2007.09.08 塩原の古代を歩く:前編 (その1)




9月といえばそろそろ秋。しかし紅葉にはまだ少々早いので、今回は歴史絵巻を追いながら塩原付近を歩いてみることにしましたヽ(´ー`)ノ



塩原温泉郷といえば花鳥風月的には実は結構スルーしてばかりいたところである(^^;) 新緑や紅葉は見に行くことが多いのだけれど、そういえば温泉街の成り立ちとか歴史的な観点からはあまり取り上げたことがなかった。写真的に見所のある時期だと、どうしてもそればかりになってしまう、という点もあったかもしれない。

ただ、古い時代の話になると文献上でも断片的にしか情報が無く、詳細なルートMAPがあるわけでもないので推測とか伝聞の混じった内容になるのはご容赦いただきたい(汗)




今回は、温泉郷について地勢的な基礎知識からおさらいすることにしたい。塩原温泉郷は箒側の上流の山岳地帯に開けた小さな盆地に展開する全部で11の温泉で構成されている。その中心的な温泉街は古町、畑下、門前の連続する3つの温泉である。しかし現在賑わっている温泉街は、湯の湧くことは平安時代後期(11〜12世紀)から知られてはいたが、市街地として本格的に発展したのは江戸期になってからである。

塩原温泉の原点は、9世紀初頭、806年に如葛仙なる者により発見されたという元湯温泉にある。地図で見てもわかるとおり、それは現在賑わっている温泉街からは遠く離れた奥地であった。今回は、この元湯温泉を目指すことにしたい。




さてそんなわけで出かけてみよう。この日は一応晴天ではあったのだけれど、それは平地部の話で山側は雲が多かった。今年は八月上旬〜盆頃の2週間だけは "超絶晴天" かつ異常に高温だったが、それ以降はどうも天候がぱっとしない。




それでも9月に入ってクリなどはそれなりに実が育ってきている。




稲穂もだんだん色づいてきて "穂垂れ" の季節となったようだ。順調ならあと二週間もすれば稲刈りかな。




■渓谷と道




さて関谷からR400に乗り、温泉街を目指して渓谷沿いを登っていく。塩原渓谷の峻険な部分は温泉街より下流側にあるので、箒川の下流側から登っていくとまず渓谷のV字谷が現れ、やがて温泉街に至る。




そんな訳でいつものポイント、大網園地に寄ってみる。渓谷本道の最も急峻なエリアはここから布滝付近にかけての断崖である。



大網園地には急峻な崖を削る境沢が滝となって流れ下る。現代ほどに土木工学が発達していなかった時代、渓谷の断崖に巻き道を開削するときに障害となったのが、こうした滝の侵食による深い切れ込み地形だった。

※境沢は江戸時代に大田原藩と宇都宮藩の境界を定めたところでもある。ゆえに "境" 沢と称している。




塩原渓谷沿いにはこうした地形を巧みにかわして道路を作ってきた先人の遺産がいたるところに残っている。ここ大網園地で駐車場代わりに使われているスペースは、侵食された切れ込み部分に沿いながら道路を通した旧R400の跡なのである。




もう一段内側には、もっと古い時代の道路跡が残っている。ぎりぎりまで谷の内側まで巻いて、ここでは橋の長さは5mほどで渡れるようになっている。道幅は2mそこそこで三島道路よりも古そうだ。




その内側には、さらに沢筋の上流側に巻いているような道が残る。現在は遊歩道の一部として活用されているが、これが明治以前の街道の痕跡なのかもしれない。




遊歩道に少し足を踏み入れてみた。道幅は1〜1.5mほどで、半ば藪に覆われながら続いている。三島道路が開通する以前の塩原街道は "道幅一間に満たず" だったそうだから、まあ雰囲気としてはこんな感じだったのだろう。

古代の塩原をイメージするには、クルマでびゅわ〜〜〜〜んと登ってくる現代のR400ではなく、こういう山道が交通手段だったことを理解しておく必要がある。




現在のR400は全長150mほどもある鉄骨アーチで一直線にこの沢筋を乗り越えている。



眼下の谷底は潜龍峡と呼ばれる塩原渓谷屈指のV字谷である。ちなみにここの地名は現在は単に "大網" だが、昔は "南無阿弥陀仏" ともいった。文字通り、足を踏み外せばあの世行き・・・ということらしい。

※正確には境沢から100mほど進んだ旅館田中屋の付近が南無阿弥陀仏である




もうひとつの難所としては、現在は切り崩されてしまっているが龍化の滝を巻いていく付近に左靫(ひだりうつぼ)という場所がある。これについては塩原八郎と源平合戦の段で話をしよう。


<つづく>