年、昭和22年に廃止され、現在は効力を持たない。職場や学校の忌引き(⇒忌中には出仕するな、という公家/武家ルールの残滓)にいくらか痕跡が残っており、なんとなく喪中=1年という習慣だけがぼんやりと続いている。しかし重ねて言うけれども、現在では喪中=1年に成文化された根拠はないのである。

そんなわけで、べつに宗教的な禁忌を破っている訳ではないし、法令違反をしている訳でもないよ、と前置きをしつつ出かけてみよう。

※上図は国会図書館デジタルコレクションより引用(服忌令五等親一覧表/水野忠雄/明治16年)



 

■ 光真寺への道




そんな訳で大晦日の22:00頃に自宅を出てゆるゆると向かってみた。天気予報によれば寒波が到来して日本海側は雪らしいが、我が家の近所ではとくに問題はない。

何故この時間に出かけたかというと、事前に寺の方に 「お焚き上げは23時から始まりますよ」 と聞いていたので余裕をもってその前に到着しておこうと思ったのである。




途中、コンビニで缶コーヒーを調達。いつもの如くバイト氏に 「年末年始勤務の手当は出ていますか」 と聞いてみたところ 「そんなものはないッス!」 との回答。末端のバイトにこんな労働を強いている経営者に、この世のすべての災いが集中しますように。そして年越しの労働に従事しているすべての人々に、幸あれ。




などと言っているうちに到着。門前をみると仁王像が一体だけ。元は阿吽二体一対だったのだが、2011年の東日本大震災で右側の阿像が倒壊してしまい、そのままになっている。ちなみにこの門は大田原城にあったものを移築しているのだそうで、屋根には大田原氏の家紋がみえる。




しかし誰もいないな。ちと早く来過ぎたか(笑)




境内もまだ人の動きはなさそうだ。

ちなみに写真の色調が緑色っぽいのは境内の照明が水銀灯だからである。 水銀灯は一昔前の商店街で消費電力の割りに明るいのでよく使われていた。昨今は脱水銀の世相に合わせて生産は停止され、徐々にLEDに置き換わっているものの、流通在庫はまだあるという状況だ。まあ面白い照明効果だと思っておこう。




■光真寺の来歴について




さてしばらく時間がありそうなので、この間に寺の来歴についていくらか書いてみたい。まずMAPを見てあれ?と思うのは、すぐ隣に龍泉寺という仏寺があって 「競合関係にならないの?」 という素朴な疑問だ。いきなり回答してしまうけれども競合にはなっていない。どちらも大田原家の菩提寺だからだ。宗派は龍泉寺が真言宗、光真寺は曹洞宗になる。

菩提寺が2つあるのは、最初に出来たのが龍泉寺で、途中から光真寺に切り替わっているからだ。 この間には劇的なお家の断絶と再興の物語がある。そのあたりを簡単に書いてみよう。




まず最初に菩提寺となった龍泉寺は、大田原氏初代の大俵康晴が明応三年(1494)に建てたものだ。当初の大俵氏の館(城とまでは呼べない武家屋敷)は、現在の大田原城の北方1.5kmの水口付近にあり、この西隣に龍泉寺が建てられた。(正確な位置は不明なのでMAPには未記載)




この大俵氏の水口居館は現在の那須赤十字病院のすぐ脇にあり、現在でも良好に土塁が残っている。ここに後の大田原城主:大俵資清(おおたわら・すけきよ)がいた。

資清は若くして知謀にすぐれ、上那須家の内紛の収拾等で戦果を上げ活躍している。しかし同じ那須氏の一族である大関宗増の謀略により、謀反の嫌疑をかけられて失脚、出家して那須の地を追われてしまった。永正十五年(1518)資清32歳のときであった。ここで大俵氏はいったん断絶(※)となってしまう。

※血縁者が皆無となった訳ではなく、出家して相続権を放棄した者は数名いる。大俵資清もそのうちの一人。




このとき資清が身を寄せたのが越前国の永平寺であった。ここは戦国武将:朝倉氏のお膝元で、永平寺は曹洞宗の総本山であった。資清はここで仏僧として24年ほど潜伏し、その間に戦国武将である朝倉孝景、朝倉義景の知遇を得た。兵法の話相手として資清は面白い相手であったらしい。

この頃の越前には戦国で荒れた京都から文化人が逃れてきて栄えており、宣教師ルイス・フロイスの手記には畿内より文化水準が洗練されているとある。文化人ばかりではなく戦に敗れた武将も身を寄せており、また足利将軍義家も一時期身を寄せるなど、なかなか朝倉氏は侠気のある対応をしていたようである。大俵資清は朝倉家の直接の客人ではなかったものの、似たような文脈のなかで友好的な交流をもったらしい。




そのような流れにあって、24年の歳月を重ねて老齢の域に達した資清に、朝倉氏は兵馬を与えて帰還を薦めるのである。 こうして資清は僧籍から還俗し、かつての旧臣たちを集め、黒羽城を攻めてついに宿敵:大関宗増の嫡子増次を討ち取った(※)。 時に天文十一年(1542)、資清56歳のときであった。

ここに大俵氏の家系は復活し、資清は姓を大田原と改めて再出発を図るのである。

※城を攻めたのではなく狩の最中に襲ったという話もある。




この当時の資清の姿が絵図として伝わっており、光真寺の境内にはそれをもとにつくられた石像がある。 鎧に僧房という上杉謙信みたいな風貌は、永平寺で僧籍にあったことから来ているらしい。




そして故郷に錦を飾った資清が、復帰後すぐに整備を行ったのが現在の大田原城であり、光真寺なのである。城は宿敵大関家のいる黒羽城方面から攻められたときの防御を考えたのであろう、蛇尾川を天然の堀とした現在の丘陵地に築かれた。

隣接する光真寺は、観光案内には一切書かれていないけれども地形を見ればいざ有事となった際に大田原城と連携して砦として機能する位置に置かれている。 よく考えられた縄張りだと思うと同時に、一度滅んでお家再興を果たした大田原資清がどれほど黒羽方面を警戒していたかが伺えて興味深い。




こうして大田原城下には、菩提寺 MarkⅠ としての龍泉寺(真言宗)と、菩提寺 MarkⅡ としての光真寺(曹洞宗)が並び立つこととなった。ただし扱いは対等ではなく、光真寺には寺領が500石ほども与えられた。龍泉寺の寺領は100石であるから、格の違いは明らかであった。

これは初代住職:麟道が資清の実兄で、資清が出家するときに一時期身柄を匿(かくま)い、剃髪をしてやったことによると思われる。その退避場所は矢板市にある長興寺(曹洞宗)で、麟道はそこで住職をしていた。資清はここから永平寺(曹洞宗本山)に落ちのび、命をつないだのである。主君に謀反の嫌疑をかけられた厄介な身分ということもあり、おそらくは麟道に紹介状を書いてもらったことだろう。




筆者的に不思議なのは、本来なら代々の菩提寺であった龍泉寺を経由して真言宗の本山:金剛峯寺に向かうほうが自然な筈なのに、そうはならなかったことだ。 理由は伝わっていないが、敢えて火中の栗を拾って資清を匿ったのが実兄であり、その実兄が菩提寺とは異なる曹洞宗の寺に入っていたことから察するに、龍泉寺とはあまりうまくいっていなかったのかもしれない。




ともかく、こうして大田原氏の菩提寺は光真寺に切り替わった。資清自身も20年以上曹洞宗本山:永平寺で僧籍にあり、既に宗旨替えは済んでいた。 今さら龍泉寺(真言宗)の門下に立つつもりはなかっただろう。

ただし宗旨替えはしても、資清は自分の代(13代)以前の祖先の墓には手を付けず、光真寺に取り込むこともしかった。 光真寺にある大田原氏代々の墓は、資清以降の城主と近親者で占められている。その意味では宗教的な仁義は守られている。 時は戦国であり、もっと武断的であってもよかった筈なのに、そうはしなかった。 なんとも律儀なことのように思う。




資清が没した時、光真寺に葬られたのは資清ひとりのみ。代々の祖先とは隔絶された墓風景であったことを思うと、なかなかに感慨深い。


<つづく>