■2005.11.04 皇居(その1)
皇居に行って参りましたヽ(´ー`)ノ
仕事で丸の内まで出かけたので、ついでに皇居前広場に瞬間突撃してきた。…といっても、打ち合わせの時刻が後ろ倒しになったので、余った時間で皇居外苑を歩いてみただけである。
しかし田舎人にとって皇居と言うのは普段なかなか縁のないところであり、まあ物見遊山的に歩いてみるのも良いかなと思ってみたわけだ。
さても 久しぶりの東京駅である。よく見ると案内板は4ヶ国語。いつのまにか東京も国際化したものだなぁ。…もっとも、世界的な人口比でいえば不要な言語が約1ヶ国…むむむ(^^;)))
東京駅の煉瓦造りの駅舎も久し振りに見る。たしか大正初期の建築…だったかな。日本で最初の鉄道が東京〜新橋に開通(明治五年)したとき、東京駅は皇居の正面につくられ、皇居に向いた西側を正面とした。それを踏襲して、接続路線が増えて巨大化した現在に至っても、その基本構造は変わっていない。
■ 銀杏並木
打ち合わせの時間までには余裕があるので、駅の正面から出発して、皇居前広場(外苑)を散策してみることにする。
皇居には銀杏(いちょう)並木があり、ちょうど良い具合に色づいていた。
個人的には東京の紅葉は11月末〜12月頃だという先入観があったので 「まだ早いんじゃないの」 という感じがしたけれど、まあ若干得をしたと思うことにしよう。
余談ながら、銀杏は人の営みを象徴する。もともと日本には存在しない樹種で、仏教伝来とともに禅僧などが中国から持ち帰って根付いた。だから樹齢を重ねた大銀杏は古い寺院に多い。人の営みの無いところに勝手に生えているわけではなく、必ず "人が植える" というプロセスを経てそこに育つのである。
銀杏並木が東京に増えたのは、火に当たってもなかなか燃えにくいと言われて江戸時代に防火用の並木として植えられたことが大きいという。皇居内には関東大震災で燃え残ったといわれる震災銀杏なるものもあるそうで、震災、および先の大戦での空襲による被災から街が復興していく過程で、やはり好んで植えられた。皇居の銀杏は幹径からみて戦後復興時の植樹のように思われるけれども、そういう経緯を思いながら眺めると、なかなかに感慨深い。
御堀には、カルガモ?らしい鳥が群れていた。なかなか平和な昼下がりだけれど、この堀があるお蔭で、皇居はいわゆるヒートアイランド現象が緩和されて周辺より2℃ほど気温が低めになるらしい。
・・・というと、秋葉原などに比べると明らかに早い皇居の紅葉は、この堀の水の効果ということになるのかね。
■ 皇居前広場
さて外苑部に入ってゆるゆると歩いてみる。丸の内に来るたびにいつも素通りであまりマジマジと見たことがなかったけれど、こんな櫓が残っているあたり、江戸城だったころの面影のようなものが感じられる。
丸の内とは、文字通り 「城内」 という意味だ。現在の皇居の東側の一帯にあたる。
現在の皇居は江戸城の内堀の内部にあたり、丸の内には全国の大名屋敷が並んでいた。明治維新以降、これら大名屋敷は撤去され、一時期官軍の訓練場に使用された後、三菱財閥に払い下げられてオフィス街としての発展が始まっている。
一方で皇居の南側、旧江戸城の虎ノ門付近の敷地は政府の主要官庁街になったのだが…あまり話が長くなりすぎると 「ちょっと散歩しただけ」 なのに話が重くなりすぎるので(笑)、このへんで端折っておくことにしよう。
皇居外苑は、とにかく広い。東京のど真ん中に広々とこんなスペースがあるというのもちょっと不思議な感じがするけれど、特にこの外苑部は災害の際に緊急避難先になることを想定してこうなっているらしい。
そんなわけで、都会=ゴミゴミとしたところ…と思っていると、思わぬ贅沢な空間に出会って驚くことになる。
東京の、というより関東一円の交通網をざっと見渡せば、同心円状に広がるその中心に皇居が位置しているのがわかる。その中心地がどうなっているかといえば、大部分が深い森になっていて、一般に開放されているエリアも広大な芝地と松原になっている。つまりほとんどが緑地なのである。
かつての江戸城が解体されたのち、出現したのは神社の大神主としての天皇の簡素な住まいと広大な森だった。周辺が近代化、都市化の流れに乗って猛烈に発展していく中で、この空間だけがちょっと置き去りにされて別の時間軸の中にいる。…ちょっとばかり、そんな気がした。
<つづく>
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