2013.03.20 鉄と日本刀を訪ねる:備前長船編(その5)



 

■ 五ヶ伝、そしてその中での備前について




さて博物館を出た後は、周辺の史跡などをウロウロ見て回ってみよう。長船の史跡というと靭負神社、兼光屋敷跡、滋眼院に刀剣碑…それに少し離れて福岡の市跡といったあたりが代表的なところなので、時間の許すかぎり順を追って歩いてみたい。

これらの中には、長船(というか、広い意味での備前刀)のパトロンとなって刀剣産業を保護育成した歴史人物の足跡がちらほらと仄(ほの)見える。有名どころとしては、平清盛、後鳥羽上皇、足利尊氏などである。本日の後半戦は、彼らと備前刀との関係という視点で書いてみたい。




ちなみに彼らの登場年代はこんな(↑)感じになる。この恐竜の繁栄年代表みたいな図は何だよとのツッコミが入りそうだが、これは日本刀の代表的な5つの系統(五ヶ伝)の繁栄具合を模式的に表わしてみたものだ(※)。人によっては異論があるかもしれないけれども、すくなくとも筆者はこんなイメージで日本刀の歴史を捉えている。

※このうち大和伝は時代的に直刀が主流の頃の勃興で、刀剣史では日本刀の祖の一人と言われる天国の名が挙がっているが半ば伝説に近い。山城伝の初期も少々伝説めいている。



 

■靭負神社




そんな訳で、まずは長船の鎮守となっている靭負(ゆきえ)神社に向かってみた。少々読みにくい名前の神社だけれども靭とは弓矢を入れる容器(ウツボ:靫の字を当てることも多い)のことであり、それを背負うと書いて武人をあらわしているらしい。創建年代は不明だが、古くから地元の刀匠の信仰をあつめてきた由緒ある古社である。




ここは地図をみると天王社とも書いてあり、古くは崇神天皇社があったらしい。現在は崇神天皇社は靭負神社と習合していて、周辺の松林に天王の森の名が残っている。

祭神は天忍日命、御眞木入日子印惠命(崇神天皇)、天目一神、菅原大神、奥津比古命、稻倉魂神、豐受大神、磐長比賣命、大年神となっており、このうち天目一神が鍛冶/製鉄の神、奥津比古命が火の神である。中国地方では鉄の神といえば金屋子神が有名だが、この神様は天目一神と同一視されており、つまりはここも金屋子神のテリトリーの内にあるといえる。

ヴィジュアル的には、一般に金屋子神は女性神、天目一神(あまのひとつめのかみ)は男性神の姿で描かれる。どのような習合過程を経てこうなっているのかはよく分からないが、大和朝廷系の神話(天岩戸の段)に登場するのは天目一神(天津麻羅)のほうで金屋子神は登場せず、一方で出雲の製鉄師の間では圧倒的に女性神である金屋子神のほうがメジャーであることから、かつての古代王国時代の信仰の分布がいまでも神様の姿かたちとなって残っているのかもしれない。




そういえば先ほど訪れた刀剣博物館の鍛錬所にも、ここの神社の御札が奉じてあった。刀鍛冶というのはとても信心深く、仕事場には必ず神棚がある。刀を打つ作業とはすなわち神事であり、そこで奉じる神様の系譜はその技術の伝播の系譜にも重なってくる。東国ではこれが金山彦神になったり、あるいは八幡神になったりもし、それぞれに歴史的経緯を背負っていたりする。

…が、序盤であまり飛ばしすぎると深遠なる世界に捉えられて身動きが取れなくなりそうなので、ここではひとまず備前でこの神様に出会ったということのみを覚えておくこととしよう。金屋子神については次の出雲編でも少し触れるつもりだ。




■ 足利尊氏の足跡と靭負神社の周辺




ところでこの靭負神社は、足利尊氏との縁が深い。時代は室町時代初期の頃のことである。鎌倉幕府崩壊後の過激な復古政策=建武の新政(1333〜)を推し進めた後醍醐天皇と足利尊氏の対立が極まった建武三年(1336)、ついに尊氏は朝廷から離反し、新田義貞率いる朝廷軍と戦うことになった。しかし北畠顕家、楠木正成の加勢を得た新田軍には勢いがあり、足利軍は大敗してしまう。そして京都から撤退して九州に落ちていくこととなった。このとき尊氏はここに一時逗留し、戦勝祈願をしているのである。

当時はここは靭負神社ではなくまだ単立の崇神天皇社であったかもしれないが、崇神天皇は吉備津彦を派遣して中国地方平定をしたとされる人物なので武神の性格をもっている。戦勝祈願をする神社としては妥当な選択であっただろう。

※ちなみに崇神天皇は日本書紀によれば四道将軍と呼ばれる四人の将軍を北陸道、東海道、山陽道(西道)、丹波に派遣して大和朝廷の支配域を広げたとされている。このうち山陽道に派遣された将軍が桃太郎のモデルとされる吉備津彦である。




この足利vs新田の戦いでは、長船は両軍の激突する赤穂の白旗城の目前にあった。押せ押せムードの新田軍を、足利軍が備前国に侵入させまいと必死に抵抗しているという図式である。

長船近郊では太平記(巻之十六)の記述をみるとすぐ裏手の熊山で新田軍に呼応した児嶋三郎高徳が挙兵し、3000騎あまりの足利側の守備隊が出動したとある。戦闘の描写では長船の地名は出てこないけれども、一時足利軍は熊山から福岡まで兵を引いて云々…とあるので、中間にある長船の付近はまあ一応戦場にはなったのだろう。




このとき白旗城の篭城組が頑張ったおかげで、新田軍の主力は山陽道を岡山方面に抜けられず、進撃は2ヶ月間あまりも止められてしまう。この間に態勢を立て直した足利尊氏が九州から怒涛のトコロテン押しで瀬戸内海を攻め上り、あっさりと新田軍を打ち破って時代が変革してしまった。そんな経緯があるので足利尊氏とこの地域には因縁浅からぬものがあり、神社の縁起にもそれがみえるのである。




まあ筆者的には足利尊氏がここを訪れたのは、神仏に戦勝祈願して云々というよりも、武器生産地としての戦略拠点を押さえる意図があって 「オレの側に付いてくれよ〜」 と武器商人やら有力刀匠一門に挨拶に来たというのが真相ではないかという気がしている(^^;) …が、残念ながらそういう生々しい話というのは神社仏閣の縁起譚からは脱落しがちで、なかなか当時の雰囲気というのは伝わってこない。




ところでこの戦いで破れた側の後醍醐天皇は、しぶとく生き残って吉野(奈良県)の山奥に逃げ込み、秘密アジト(南朝)を作って長らく抵抗を続けることとなった。こうして南北朝時代のゴタゴタがこの後も60年あまりも続いていくことになるのだが…実はこのあたりの事情が、次に訪れる兼光屋敷のエピソードにつながっている。



 

■兼光屋敷跡




さて靭負神社の次に訪れたのは兼光屋敷跡である。実はさきほどまで居た刀剣博物館の目の前に戻ってきただけなのだが(笑)、靭負神社 → 兼光屋敷 → 慈眼院 と移動するとちょうど道のつながり具合が良いので今回はこんな順番で巡っている。

ここの地名は 「城之内」 という。なにゆえ "城" なのかといえば、いかにも城のような構えの立派な屋敷が建っていたためで、屋敷の主は兼光という刀匠であった。兼光は備前長船を代表する名工の一人で、この名を襲名した刀匠は刀剣史上に4名ほどいる。




伝承によれば南北朝の頃に足利尊氏から "作刀の褒美" として土地を与えられたという。4名いる兼光のうち足利尊氏の存命期(1305〜1358)と重なるのは2代目の兼光(延文兼光)で、元亨年間から応安年間まで(1321頃〜1375頃)作刀している。建武の新政が1333年、新田vs足利の戦いが1336年であるから、この2代目兼光は鎌倉幕府の滅亡から室町幕府の成立までを見届け、南北朝の騒乱が続く中で晩年の作品を作っていたことになる。




実はこれに先立つエピソードとして、尊氏のライバルである後醍醐天皇(ただし南朝を立てる前)が備前の雲生という刀匠に作刀を命じていた。雲生は元は国友と号しており、長船から山中を20kmほど入った御津町の宇甘(この付近に鵜飼庄という皇室の荘園があった)に居を構えていた。作刀注文に対しては雲を象った刃紋を焼いて献上したといい、後醍醐天皇はたいそう喜んで彼に雲生の名を与えたという。

これに対して足利尊氏は備前長船の名工:兼光を召し出だして作刀させた。そして出来上がった太刀で 「試し斬り」 と称して甲冑2つと鉄兜を斬らせ、見事に一刀両断したことからその刀を "兜割り" (或いは冑割り)と名付けて家宝としたという。武人らしい嫌味な…いや剛毅な(笑)パフォーマンスで、兼光は作刀の腕もさることながら足利将軍の面目を大いに立てて名を上げることとなった。




この功績により、兼光は足利尊氏から6万貫とも言われる領地と一町(109m)四方の屋敷用地を与えられたという。その屋敷用地がここで、兼光は外周を巨大な壕で囲って櫓(やぐら)を建て、城のような作刀工房をつくった。

四角い壕で囲った屋敷というのは中世の武家屋敷に多い形式で、いざ戦闘になったときは小規模な平城として機能した。実質的には簡易な砦(とりで)であって、中身は鍛冶工房でありながらもこういう仕様のものを作ったところに "南北朝" という時代の匂いがある。

※なお "6万貫" の領地が額面通りなら10万石級の戦国大名に匹敵し 「いくら何でもそりゃないだろ」 感が満載なのだが(^^;)、ある程度の地位を与えて突出した立場の刀匠を立て、長船を統率させておく…というのが尊氏の狙いだったとすれば、仲々にスジがいい判断だと思える。当時は領地を与える=主従関係を結ぶということであるから、国内最大の兵器産業基地(長船)が南朝の影響下に取り込まれないよう幕府の統治機構に組み込んだとも言える訳で、その代表に兼光が就くことも、作刀の優秀さが理由であれば他の刀匠が文句をつける筋合いではなかった。




この兼光屋敷は百数十年ほど存続し、土中から鉄片が大量に出土するところをみると、作刀工房としてはかなり長く使われたようである。

…が、せっかく南北朝期を生き延びたのに、戦国時代に入って間もない文明十五年(1483)、松田某なる武将によって福岡城攻防戦(備前守護の地位をめぐる赤松氏と山名氏の戦い)の最中に焼き払われてしまった。ここは室町幕府成立とともに生まれた屋敷であったけれども、足利将軍の力が衰えたところで失われたというところに、なにやら因縁めいたものがあるような気がしないでもない。



 

■長船の刀匠の系譜と、その滅亡について




さて兼光屋敷跡を見たところで、他の中世の名工の屋敷も見てみたくなった。

…が、観光案内を見ても他の刀匠の工房跡らしいものは載っていない。長船から半径2km以内くらいには幾つか刀匠の住んだ集落があり、それぞれ○○派などと呼ばれて一門を形成していたのだが、やはりほとんど何も残っていない。筆者にとっては、これは少々意外であった。

備前の刀鍛冶は刀工名鑑をみると古刀期には名のある刀匠だけで2200名もいて、その多くは長船近郊に集中していた。これは業界二位の美濃の500名、三位の山城の300名と比べても圧倒的に多い。それなのに、ここには当時の遺構が極端に少ないのである。

※写真は 日本刀の鑑定と鑑賞(常石英明/金園社/1967)より引用




勿体ぶらずにタネを明かすと、これは洪水で主な史跡がみな流されてしまったためという。時代は南北朝から大きく下り秀吉が天下を取った頃のことで、天正19年(1591)8月15日の事といわれる。豪雨による増水のなか吉井川の堤防がちょうど長船のすぐ上流側で決壊し、長船から福岡にかけての広大な面積が濁流に呑まれた。すぐ背後の熊山から山津波(土石流)が下ったとも言われ、流失家屋千二百、犠牲者は七千余名にのぼる大災害となった。

頑丈な土塁のあった兼光屋敷以外、古い時代の工房跡が残っていないのはこのためで、付近に住んでいた刀匠たちは家屋敷ごと流されてほぼ全員が死亡、生き残ったのはわずか3名という惨憺たる結果となった。かつて栄華を誇った備前長船の刀鍛冶達は、このときまるで恐竜の絶滅のように突然、居なくなってしまったのである。




ちなみに古地図を元に多少の無理を承知で被災前の川筋を現代地図の上に引いてみると、大雑把にいってこんな感じ(↑)であったらしい(※注:絵地図が元なので正確さは保証外 ^^;)。

これの元図は福岡合戦(1483)の頃のものだが、当時の吉井川は幾筋もの流れに分岐して平野部を流れており、長船はいくつかあった中州の上に位置していたことがわかる。実質的には河原の延長線上みたいなところである。さすがに堤防くらいは整備されていただろうけれども、川が増水してしまうと周辺に逃げることは難しい立地であった。

※現在の吉井川は天井川になっており兼光屋敷跡よりも河原面のほうが2mほど高い。




400年の間に土が盛られて耕地化が進んだ現在にあっても、地形を極端に強調表示するとかつての川筋の一部がみえてくる。資源探査衛星で観測すればもっと明瞭に見えるかもしれないが、あまりそっち方面に話を振ると日本刀から離れていってしまうので、興味のある方はそれぞれ調べて戴ければと思う(^^;)




さてこのとき生き残った3名の中に祐定(すけさだ)という名のある刀匠がいた。俗名は藤四郎という。すべてが壊滅した長船で、彼だけが唯一、長船の名を背負って作刀を継続した。一度は鳥取に移住を決めたものの、翻意して戻ってきたという。

現在に至る長船鍛冶の伝統は、彼によってかろうじて後世につながったものである。彼以外の刀匠の系譜は、ここですべてが断絶してしまった。これ以降の備前長船の刀は、事実上 "祐定" のブランド名一本で受け継がれていくことになる。




この洪水の後、刀剣業界は戦国最後の需要の盛り上がりをみた。すなわち朝鮮出兵(1592)、関ヶ原(1600)、大阪の陣(1614-1615) である。しかし長船にはこれを受注する余力は無く、マーケットシェアは業界2位だった美濃国:関に移ってしまう。その後は太平の世となって刀剣の需要は激減し、長船は実質的に再興の機会を失ってしまった。

もちろん作刀の伝統としては祐定の系統が残って続いていったのだけれども、戦争のなくなった時代の兵器産業はどのみち斜陽化を免れない。そういう意味では、備前長船は滅ぶべきときに滅び、残るべきものが必要最小限に残ったといえるのかもしれない。


<つづく>