2011.10.23 那須硫黄鉱山跡を訪ねる:後編(その4)

 



■牛守護大日尊


 
さて鉱床から降りて、峰の茶屋避難小屋ですっかり冷たくなったボトルコーヒーを開けて一服してみる。

ここは冬季には日本海側から吹きつける季節風が抜けていく "風の通り道" に当たっており、避難小屋は昔の茶屋と同じく風上側に石垣を積んで一段低くなったところに建っている。筆者は小学校の頃にまだ売店の建物が残っているのを見た記憶があるのだが、現在の避難小屋より粗末な掘っ立て小屋のようなものだった。


 
そのすぐ横に、「牛守護大日尊」 と掘られた碑がある。大日如来=山岳仏教の守護本尊を祀ったもので、その出自を辿っていくと真言密教に行き着くのだが、ここに建っている碑には仏教的な深い意味はあまり感じられず、一般的な山の神として祀られたもののように思える。建立は昭和2年と刻印されており、鉱山の現役時代のものである。

隣接する大噴の鉱床から見て丑の方角にあるので牛なのかな…とも当初は思ったのだが、どうやらそれほど深いひねりは無いようで、どうやら文字通り "牛を守護してくださいまし" という意味合いであるらしい。


 
牛といえば、戦前は三斗小屋温泉方面から燃料用木材などを牛の背に乗せて鉱山に供給するルートがあった。…と書くと 「国立公園で木を伐るとはケシカラン!!」 などと憤慨する自称自然保護派の人が出てきそうだが、那須の山岳部が日光国立公園に編入されたのは昭和25年のことであり、戦前は木材の伐採に特に制約はなかったのである。

三斗小屋は明治26年頃以降、銅の採掘/精錬が行われ、明治末期には人口の半分が鉱山関係者である(※)。採掘場所は三斗小屋宿の墓所から山側に少し入ったあたりで、鉱種は黄銅であった。精錬には燃料として木材を大量消費するためそれ用の材木業者がおり、那須硫黄鉱山はここから燃料の供給を受けたようだ。

※人口の半分といっても44名中21名という中小企業クラスの規模であり、それほどの大鉱山という訳ではない(^^;)


 
余談になるが三斗小屋銅山は大正時代前半には第一次大戦の需要に支えられて好景気に沸いたものの、戦後は需要が減って経営難となり、たびたび休山となっている。牛守護大日尊の碑が建った昭和2年というのはその苦しい時期と合致しており、筆者的にはそこはかとなくこの木材調達は那須硫黄鉱山が三斗小屋集落に差し伸べた経済的救済の側面もあったのかな…などとと想像している。

三斗小屋は会津中街道の栄枯盛衰とともに語られる今は消滅した集落だが、その最後の姿はかつての "宿場町" からは随分と変遷して、鉱山の集落であった。三斗小屋銅山が廃坑となったのが昭和29年、最後の住民が転出して廃村となったのが同32年であるから、鉱山時代の終焉こそがその命運を決定付けたといっても過言ではないだろう。

…そしてそれは、那須硫黄鉱山の盛衰ともほぼ一致しているのである。




■索道


 
さてここからはいよいよ索道跡を下っていく。

鉱山索道の基点は峰の茶屋の脇70mほどのところにあり、木造の遺構としては最も原型を留めている。…といっても櫓(やぐら)は既に倒壊しており、残っている木組みは硫黄積み出し部分の土台程度だ。


 
木組みの周辺には建物の土台らしい石組みと掘立柱の痕跡がいくつもみえる。


 
こうしてみると、鉱床の周辺には結構な建物が散在していたことがわかる。

現在はその多くが撤去されたり倒壊して目立たなくなってしまっているけれども、鉱山が現役の頃はこの付近はもっと賑やかに人の活動する場所だったらしい。


 
さて風の強いところであるせいか、ワイヤーロープを支えたであろう櫓もことごく風化して倒壊してしまっている。しかし現在でもその残骸は点々と登山道に沿って続いており、なんとかそのルートを追うことは可能だ。


 
向かい側の朝日岳方面からみると、往時の索道はこのように見えた筈である。平面地図ではピンと来ないが、索道も登山道も実は結構な急傾斜で、峰の茶屋から鉱山事務所に降りると直線距離1.3kmに対し、その高低差は260mほどもあった。

当時の索道は、この傾斜を利用して鉱石を積むとその自重でゴンドラが下りていくものだった。うまく考えたもので、下から何かを持ち上げるより上から重量物=硫黄鉱石を降ろす方が圧倒的に多かったため、これで充分鉄索(ワイヤー)を往復させることが出来たのである。年間何百トンもの鉱石を運搬したのに電気代も燃料代もかからなかったというのは結構スゴイことで、もしこれを現代企業の改善活動で提案したら間違いなく特別賞がもらえるだろう。

なお索道は基本的には下り専用であったが、軽量な荷物であれば上り側のゴンドラに積んで引き上げることができた。茶屋のサイダーなどは人が担いで引き上げるより、ここに間借りして持ち上げたほうが合理的な気がするけれど…実際はどうだったのかな (^^;)



 
しかしそんな創意工夫のあった索道も、今ではすっかり風化してこんな状態になっている。事情を知らない人がこれを見ても、索道の櫓跡とはとても思わないだろう。



 
鉄索(ワイヤー)を支える櫓は昔の写真を見ると高さが8〜10mほどあり、三角錐のてっぺんにワイヤープーリーを支える梁が乗り、メンテナンス用の梯子が付いた形状をしていた。柱は電信柱くらいの太さがあったようだが、現在では表面が風化して剥がれ落ち芯の部分だけがか細く残っているに過ぎない。


 
櫓はまだ柱の数本くらいはかろうじて立った状態を維持しているけれど、もうあと何年も保ちそうにない。残った柱が倒れてしまえば、あとは木っ端みたいな破片が風に飛ばされながら朽ちていくのみである。


 
…そうなると、今がこの微かな痕跡を確認できる最後の時期…ということになるのかもしれないな。




■山神の碑


 
さて登山道を下ってくると、やがて森林限界を下回って木々のなかを進むようになる。薄いながらも表土が保持されて保水力が保たれるのがこの付近からである。鉱山事務所跡まではあとわずかだ。


 
やがて事務所に抜ける直前に、大きな岩を巻いていくカーブがある。ここに小さな神社があり、山神が祀られている。硫黄鉱山の社長氏が従業員の安全を祈願して建立したものといわれ、おそらくは背後の大岩が御神体ということになるのだろう。境内は自然石で素朴かつ朴訥(ぼくとつ)に造作され、心なしか煙道の石組みを夢想させる。鉱山らしい趣に溢れた神域である。

ここは硫黄鉱山が閉山した後は長らく草木に埋もれていたが、山岳救助隊による登山道整備に伴い2009年に雑草の中から発掘された。現在ではここだけが、鉱山時代の遺構の中でほぼ唯一、当時の姿そのままに整備され保存の対象になっている。


 
碑は自然石の表面に 「山神尊」 とのみ掘ってある。「尊」 は仏教の表現なので神仏分離以降としてはちょっと変なところがあるのだが、おそらくは丁寧語みたいな感覚のものでそれほど深い意味はないだろう。

具体的にどんな神様か…という表記は残念ながらないのだが、山神とは特に断りが無い場合木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を指すことが多い。金/銀/銅などの金属系の鉱山では金山彦神(かなやまひこのかみ)、金山毘売神(かなやまひめのかみ)を祀ることもあるのだが、硫黄は非金属なのでこれには当たらない気がする。

※…が、建立した社長氏はそこまで深く考えていなかった…というのが一番有り得そうなオチかも(^^;)


 
その山神碑の設置の由来を記した解説板が、すぐ脇に建っている。登山者が目にするであろう最も詳しく硫黄鉱山について書かれた解説だが、あくまでも碑の復活について書かれたもので鉱山についての詳細まではわからない。しかしこれがあることで鉱山の存在を知る登山者も多く、何もなかった3年前に比べたら遥かに状況は改善している。


 
そしていまや山の神2.0とでも言うべき新たな碑も建立され…


 
灯篭と社殿も再建されている。どうしてこんな即席の団地みたいな状況になってしまっているのか事情はよくわからないけれど(笑)、まあ少しでも神様の居心地に気を使って登山者の安全を祈願しているのだろうと解釈したいw


 
なお案内板にある鉱山操業時期が明治45年〜というのは那須の硫黄鉱山そのものの始まりを指すものではなく、おそらくは戦後まで現役だった那須硫黄鉱山株式会社の創業時期を指すものだろう。那須にはもうひとつ平山鉱山(残念ながら詳細はよくわからない)というのがあり、やはり煙道法で火口硫黄を採掘していたのだが、こちらは明治20年代から操業していた。

ただしこの鉱山会社は那須で儲けた資金を北海道の十勝岳に投資して新鉱山を立ち上げた後に、その十勝岳が噴火(大正15年)して多数の死傷者を出し、鉱山事業からは撤退している。結局、人々の記憶にかろうじて残っているのは最後まで事業を継続した那須硫黄鉱山株式会社のみ…というのが実態で、それ以上昔のこととなるとやはり霧の彼方なのである。




■ふたたび、峠の茶屋にて




さて長々と駄文を連ねてきたが、そろそろ締めくくりとして峠の茶屋について記してみよう。山神の碑のすぐ下手に、古びた狛犬と鳥居がある。ともに鉱山時代の遺物である。神道的にはここから上が神域であり、ここから下が俗世ということになる。

この鳥居から下側200mほどが、硫黄鉱山のベースキャンプともいうべき "峠の茶屋" 地区となっている。鳥居裏に流れる沢水が "最後の給水ポイント" を兼ねており、ここは人が滞在できるぎりぎり標高の高い場所でもあった(現在では簡易浄水場が造られており沢水を直接飲んでいる訳ではない)。ここに作業員宿舎や事務所が造られたのは、なによりもこの水の供給が最大のポイントだったと筆者は考えている。


 
鳥居の正面には、登山指導センターの建物がある。指導センターといっても人がいるのを見たことが無いのだが(^^;)、ここがかつての鉱山事務所の跡地だ。

山頂側から下ってきた索道はこの建物の裏手が終点で、そこから積み降ろした硫黄鉱石は現在の園地のスペースに仮置きされていた。


 
その園地のなかで、東屋のある一角がかつての作業員宿舎跡である。峠の茶屋で聞いたとこ ろ、ここに常駐していた作業員は80名ほど居たそうで、その他に明礬沢方面にも飯場があり人が入っていたという。それも含めた総人数がどのくらいであったのかは、残念ながらよくわからない。


 
茶屋の正面を横切る通路がかつてのメインストリートである。湯本から旧道を登ってくると、丸太で作られた簡素な門をくぐってこの茶屋前をとおり、精錬所、作業員宿舎を経て事務所にたどり着いた。かつては観光登山者も同じ道を行き交っており、お土産代わりに硫黄の塊を貰ったりしていたらしい。


 
精錬所の正確な跡地はどのあたりですか、と茶屋で聞いてみたところ、ここですよと教えて頂いたのがこの駐車場である。現在は茶屋で使用している面積以外は草木で埋もれてしまっているが、かつてはここに精製釜があって硫黄鉱石を焼き、昇華したガスを冷却して純硫黄を得ていた。精製硫黄の純度は火口硫黄とほぼ同じ99.6%程度の品質であったという。

硫黄の運搬の便を考えてのことか、ここを抜けるメインストリートにはゆるい傾斜がついている。…これは、地図を見るよりも現地の状況を見たほうが感覚的に納得しやすい。精錬所から下り側の索道基点=第二駐車場までの動線が、実にスムーズにつながっている。


 
それでは現在の第一駐車場のスペースは何だったかというと、なんとここも硫黄鉱床跡なのである。ただし噴気の出る鉱床(活き山)ではなく、鉱石を掘って人為的に焼いて精錬をするタイプのヤマであった。これは筆者も初めて知ったことで思わず茶屋の方に何度も念を押してしまったのだが、間違いないとのお話だった。

つまりここも、立派な産業遺構なのである。駐車場が潰れたひょうたんみたいな変な形をしているのは当時の露天掘り鉱区の形をそのまま受け継いだものらしく、これはこれで貴重なものだ。栃木県庁の何の工夫も(中略)仕事振りには、やはり感謝しなければなるまい ヽ(´∀`)ノ


 
改めて、駐車場に降りて眺めてみる。何の知識もなければ、ここはオンシーズンには忌々しい渋滞のタネになるただの駐車スペースにすぎない。しかしこれ自体が鉱山跡地であると知れば、なにもスタスタと山頂を目指すだけが観光ではないと思えるだろう。


 
それにしても…これで那須の鉱山の全体像というものがざっくりと矛盾なくわかったような気がする。湯元から単純に火口を目指すだけなら行人道を通ったほうが近道なのに、なぜ北周りのルートが選ばれたのか。またどうしてここに鉱山事務所が置かれベースキャンプ化が進んだのか。鉱床は山頂にあるのに、なぜ精錬所がここに置かれたのか。

それは、ここ自体がすでにひとつの鉱山で、掘り出した硫黄鉱石を敷地内で精錬する合理性があったこと、および水の補給ができたこと、そして山頂の火口までが徒歩1時間の通勤圏内で大量の作業員が常駐できたこと…つまり、そういうことなんだな。


 
…そんなわけで、筆疲れもしてきたので 「えいや!」 …で新旧ごちゃ混ぜの茶屋MAPを作ってみた。

戦後に作られた観光ロープウェイとボルケーノハイウェイを除いてみれば、ここが鉱山という切り口で矛盾無く一本道でつながった土地柄であることがわかる。これを眺めてみて、やはり、奥那須は観光以前に鉱山の山なのだな…という印象を、筆者は深く持ったのであった。




■茶飲み話のエピローグ


 
さてもういい加減に長くなってきたのでこの辺で一区切りにしたい(^^;)。最後に茶屋で腹ごしらえをしながら、名も知らない登山客氏も交えて多少のヨタ話をした。やはりというか、紅葉狩りを主目的に来ている方々は、硫黄鉱山の存在をほとんど知らない。

「こんなところで何が採れたんですか」

「硫黄ですよ」

「へえ…!」

…そんな話をしていると、面白がった茶屋の主人氏が1枚の写真を持ってきてくれた。


 
50年前の写真ですよ、というその写真に写っていたのは冬季の無間地獄の鉱床であった。煙道法でも昇華法でも硫黄の精製は自然冷却で析出させるものなので、オンシーズンは冬季だった。この写真は晴天の日を選んで撮影されたもののようだが、那須山塊は冬季には雪雲に覆われることが多く、風も強い。そして降る雪は氷の粒が当たるような痛さで頬を打つのである。

…このヤマに、数多くの鉱夫たちが通って仕事をしていた時代があったのである。電気も通じていなかった時代、人力と無動力の索道で、年間1800トンを越える硫黄が精製され出荷されていた。山頂付近にあった遺構のいくつかは、こんな風景の中で作業員が暖をとった休憩所であったに違いない。


 
観光登山が主流となった現在、冬季のボルケーノハイウェイは自家用車による来客 (しばしばノーマルタイヤで登ってくるチャレンジャーな人がいる^^;) を基準にして、大丸温泉から上側が閉鎖されてしまう。鉱山時代と比べると随分手前側で止められてしまう訳だが、しかしこれは戦後に開かれた車道の規制に過ぎず、徒歩で登る登山道は真冬でも火口まで歩いて行ける。

…それは、今では忘れられてしまった硫黄鉱山の、ほとんど最後の置き土産のようなものかもしれない。

茶飲み話に花を咲かせながら、筆者はそんなことを思ってみた。

<完>





■あとがき


もっと単純に軽やかにまとまるかな…と思っていた本稿ですが、予想に反してツメコミ式のレポートになってしまいました。どうもコンパクトにまとめる才能が無いようなので相変わらずダラダラ気味でしたが、まあそれはいつものことなので 「えいや!」 と割り切ることにいたしましょう(笑)

さて普段から那須の山々…特に茶臼岳周辺はよく歩くところなので一通りチェックポイントは見ているつもりだったのですが、結構な見落とし、見過ごしというのはあるもので、今回は文字通り "灯台下暗し" を実感することとなりました。筆者は那須の登山道というのは基本的に三斗小屋宿の隆盛以降、白湯山/高湯山の信仰登山で開かれたものと思っていたのですが、硫黄鉱山も相当それに関与しているような印象です。峰の茶屋から牛ヶ首方面のトロッコ軌道などはまさにそんな事例のように思われます。


 
ところで今回の調査で最後まで謎のまま残ったのが峠の茶屋の硫黄鉱床の開発時期でした。ここはナニゲに重要拠点で、現在の主要登山ルート≒鉱山時代の火口アプローチルートはここを経由することを暗黙の了解としていなければ成立しません。これは相当早い時期に拠点化が進んだものと思われ、もしかすると黒羽藩時代に湯本側からのアプローチが行われた頃には大関弾右衛門の開発鉱区リストに入っていたのかもしれませんね。

硫黄鉱山のうち分かりやすいのはやはり山頂付近の遺構で、森林限界より上であるために石組みなどが草木に埋もれておらず、非常に確認しやすい状況となっています(なかばガレに埋もれつつはありますが…^^;)。せっかく登山したのにこれに気がつかずスルーしてしまうというのは非常に勿体無い話で、普通に登山道を歩いているだけで鉱山の産業遺構をいくつも経由していくのですから、ほんの数歩分、上の段から周りを見渡してみる余裕をもちたいものです。


 
ところで本編では硫黄の用途について火薬の事例ばかりを取り上げてしまいましたが、民生用としては合成ゴムへの添加剤などの工業用途の他、マッチなどにも幅広く利用されていました。ただし昭和20年代くらいまではマッチはまだまだ高価なもの(輸出用が結構多い)で国内では一般には普及せず、実際に使われていたのは 「付け木」 とよばれるより簡易なものでした。どのようなものかと言うと、薄く削った杉材の端に硫黄を塗りつけたもので、これをアイスの棒くらいの幅で割って火起こしに使ったのです。一般庶民にとっての硫黄は、この付け木のイメージで理解されていたように思われます。

付け木にはマッチのように摩擦で発火するような機能はなく、種火に硫黄部分をちょいと触れさせて燃焼させ、それを竈(かまど)に持っていって焚き付けに使いました。戦後間もない頃の那須地域ではどこの家庭にもまだ囲炉裏があり、灰の中ではオキが熱をもっていたのでそれを種火にしたそうです。

…といっても、今どきの若い方(…って、この言い方イヤだなぁ:爆)はオキといってもピンと来ないかもしれませんね。炭の燃焼が進んで表面が白くなった状態のものを古い言葉でオキといいます。この状態では炭は内部が赤熱しながらも穏やかに長時間燃焼を続けるので、じっくりと炙(あぶ)るような焼き物をするのには重宝しました。さらにこの状態で囲炉裏の灰をかけておくと一昼夜くらいは熱を持っていたので、付け木と組み合わせると非常にリーズナブルな着火装置になったのです。

田舎の農家などではこれが昭和40年代頃まで現役で使われており、筆者の爺婆様も使っていたそうなのですが、筆者は台所の火力=プロパンガスの記憶しかありません。付け木の時代を知っているかどうかで硫黄鉱山への想いというのも随分違ったものになってくるような気はしますが、残念ながら筆者にはカタログスペック以上のことは分からないのでした。


 
さて那須に限った話ではありませんが、日本の硫黄鉱山は戦後競争力を失い昭和40年代にはすっかり消滅しています。もともとアメリカ、メキシコなどの大規模鉱床では簡便/安価なフラッシュ法(※)で硫黄が採掘されており、戦後それらが日本市場に入ってきたこと、および昭和30年代に公害対策としての石油精製の脱硫装置整備が進んでその副産物として安価な硫黄が市場に流通したことがその原因と言われています。

ところで那須硫黄鉱山株式会社の硫黄採掘は、山神の碑の解説によると昭和23年で終わったような表記になっていますが、どこかの国の将軍様のようにある日突然ポックリと急死した訳ではなく、化学会社に衣変えしたり他社と合併したりして延命措置が図られ、細々とは続いていたようです。しかしやがてそれも立ち行かなくなり、正式に閉山となったのが昭和35年頃でした。

この間、かつて地域を支えた鉱山業に変わる新しい産業の創出が課題となり、那須町、および栃木県は観光開発のより一層の推進を図ることでを雇用創出を目指すこととなりました。この頃までには那須地域は国立公園化が進み新規の土地造成などは難しくなっていたのですが、これは鉱山施設の跡地を活用することでクリアしたようです。こうして鉱山跡地を活用しながら、新たに有料道路(ボルケーノハイウェイ)、観光ロープウェイなどが整備され、バス路線も開かれていきました。

有料道路が開通したのは昭和40年…鉱山が操業停止した5年後のことです。これ以降、"豊かな自然" を全面に押し出して那須(特に奥那須)の観光開発は一気に進んでいきました。

…そして、鉱山の存在は次第に忘れ去られていったのです。

※フラッシュ法:高温の水蒸気を地下の硫黄鉱床に吹き込んで溶融、噴出させて回収する採掘方法。

 
さてオチらしいオチもなさそうなので、最後に噴気孔から持ち帰った硫黄を燃焼させてみた写真を掲載してみましょう。有毒ガスが出るので締め切った部屋では絶対に真似しないで欲しいのですが、火をつけると硫黄の塊はクリームのようにふわりと融けて、青い炎を出してゆらゆらと燃え始めました。

…これが、とても神秘的で幻想的な色なのです。精錬所で焼かれた鉱石も、やはりこんな色で燃えたのでしょうかね。さらには噴火する茶臼岳の夜景にも、やはりこんな青い炎が見えたのでしょうか。

今ではもう、わかりません。残っているのは物言わぬ遺構のみで、手を伸ばせば届きそうな時代なのに人々の記憶は曖昧です。ご当地の観光関係者も実は世代交代が進んでいて、筆者は4週間ほどかけてあちこち取材して回ったのですが、鉱山時代を知る人は本当に少ない。ああひとつの時代が確実に過ぎ去ったのだな…と、不思議な感慨が残るばかりでした。

以前巡った東野鉄道の項でも書いたような気がしますが産業遺跡というのは廃業した直後は粗大ゴミみたいな扱いを受けます。それを乗り越えて一定の時間が経過すると再評価されて部分的に保存/整備が行われることもあるのですが…どうやら那須硫黄鉱山はそういう評価を受けることなく静かなる風化の途上にあるようです。まあ国立公園内の話だし風化していくのも自然の内だよ…と言われればその通りなんですけどね(^^;)


<おしまい>