2007.09.09 塩原の古代を歩く:後編 (その3)




■源三窟をめぐる諸相




さて物語はまだ終わらない。平家が滅んだのち、狸おやじ=後白河上皇に乗せられて頼朝と対立した義経は、一転して "追討される側" になってしまう。その逃避行ルートは現在も不明で、どうやら北陸を通ったらしいことがおぼろげにわかる程度だ。・・・が、義経はあまりにもメジャー過ぎるのでここではばっさりカットしたい。

ここで注目したいのは義経に従った武将、源有綱である。あの源三位頼政の孫で、頼政が以仁王と組んで反乱を起こした際には伊豆にいたため生き残り、その後頼朝方に付いて平家と戦った。実際の戦闘では義経に従い、始終行動をともにしている。

その有綱は、義経追討令が出たのちも義経方に従った。一説では伊賀で北条時定に討たれたとも言われているが、その戦闘をかいくぐり宇都宮氏を頼って落ち延びてきたとの伝説が残っている。当サイトとしては地元贔屓でこの説に立つことにしよう(^^;) ・・・それにしてもここでも頼りにされるとは人気者だなぁ、宇都宮氏!(笑)




しかし有綱にとって悲劇だったのはそのタイミングの悪さである。平貞能、妙雲禅尼など平家勢を受け入れてようやく一息ついている宇都宮氏としては、この時期に鎌倉殿(源頼朝)から追われている義経の家来が登場するなど悪夢のようなものだっただろう。宇都宮朝綱の 「・・・勘弁してくれよ(´д`)」 と嘆く声が聞こえてきそうだ。




おかげで源有綱は非常にぞんざいな扱いをうけたようである。しかも、付近にはつい数ヶ月前に滅ぼした平家の残党が既に多数潜んでいる。そんな事情があったためか、有綱は誰かの家の世話になるでもなく、集落を離れた崖沿いの洞窟に身を置くことにしたようだ。




それが、源三窟である。"源三" とは源三位頼政の孫の潜んだ洞窟、ということで通称として呼ばれているものだ。



これがその入り口である。全長は40mほどで、箒川沿いの石灰岩の崖の中腹にある。規模としては小さいが、那須近郊でみられるほとんど唯一の鍾乳洞である。さっそく入ってみよう。




あまりに地元過ぎて実は10年以上スルーしっぱなしだったのだが、いつのまにかマネキンなどが飾られてディティールアップされている。どちらかというと源平合戦の概要がわかるように資料館のほうに力を入れて欲しいのだけれどなぁ。



さて入り口を入ってすぐのところに "米洗いの滝" と称する洞内滝がある。この水は崖のすぐ下段からふたたび地上に流れ出て箒川に注いでいるが、伝説ではここで米をといだ研ぎ汁が流れ下るのがみつかったために有綱は捕らえられたと言われる。




洞窟内には有綱を祀った有綱神社が鎮座する。もとは箒川沿いに有綱明神として祀られていたもので、三島道路(現:R400)が開通する際に移動されたという。




洞内には雰囲気を盛り上げるためにいかにも落武者然とした展示がみられるが、戦闘直後ならともかく、こんな分かりやすい格好で遠路はるばる移動してくるヤツはいない(^^;) ごく少数のお供の者と "商人" とか "旅の僧" のふりをして逃げていく・・・というのが一般的な落武者の姿だったはずである。




源三窟の解説文には、発見された後の有綱の運命については "哀れな最後をとげた" とのみ書いてあり、その詳細は語られていない。実は塩原郷内でもいくつかの伝説のバリエーションがあり、源氏の追っ手に捕らえられ斬られたとする説のほか、塩原八郎に寛大に迎えられまもなく病で死んだ(塩原の里物語ではこの説を採用している)とする説もある。

筆者としては・・・そうだなぁ、いかにもありそうなのは、先にこの付近に大量潜伏していた平家落人に逆襲されて狩られちゃった説というのが一番しっくりくるような気がする。まあ今となっては確認のしようもないことだけれども(^^;)




洞窟の傍らには、有綱の墓とされる墓標がのこっている。もとは少し上流側の小田ヶ市にあったものを水田拡張にともなってここに移動したものらしい。ちなみに小田ヶ市とはもとは "御他界地" といったそうで、源有綱が亡くなったところだと伝えられている。

源平争乱に伴う塩原の記録は、この有綱伝説をもって終わる。

この後は奥州藤原氏討伐戦が行われ、三依〜塩原は恩賞として長沼氏(会津)に与えられたようだ。よく宇都宮氏がこの沙汰を受け入れたな・・・と思うけれど、宇都宮氏は同じ頃鎌倉方に "公田百余町を掠領するの由" の嫌疑をかけられているので、これも含めたバーターだったのかもしれない。戦国期にはふたたび宇都宮氏がじわじわと塩原を削り取っていくことになるが、それはまたの話にしよう。べべべん♪




さて通りが賑やかになったな・・・と思ったら、温泉街の踊り行列が始まっていた。現在の塩原はどちらかというと源平争乱よりは明治期以降の "文学の里" として売り出している。それは明治期、三島道路と東北本線の開通によって交通事情が一変したことで著名人(文人が多い)が訪れたことに端を発するものだ。とりわけ新聞の連載小説の舞台となり知名度が上がったことが、塩原温泉郷の賑わいにとっては大きかったということだろう。




午前中は閑散としていた通りもひとたび拍子が鳴り出せば人の列である。古い温泉街だけに踊っているのも古びた…あーごほんごほん、むにゃむにゃ。まあその中でも数少ない若い娘にピントが合ってしまうのは自然の摂理なので人智ではどうにもならない。まあ、そこはそれでうわなにをすくぁwせdrftgyふじこ



さてここが賑やかになるのは、10月も後半になり山が染まる頃だ。今年はどんな風景をみせてくれることだろう。その頃またふたたびここを訪れることとして、これにて一旦締めくくりとしたい。べべべん、べん、べんっ♪


<完>



■あとがき


塩原というと "温泉" "紅葉" というイメージが強く、源平合戦に絡んだ話というと確かに妙雲寺や源三窟などがあるのですが 「いまいちピンと来ない」 という人は多いのではないかと思います。筆者も実はそんな一人で、部分的にせよ平家物語や吾妻鏡を斜め読みして "なるほどこーゆーことかー!" とようやく話の構造が自分なりにつかめた、という状況だったりします。とくに狭い里に源氏と平家の落人が混在している理由などは、温泉郷マップではなく日本地図を広げて1180年〜1185年の激動の数年間と宇都宮氏、その配下にある塩原氏・・・という視点で見ないと理解するのは難しいと思います。

【平家VIP級落人】 さて平貞能の話などは落人といっても実に堂々としたもので、鎌倉時代の代表的な歴史書 "吾妻鏡" に顛末が記載されています。三浦三崎ひとめぐりさんに鎌倉時代の膨大な古文書がテキスト化されていますので一部を引用させていただきましょう(吾妻鏡:元暦2年=1185年7月7日の段)。

前の筑後の守貞能は平家の一族、故入道大相国専一の腹心の者なり。而るに西海合戦敗れざる以前に逐電し、行方を知らざるの処、去る比忽然として宇都宮左衛門の尉朝綱が許に来たる。平氏の運命縮まるの刻、その時を知り、出家を遂げ、彼の與同の難を遁れをはんぬ。今に於いては、山林に隠居し往生の素懐を果たすべきなり。但し山林と雖も、関東の免許を蒙らずんばこれを求め難し。早くこの身を申し預かるべきの由懇望すと。朝綱則ち事の由を啓すの処、平氏近親の家人なり。降人たるの條、還ってその疑い無きに非ずの由御気色有り。随って許否の仰せ無し。而るに朝綱強いて申請して云く、平家に属き在京するの時、義兵を挙げ給う事を聞き、参向せんと欲するの刻、前の内府これを免さず。爰に貞能朝綱並びに重能・有重等を申し宥めるの間、 各々身を全うし御方に参り、怨敵を攻めをはんぬ。これ啻に私の芳志を思うのみならず、上に於いてまた功有る者かな。後日もし彼の入道反逆を企てる事有らば、永く朝綱が子孫を断たしめ給うべしと。仍って今日宥めの御沙汰有り。朝綱に召し預けらるる所なり。

朝綱の名セリフが光っていますが、↑これ平家物語などの講談調の物語ではなく歴史書の記述ですからね(^^;)。ともかく平貞能(+妙雲禅尼)の受け入れは下野国では宇都宮氏の家運を賭けた非常にメジャーな事件で、ひっそりと落人が山奥に・・・という話ではなかったわけです。これに湯西川の平家落人伝説、源有綱の源三窟を時系列順につなげると、おおよその事件の流れが見えてきます(川俣はまだ未取材なのでなんとも^^;)。それにしても、源氏方にせよ平家方にせよ、なんとも大変な時代だったんですね・・・


■左靫について


左靫(ひだりうつぼ)の戦いについては、筆者は "塩原の里物語" を読むまで知らなかったのですが、温泉街でお年寄りに聞いて見るとちゃんと知っているんですね。ネット検索してもほとんど出てこないので、これは全国的には "秘話" に近いエピソードかもしれません。

龍化の滝付近を巻いている古道がその場所だと聞いて行ってみたのですが、なるほど確かにこれは難所です。といいますか、これは "道" とは言わないんじゃないの?的な断崖絶壁の這い跡な訳です(^^;)。これを見たとき、ああ塩原というのは那須野ヶ原方面に開いた地勢ではないんだ・・・ということが実感されました。なるほどこれなら宇都宮 vs 長沼の所領争いになって那須勢が絡んでこないわけです。

"塩原の里物語" は、歴史エピソード的にはツッコミどころも多く塩原八郎家忠などは150歳くらいは生きてる仙人なんじゃないの?的なところもあるのですが、他には見られない面白い話が載っているので、折をみて実地検分してみようと思いますヽ(´ー`)ノ まあ気長にお待ちいただければ♪

<おしまい>