2007.09.09 塩原の古代を歩く:後編 (その2)
■釈迦ヶ岳、そして妙雲寺の成立事情
さて話を源平戦に戻そう。なんだか最近はインチキ歴史サイト(笑)になってしまいそうな感のある花鳥風月だけれど、史跡を巡ろうとするとこの種の基礎知識はどうしても触れないといけない。そんなわけでしばらくお付き合い願いたい(^^;)
さて1180年は激動の年である。宇治の戦いで源平の戦いの幕が開いたのが5月。頼朝の挙兵は8月で、相次いで甲斐、信濃でも源氏の挙兵がおこる(このうち甲斐勢はのちに頼朝に合流)。
関東ではこの間、志田、新田、佐竹、足利など反・頼朝勢力が一掃され、下野にあっては小山氏、宇都宮氏が頼朝方に付いた。この中にあって那須氏はまだ平家方で、資隆は11人の子息を平家に9人、源氏に2人(これは保険か・・・)と割り振って出陣させる。保険のうち、いちばん末の与一が活躍して那須氏は滅亡しないで済むのだが、それはまた別のお話である。
さて途中は思い切り省略する。もう義経強過ぎ!・・・ということで平家は壇ノ浦で滅亡、ここに大量の戦時難民=平家落人が発生した。その多くは九州、中国、四国など壇ノ浦に比較的近い地に潜むのだけれど、ここで超VIP級の落人が宇都宮朝綱を頼って下野に落ち延びてきた。平清盛の側近、平貞能(たいらのさだよし)である。出頭したときは重盛の妹妙雲禅尼を連れていた。もちろんこちらも平清盛の娘でありVIP級の落人である。
宇都宮朝綱は源氏方(注)の有力武将で、かつ貞能とは外戚関係にあった。頼朝が挙兵し宇都宮氏一族が源氏方に付いたときは京にいたため拘束されていたのだが、平家が都落ちする際に貞能によって開放されその後源氏軍に加わった経緯がある(平家はこういうところで妙な美学を優先して実利を失っていることが多いな・・・ ^^;)。
そのような縁があって宇都宮朝綱は源頼朝に貞能の助命を嘆願し、最終的にこれが認められることになった。吾妻鏡によると 「後日もし彼の入道反逆を企てる事有らば永く朝綱が子孫を断たしめ給うべし」 とまで言ったそうだから文字通り体を張っての嘆願だったようである。
(注)頼朝挙兵時は宇都宮氏は平氏方であり、途中から源氏方についた。また平貞能は壇ノ浦までは転戦せず、京都陥落の時点で最後まで京に残り落人となっている。
ところで助命は成ったものの、平貞能、妙雲禅尼とも時節柄あまり堂々と宇都宮城に客人として留め置くわけにもいかなかったようで、宇都宮領の北辺、高原山塊の釈迦ヶ岳に隠居することとなった。ちなみに釈迦ヶ岳とは、このとき持ち込まれた平重盛公の釈迦像が安置されたことから名づけられたといわれる。
※源氏も平氏も似たような名前ばかりでわからん、という方のために説明すると、平重盛=平清盛(平氏の棟梁)の長男で、平家物語では暴走する父清盛を諌める冷静沈着な武将として描かれる。源氏の挙兵の前年に若くして病没。その遺品の釈迦像というのは平家一門にとっては重要な宝である(現在は妙雲寺に伝わる)。
さてそれだけなら物語の筋立てとして単純にまとまるのだが、宇都宮氏にとっては頭の痛い事項もあった。実は平貞能のやってくる前、宇都宮領の山岳部は同じ発想で落ち延びてきた平家落人たちが既に多数潜伏し、会津道周辺に数百名規模の平家残党(※全員が戦闘員という訳ではない)が集結する事態となっていたのである。川治周辺には平清房の郎党が平家再興のために埋蔵金を埋めたとする伝説も残っており、湯西川の落人もこの時点では釈迦ヶ岳にいる。
しかも壇ノ浦合戦(1185年3月24日)から間もない端午の節句の頃、これら落人の女房の一人が男子を出産し、喜びのあまり平家の印である赤い幟を立てて祝ったため、源氏方の神経を逆撫でするという事態も起こっていた。鎌倉から見れば関東平野の北端で平家残党が再集結しているようにも見え、面白かろう筈もない。
湯西川資料館の年表によると平貞能が塩原に来たのは6月とある。吾妻鏡の記載では助命嘆願は一度却下され、宇都宮朝綱の再度の強い申し入れにより7月7日付で受け入れられている。
湯西川の平家落人は "幟事件" で源氏の襲撃をうけてさらに奥地の湯西川まで逃れたと伝えられているが、どうも時系列を追って出来事を拾っていくと行き当たりばったりの襲撃ではなかったように思えてくる。これは想像になってしまうが、宇都宮氏にはVIPである貞能と妙雲禅尼を受け入れるため鎌倉の不信を払拭する必要があり、会津街道沿いに集結しつつあった平家残党を追い払ってみせた・・・と解釈するのが自然かもしれない。
さてその貞能と妙雲禅尼も、まもなく釈迦ヶ岳からさらに奥にある塩原の地に移されることになる。そして妙雲禅尼が草庵をむすんだ場所が、のちに甘露山を号し妙雲寺となるのである。
…この日、塩原温泉街は "塩原温泉まつり" が行われていた。一般のクルマは温泉街には進入禁止なので1km以上歩いて妙雲寺を目指すことにする。祭りとはいっても山車がくるまでの間は閑散としている。いたってのんびりとしたものだな。
これが現在の妙雲寺山門である。門前温泉の門前とは、もちろんこの妙雲寺の門前から来ている。
現在は塩原の市街地の中心ちかくに位置しているこの寺だが、妙雲禅尼がやってきた頃は塩原の中心街は元湯方面であり、ここは集落から離れた山間の地であった。
谷間の立地ゆえか本堂までの参堂は短い。最初から大伽藍を目指した立地でもなく、隠棲のための草庵ゆえか女性の足腰でも無理のない場所が選ばれたようだ。
境内には常楽滝と称する沢水が流れ下っている。現在は庭園の一部のような誂(あつら)えになっているが、最初に草庵を結んだ頃は生活用水として使われたものだろう。
妙雲禅尼はここで5年ほど静かに暮らしたのち没した。墓として九重塔を建てたのは晩年の平貞能という。その後の貞能の足跡は不明である。
妙雲禅尼亡き後、ここは村人の管理によって仏像を安置する小庵として130年ほど存続し、その後禅宗の寺として開山した。安土桃山時代に落雷による火災で一旦焼失し、江戸時代に臨済宗の寺として再興し現在に至っている。
寺の説明書には現在でも蝶の紋が使われている。これは平家の家紋である。
境内最奥地付近には、いまもひっそりと "平家塚" が佇(たたず)んでいる。平家物語のラストシーンは建礼門院と後白河法皇の会見だが、ここにもサイドストーリーとしてのラストシーンがあるといえるだろう。
<つづく>
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