2007.06.30
沖縄紀行:琉球八社を巡る −3日目ー (その1)
■ 安里八幡宮(あざとはちまんぐう)
3日目の朝がやってきた。今日は、琉球八社を集中的に回る予定である。既に沖宮、波上宮、天久宮はひととおり制覇した。残りあと五社。気合で頑張ろう。
その残り五社のうち、安里八幡宮、識名宮、末吉宮はいずれも首里城に近い住宅密集地に遷座する。特に首里城周辺は沖縄でも屈指の渋滞ポイントで、事前に移動時間が読みにくいうえに駐車場の空き具合も予想しにくい。こういうところは早め早めの移動で切り抜けたい。
それはともかく、まずは拠点ホテルに近い安里八幡宮から訪ねていこう。
そんな訳で、安里の路地裏をくねくねと進む。…それにしても分かりにくい( ̄▽ ̄)
こういうクルマがすれ違うのも難しいような路幅で町割りがされているのは、古い町並である証左かもしれない。関東大震災もそうだったけれど、市街地が破壊されてもその後に強制的な区画整理が行われない限り町並みは結局元の構造に復帰していってしまう。
米軍は占領政策を策定するにあたって、基地用地の確保と整備には腐心したものの、町の復興にあたって地権者の利害関係を調整して区画整理をする…などという気の利いたことはしなかった。ここはそんな "無管理" に近い状態で戦災からの復興が進んだ場所なのかもしれない。
そんな路地の奥に、窮屈そうに立つ鳥居をみつけた。あれが安里八幡宮だ。駐車スペースのまったくないところなので、少し戻って別当寺のほうにクルマを止めた。
これが安里八幡宮の別当寺、その名も 「八幡神徳寺」。真言宗の寺院で安里八幡宮はここが管理している。なんで熊野と関係のない八幡宮を真言宗の寺が管理しているんだ、とツッコミたくなるが、かつては逆で "安里八幡宮の境内に神徳寺が併設されていた" のである。戦災で八幡宮のほうが焼けて長らく復興が遅れ、宮司もいなくなってしまったので主客逆転してしまったのかもしれない。
…それにしても、結局琉球八社は現状ではすべて真言宗の寺とセット、という形になってしまっているんだなぁ。
ともかく、安里八幡宮を見てみることにする。
なんと鳥居の先は現在は保育園になってしまっており、社殿はその奥に作られていた。↑の写真で左に見えるのが保育園、右は公民館である。沖縄戦で焼失した後は地元の方々により仮宮が建てられ、毎年旧暦9月9日に祭礼が行われてきたという。現在の社殿は平成5年に地元有志によって本殿のみが再興されたものだ。本来なら正面にもう一段、拝殿があるべきなのだが、現状では残念ながらそこまでは復興できていない。
八幡神とは実在の確認できる最古の天皇といわれる応神天皇のことで、八幡宮としては九州大分の宇佐神宮が総本山となっている。奈良時代には早くも仏教と習合して "八幡大菩薩" の神号が付与された。
八幡神は清和源氏の氏神でもあり、源氏一門が武士団として成長するにつれ軍神の性格を帯びていった。武家政権である鎌倉幕府(※源頼朝は清和源氏である)が成立以降、鎌倉に鶴岡八幡宮が建立され、全国的に八幡神を祀る宮が増えた。現在では稲荷神に次いで多い日本の神社の祭神となっている。ちなみに鎌倉幕府成立の7年前、源平合戦の末期に源氏方の武将那須与一が扇の的を射る際 "南無八幡大菩薩・・・" と唱えたのもこの八幡神である。
祭神は 応神天皇(=誉田別命=八幡神)、神功皇后、玉依姫となっており、いたってシンプルだ。これら三神は八幡宮に於いては常にセットで祀られている。神功皇后は応神天皇の母、玉依姫はその妻とも巫女とも言われている。
ここで安里八幡宮の縁起を紹介しておこう。
15世紀尚徳王の時代に琉球は喜界島(※奄美大島の東に浮かぶ島)を討伐しようとしたが、小島ながらその守りは堅固であった。そこで尚徳王は自ら兵を率いて出陣することとし、一矢で鳥を射落とせば平定、はずれたら失敗と八幡神に誓約(うけい)して鳥を射たところ見事に射止めることができので、これ吉兆なりと勇んで出帆、ついに喜界島を平定した。凱旋した王は、かの鳥を射止めた場所に八幡神を祭り霊社を建て篤く神を敬ったという。
歴史的には、琉球王朝の喜界島侵攻は1466年のこととされている。この頃の奄美諸島(喜界島を含む)は琉球に朝貢する関係にあったが完全な服属はしていない。琉球王朝は本島統一を1429年頃に成し遂げ、その後奄美、先島方面の支配を強化していく。これらの地域への軍事侵攻は1460年代から1520年代にかけてたびたび行われた。
琉球が喜界島攻略に並々ならぬ意欲を示したことには諸説あるが、当時の奄美諸島の行政中心が喜界島にあり、かつそれが薩摩の影響圏にあって軍事的支援を受けていたので "ここを落とすことで奄美の支配権を確立できる" という思惑があったように思われる。喜界島侵攻は統一琉球の勢力拡大のエポックメーキングな出来事であり、安里八幡宮はその記念碑的な存在なのである。
ここに特徴的なのは、琉球八社の他の宮に比べて、軍神としての具体的なニーズに応える形で受け入れられた八幡神の立ち位置だろう。わざわざ "吾は熊野権現なり" などと自己アピールをしなくても "神効" あるいは "戦功" によって受け入れられたという点で非常に面白いケースといえる。
八幡神と琉球のつながりに於いては、源氏を介してのもうひとつの伝説がある。安里八幡宮縁起によると琉球最古の歴史書中山世鑑にある舜天王のくだりで、保元の乱(1156)に破れ伊豆に流されていた源為朝(1139-1170)が琉球に流れ着き、南山大里按司の娘と結ばれて舜天王が生まれたとある。舜天王朝は三山時代より古く半ば伝説上の王朝であるが、話半分として聞いてもこの頃の海上往来の活発さや相互の影響の様子が垣間見えて興味深い。
本殿から鳥居方面を俯瞰してみる。かつては本殿の前に拝殿があり、今は住宅街の路地になっている鳥居から先の部分が参道になっていたことだろう。境内は八幡神徳寺のあたりまで広がり、那覇港から移転した沖宮も敷地内に遷座していた。
現在では、かつての神域は沖縄戦からの復興過程で削りに削られ、ほんのわずかの敷地を残すのみとなっている。仏教的には "諸行無常" といえばいいのだろうか。神道的にどう表現すればいいのか、筆者には知識がない。
<つづく>
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