2013.02.11 中部北陸:雪国紀行 〜白川郷編〜 (その3)
明善寺
さて集落の少し奥まったところに、ひときわ大きな合掌造りの建物があった。外見上は他の古民家とあまり変わらないが、実はこれは仏寺の倉庫(庫裡:くり)兼宿坊である。
この寺は明善寺といい、この集落の鎮守の役割を果たしている。本堂はもう少し仏寺っぽいテイストがあるのだが、筆者的には村内最大規模を誇るこの庫裡のほうに興味があって、まずはこちらに入ってみることにした。ちなみにここは現在では郷土資料館を兼ねていて、内部を見学できる。
…で、入ってみると、これがもう、暗いのなんの(^^;) ちなみに写真(↑)は2階部分である。一応蛍光灯がいくらか設置してあるのだが、それでも目が慣れるまでにはしばらくかかった。
安直な "ほんわか系の昔話風" なノスタルジーを期待している人には少々残念な話になるけれども、雪国仕様の分厚い茅葺屋根には採光窓のような構造はない。電気が通じる以前は光源と言えば板壁側の窓明かりくらいで、夜間は行燈(あんどん)くらいは灯したかもしれないけれども、家の中は基本的に穴倉にも似た薄暗い空間なのである。
フラッシュを炊いて撮ってみると、屋根の裏側はこんな感じになっていた。雪の重みに耐えるため梁や柱は太い一本木が使われており、釘は使わずにホゾと縄を組み合わせて構造材を留めている。雪の重みがかかった場合は縄の部分がバネのように働き、屋根全体が撓(しな)って応力の集中を分散し破断を免れるようになっているようだ。…うまく考えたものだな。
3階、4階は板張りではなく、通気性のある格子床に渡り板が載った構造になっていた。案内板によると昔はここで養蚕をしたとある。寺の庫裡で養蚕というと不思議な感じがしないでもないが、付近の山村では昔は一般に広く養蚕が行われており、この寺もそのトレンドに乗って自主財源として養蚕のアルバイト(?)をしていたのである。平地であれば寺院はいくらかの封田を持ってその収穫で経費を賄うことも出来ただろうが、山中ではそもそも使える土地が少ないために、このようなことになったらしい。
白川郷での養蚕は、それ専用に建物を建てるのではなく、住宅の内部で行われた。豪雪地帯では作業場(飼育場)を平面方向に広げるには土地面積の点からも建物の維持管理の点からも限界がある。そこで急勾配の屋根をもった住宅を大型化して、内部を三層、四層に区切ってスペースを確保するようになった。これが白川郷の合掌造り古民家のデザインの原型と言われている。
養蚕は労働集約産業の典型で、とにかく人手が必要だった。そこで労働力を分散させないように、白川郷では家族計画に特異なルールを設けた。具体的には正規の結婚ができるのは長男のみ、という不文律をつくった。
つまり分家は認めない。ハードウェアとしての住宅(兼養蚕施設)も基本的に増やさない。そして労働力としての家族はひたすら内側に囲った。他の地域では農家の次男坊、三男坊といえば家を出るのが一般的だったときに、ここでは逆の方法論が採られた訳で、当時の白川郷の人々はそのほうが合理的だと考えたのである。
ただそうなると "嫁をとる" ことが出来ない次男、三男には結婚問題が生じてしまう。…が、それに対しては、なんと平安時代の公家よろしく通い婚をすることで手を打った。通い婚とは相手の女性と一つ屋根の下では生活せず、旦那のほうが時々出かけていって合うという別居婚の一種である。そうやって生まれた子供は妻の家の労働力として囲われた。…こうして囲い込みが続く限り、「家」 は養蚕マシーンとして永続していくのである。
…これが、それぞれの家の大家族化と、村内の濃密な親交関係の強化、そしてさらなる住宅の大型化につながっていった。そしてこれを何代にもわたって繰り返した結果、白川郷のこの独特の集落が形成されていったというのである。
…そういう事情がわかってくると、これらの古民家を見る目も変わってくる。
つまりこの合掌集落は、建物の形の面白さだけを見ていてもその本質はなかなか見えてこない。産業史とか民俗誌もひっくるめて、コメ作りでは農業生産性の見込めない土地でどうやって生計を立てるか…という試行錯誤の果てに、お蚕様との共存を見出していったことを理解しておかねばならない。
集落の歴史はおよそ700年前まで遡れるそうだけれども、養蚕が主要産業になったのは江戸時代の初期頃と言われ、ざっと400年ほど前にあたる。…それ以前がずっと試行錯誤の時代とすれば、生存のための一応の "回答" が得られるまでに費やされた世代の層の厚さは300年分にも及ぶ。
…これは本当に、気の遠くなるような話だ。
■本堂
さて上階を見た後はふたたび1階に戻り、廊下を伝って歩いていく。この付近は住職氏の生活スペース(なんと庫裡の1階に住んでいる ^^;)なのだそうで、勝手に引き戸を開けて中に入ってはいけないらしいが、廊下そのものは順路になっていて通ることができる。
…で、進んでいくと何と一歩も外に出ることなく本堂に入ることが出来るのである。うーむ、雪国ならではの構造だなw
正直なところ、雰囲気としては少々異様な感じがする空間だ。四方が締め切られて "解放感" というのが微塵もなく、まるでダンジョンの奥底でボスキャラに遭いました…という感じでご本尊と対面することになる。厳冬期だから雪囲いが厳重なだけかもしれないけれど、太平洋側から来た者にとっては、この密室感というのがどうにも落ち着かない(´・ω・`)
ちなみにここのご本尊は阿弥陀如来である。ここは宗教的テリトリーとしては親鸞の唱えた浄土真宗の地にあたり、ちょうどこのあたりまでが浄土真宗、ここから南側が白山系の天台密教という棲み分けになるらしい。阿弥陀如来は親鸞の著した顕浄土真実教行証文類で民衆を救うと説かれているご本尊だ。
浄土真宗といってピンと来ない人には、別名である "一向宗" の方が分かりやすいかもしれない。…そう、戦国時代に猛威を振るった一向一揆を興したあの宗派である。恐ろしいほどの団結力と死をも恐れぬジハード的な戦闘力で一時期は越中国をほぼ支配下に置いていた。(…といっても結局は信長勢に平定されてしまうのだが ^^;)
ナニゲに掲げてある門徒の心得も、そんな歴史を知って眺めるとちょっとカルトでドスの効いた宣言文のように読めなくもない…かな?( ̄▽ ̄;)
ご本尊を拝した後は、ふたたびダンジョンを戻って囲炉裏スペースで小休憩。ここも四方に窓はなくあまり爽快な感じはしないのだが、建物が大きいと内側の部屋はどうしてもこうなってしまうのだろう。
一向一揆の時代の寺院は砦(とりで)としての性格も併せ持ってことから、筆者はその匂いのようなものが残っていないかと思ってこの空間を眺めている。恣意的に見れば、この部屋も四方を固めて作戦会議室っぽく仕上がっているように見えなくもない。…が、建物は江戸時代の築でリアルな戦国時代のものではなく、しかもここは江戸時代には天領なのであまり物騒な施設は作れない(筈)。そんな訳で、ここではあまりムリヤリな結論に持っていくのは避けておきたい。
ところでナニゲに薙刀(なぎなた)などが飾ってあったので 「これ何です?」 と聞いてみた。案内係の人曰く 「昔武家から嫁さんを頂いたのでそのときに持ち込まれたものです」 とのことで、筆者はてっきり僧兵とか一揆に絡んだものかと期待したのだが予想は外れてしまったw
それにしても、そんな由緒ある品(多分真剣)が何の説明もなしにポロっと飾ってあるあたりに、なにやら凄味のようなものを感じる。思えば禁刀令はなんちゃって式ににスルーされているし、何よりここは "仏寺" なのである。
…こういうところにチラリズム的にみえるエッセンスを掘り下げていくと、いろいろと面白い考察が出来そうな気がする。今回はわずか半日ばかりの滞在であまり深くは見ていないけれど、白川郷というのは深く知るほどに興味深いテーマに溢れているようだ。
<つづく>
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