2013.02.11 中部北陸:雪国紀行 〜白川郷編〜 (その4)
寺を出た後は、ふたたび集落をゆるゆると散策してみた。集落内はそれなりに除雪されているので歩きやすい。しかし雪と建物のコラボレーションを撮ろうとするとあまり綺麗に除雪されているのもアレなところがあって、カメラマン的視点ではちょっと微妙な状況かな。
そんな訳で、あまり人が出入りしない小さめの納屋などを狙ってみる。写真として映える=雪が本来の積雪分の厚さで残っているのは、やはりこういう小スポットか集落の外周部付近になってしまう。ノスタルジックな風景を狙うのもナカナカに大変だ。
さて庄川の向こう側に、新しく移築されたらしい古民家群がみえた。どこかの団体旅行の添乗員氏が大声で説明しているのを聞くと、どうやらあそこは居住区ではなく、昔の風景を再現したテーマパークみたいな場所らしい。資料も豊富に見学できるそうなので、一丁覗いてみることにしよう。
…うわ、でもあちらも観光客が多そうだなぁ( ̄▽ ̄;)
合掌造り民家園
さてそんな訳で箱庭ワールド前までやってきた。
ここは正式には 「合掌造り民家園」 というそうで、白川村の運営する公式の野外博物館という位置づけになるらしい。園内には実際の村落に近い密度で建物が並んでおり、往時の山村の様子を偲ぶにはちょうど良さそうな造りになっている。
実はさきほどまで筆者が眺めていた合掌集落(実際に人の住んでいるエリア=上記写真の川向こう)では、せっかくの古民家群も土産物屋とか民宿に改装されているものが少なくない。良くも悪くも近代化(…と言うか観光化というか ^^;)の洗礼を受けてしまっている。
しかし 「合掌造り民家園」 では明治期以前の姿を残す状態のよい物件を選りすぐって移築し、余計な手は極力加えずに保存に徹している。昔ながらの佇まいを見たいのであれば、残念ながら現在では人の生活感のないこちらのほうが往時の姿をよく知ることができる。
ここに移築してあるのは、古民家主体に大型物件が15棟、それに馬小屋、稲掛場等の付随施設が少々である。そのうち9軒は現代風の増床や改築の入っていない重要文化財指定の古民家で、明治大正期以前の山村の雰囲気をうまく残している。筆者的には過剰な除雪をしていないところが実にポイントが高い(^^;)
面白いのは屋根の雪具合で、いちいち人が雪下ろしをしなくても自重で落ちてきて軒下に溜まっていく様子がみえる。屋根構造の低い近代住宅が毎年多額の雪下ろしの費用やら労力を食いつぶしているのと比較すると、果たして昔と比べて豪雪対策のテクノロジーは進んだのか退化したのか、わからなくなってくるw
少し奥まで進んでみよう。縦横無尽に融雪水路の整備された住宅密集地側と違って、ここの雪はすっかり根雪となっているようだった。建物は人の背丈ほどもある雪の中、トレンチ状の通路で結ばれて蟻の巣を平面にしたような構造でつながっている。これも、昔の山村風景をうまく再現していて実に趣がある。
ただ往時(→除雪機などという便利なもののなかった時代)は、ここまでキッチリとした雪壁があった訳ではなく、人間が踏み跡を作って道とした。そしてその踏み跡のメンテナンスの及ぶ範囲が、すなわち冬季の "世界の果て" であった。おそらくは集落内で完結してしまう、せいぜい半径百メートルにも満たない小さな世界だったのではないだろうか。
さて建物の内部は展示館になっていて、昔日の記録を見ることができる。…といっても、残っているのは過疎で白川郷(→広義の庄川流域)の村々が衰退し、離村が相次いでいく様子ばかりなので、ほとんど滅びの美学を追いかける…といった趣の内容になっている。
説明によると、人口減少の最大の要因は養蚕業の終焉であったらしい。養蚕は江戸末期〜明治時代の中頃に生産のピークを迎えたが、大正時代が過ぎてからは低迷し、戦後は化学繊維の台頭で需要は激減した。それとともに、巨大化した合掌造り古民家の産業設備的な存在意義は失われたのである。
村落の消滅は昭和40年代が多く、石油ショックに伴う景気低迷の時期と重なっている。といっても石油ショックが直接の引き金という訳ではなく、高度経済成長期にまず若者が都会に出て行ってそのまま帰らず、10戸程度を単位に形成されていた各地の小集落がどんどん衰退して、最後に残った1、2戸が転出してムラが消滅するのが昭和40年代なのであった。
当時の映像をみると、主を失って朽ちていく古民家の様子が痛々しい。この他にもダム建設で湖底に沈んだものが数百戸単位であったといい、また状態の良い家屋は都会の居酒屋などが解体して内装用に柱や梁を持って行ったりもした。
今でこそ文化財としてそれなりに丁重に扱われている合掌造りの家も、当時はほとんどが粗大ゴミとか産業廃棄物のように扱われており、まさに清算すべき過去の異物といった状況だったのである。
かつての合掌集落の分布を示すジオラマも展示してあった。現在は白川郷IC付近に集中的に移築されている古民家も、昔は庄川とその支流に沿って広く分散していた様子がみえる。
…が、その多くは、やはり人が転出して昭和40年代に消滅しているのである。
若者の転出に加えて、戦後の村落消滅を加速した大きな要因はダム建設であった。庄川流域ではなんと8か所ものダムが作られている。貯水に適した場所≒村落の広がる小盆地であるから、ダムが一つできれば幾つもの集落が水没することになる。流域最大の御母衣ダムの建設では300戸ほどの古民家が一斉に水没したといい、その破壊力の凄まじさには驚くしかない。
…が、そのダム建設に地元民の多くは反対しなかったのである。過疎化が進んで空き家ばかりになっていたところに補償金が提示され、彼らはそれを元手に一斉に平地に下って近代住宅に住み替える選択をした。当時もう何の役にも立たないと思われた "粗大ゴミ" の家に値がつく最初で最後のチャンスを、逃したくはなかったのである。
皮肉なことに、庄川流域で最大の人口を誇った荻町集落(現在の白川郷合掌集落)は補償交渉の面倒さからダム建設予定地としては敬遠され、ゆえに補償金も出ず、結果として古い建物が "更新できずに" 残った。のちに文化財保護が叫ばれ世界遺産の肩書がついてからは、ここは年間100万人が訪れる観光地として急速にその地位を向上させることになるのだが、これは "残り物には福がある" を地で行っているように思える。…まるで何かの寓話のような話だ。
<つづく>
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