2013.03.22 鉄と日本刀を訪ねる:出雲編(中編その3)
■ 高殿へ
ではいよいよ高殿に向かってみよう。今回はちょうど高殿本体と小銅場(※注)、それに蔵が修理の対象になっていたので、ここからは昨年の素材を織り交ぜて紹介したい。
※注:実際には "金片に胴" の字を書くのだが、該当する文字コードが無いのでここでは "銅" の字を当てて表記することにする。
そんな訳で高殿の解体前=昨年3月27日にタイムスリップしてみよう。
菅谷の高殿は江戸時代中期の宝暦元年(1751)の建築で、大正時代末まで現役で稼動していた。ここは現在国内で残存する唯一の "たたら建築" とされていて、床面積は10間(18m)四方、高さは28尺(8.6m)ほどある。
外見上は普通の土壁+桧皮葺きの民家風だが、窓はない。これは工程の進行状況を炎の色を見て判断するために、外乱光を入れないようにしているためだ。
高殿の正面、かつて村下(むらげ=製鉄の技師長)が詰めていた建物が現在のこの施設の案内所になっている。まずはここに寄ってみよう。
案内所に入ると狭いながらも結構展示が充実していた。ここは "鉄の歴史村" と銘打って蹈鞴(たたら)製鉄の史料や文化遺産を管理している地域振興事業団が運営している。観光以外にも学術研究、技術研究などをかなり真面目に行なっていて、技術伝承のためのフォーラム、さらには実演 (技術伝承者向けで定員10名程度、一般人は対象としていない) なども開催しているそうだ。
事務所に詰めていた係員氏に 「どーもー」 と挨拶すると、「いやー、よくおいで下さいました」 とさっそく歴史や技術の解説をはじめてくれた。
氏曰く、ここに高殿が出来たのは 「一にも二にも風が良かったから」 だという。鉄を "吹く" (→鉄師達は製鉄を行なうことを鞴(ふいご)になぞらえてこう表現する) ときに必要なのは炉へ風の吹き込み具合の良し悪しで、この風読みを第一に炉の位置と向きを決めて、そこから山内(製鉄の施設+居住区域をまとめて山内と呼ぶ)の建物配置を決めていくのだという。
筆者は当初、人為的に鞴(ふいご)で轟々と風を送らなくてもある程度は自然の風の流れで炉の温度が上がるような地形が好まれたのかな…と思ったのだが、後に出雲のたたら製鉄復元を描いた書籍:和鋼風土記(角川書店/山内登貴夫/1975)を読んでみたところ、むしろ冷却目的であると書いてあって驚いた。
たたら製鉄と炉についてネットで検索すると "いかに温度を上げるか" という視点の記事ばかりが多くHITする。しかしそれは炉の内部の話であって、鉄が溶融するほどの温度になっている炉に数十cmまで人が近づいて砂鉄や炭を投入するには、むしろ炉の周辺が常時空冷されていることが重要だというのである。
そうやって決められた炉の位置に向かって、かつては吉田の商人集落から一本道が延びていた。現在は自動車道路が出来てわかりにくくなっているけれども、高殿が作られた当時は余計な脇道はない。一番奥まったところが仕事場(神域)で、手前の生活空間(俗世)とは橋を隔てて分離されていた。御神木の存在、社の併設など、ここは神社の様式が色濃く現れている。
そこで作られる鉄は、このような不定形の塊として得られた。いわゆるヒ(けら)という鋼の塊で、小割する前の大きさは長さ2mくらいの鰹節のような外観である。鉄にはもうひとつ銑(ずく)という状態があり、これは鋳物に適した流動性のある鉄であった。これらは目的に応じて、同じ構造の炉で造り分けることができた。
実を言えば菅谷の高殿で作られた鉄は、玉鋼よりも銑鉄のほうが分量としては多い。今回筆者は日本刀をテーマに巡っているので興味を持っているのは刀剣に向いた玉鋼のほうなのだが、日常生活で使う鉄という視点で見れば、鍋/釜/鋤/鍬といった "刀剣以外の用途" のほうが余程大きい。この点は、製鉄遺構をみるときには少しばかり注意したいところだ。
■ たたら炉とその周辺
さてでは、いよいよ高殿に入ってみよう。ここは勝手に入ることはできず、必ず係員氏を同伴して扉をくぐることになる。なお建物の大扉は二箇所あるのだが、下に隙間の開いているのはこの1箇所だけで、どうやらここが風の呼び込み口らしい。ちなみに風の抜け先は天井である。
窓が無いので内部は非常に暗いのだが、照明をつけると土で作られた "たたら炉" が浮かび上がった。おお…これが、和鉄を作る炉の実物か…♪ ヽ(´・∀・`)ノ
炉の大きさは長さが3.3m、幅が1.4mある。いわゆる角炉の形式で、左右にあるのが空気を送り込む天秤鞴(ふいご)のあった木組みである。一見すると単純そうな構造にみえるけれども、湿気対策で地下の構造が幾層にも積み重なっているので、見た目よりはずっと複雑に出来ている。
ここで玉鋼を得るには3日間、銑鉄を得るには4日間の連続操業が行われた。木炭と砂鉄を交互に投入して、ひたすら火を焚き続けるのである。
玉鋼を目的とする場合、ヒ押しと呼ばれる3日間コースでの操業となった。初日は 「篭(こ)もり」、二日めは 「中日(なかび)」、三日めは 「下(くだ)り」 という。最初の篭もりの段では炉の温度を上げて安定操業にまでもっていく。安定操業とは一定間隔で砂鉄と木炭を交互に投入し続ければ工程が進む状態で、あまり細かい気遣いをしなくても大丈夫な時間帯のことである。ここで最初に投入されるのは赤目砂鉄で、これは低温でも早く還元されて炉の底に溜まり、まずどろどろの銑鉄となる。
村下は、最初の砂鉄の投入のときに呪文を唱えるという。
「金屋子どのは、備中吉備の中山に天下り その煙は火炉(ほど)谷川も河岸(かし)村も 雲けむり 晴れとしもなく 阿毘羅吽欠裟婆呵(あびらうんけんそわか)」 (※"和鋼風土記" より)
金屋子神は、製鉄の神である。大和朝廷の "歴史" である記紀神話には登場せず、しかしこの出雲周辺では深く信仰されている。長い歴史の中で山岳修験の要素が入り込み一部密教的な "真言" が混ざってはいるものの、村下の呪文はその製鉄の神の営みを、絶えることの無い煙になぞらえて称えている。
赤目砂鉄(篭もり砂鉄ともいう)の投入後は、炉の温度を十分に上げて主原料である真砂砂鉄を投入していく。最初に投入した赤目砂鉄はこのとき炉の底でドロドロに溶けてプールのようになっていて、真砂砂鉄は液体にはならず半溶融の状態でじわじわとそこに降りていく。その過程で酸化物である砂鉄から酸素が抜かれて(=還元)、水に浸かったフロートのような状態でヒ(けら)となって成長していく。こんなことができるのは赤目砂鉄の溶融温度が真砂砂鉄より低かったからで、この絶妙な条件=銑鉄は融けるが真砂砂鉄は融け切らない程度の温度を維持しながら、一定の時間間隔で木炭と砂鉄を投入していく "安定操業" の状態を3日目まで続けていくのである。
そしてここが面白いところなのだが、銑鉄のプールに浮いた状態でいると、ヒに含まれている不純物が、溶けた銑鉄のほうに移動していくという。つまり化学的なクリーニング作用も同時におこるらしい。このとき砂鉄に含まれていた砂などの非金属成分や、炭の残渣、炉の土壁などもスラグとなって混ざりこむ。そして操業を止める直前に炉の底に穴をあけて、この不純物を含んだ銑鉄(ノロ)を流し去れば、最後に残ったヒの部分が清純な鋼の塊となるのである。
この火を入れてから鉄が得られるまでの一連の工程を、たたら製鉄の世界では "一代" (ひとよ)と呼んだ。なにやら人生が一巡りしてしまいそうな響きの単位である。
さて炉の奥には砂鉄置き場があった。現在は見学者への説明のために最低限必要な分量しか置かれていないが、ここが稼動していた頃には常時数十トン以上が積まれていたらしい。反対側には炭を積んでおくスペースもある。
操業には大量の炭と砂鉄が投入された。一代で砂鉄13トン、木炭13トン。これで得られる鉄は3トン弱で、単純収率でいえば25%を切る。刃物に使う玉鋼は、そうして得られたヒ(けら)の中から、さらに状態の良い部分のみを取り出したものである。その割合はヒ全体の1/3ほどで、投入した砂鉄量からみれば収率は1割未満という凄まじいものであった。(余った部分は包丁鉄に加工できるのですべてが無駄という訳でもなかったのだが ^^;)
その点だけに着目すれば 「じゃあ、日本の製鉄って非効率でダメだったのか?」 という議論が起こるかもしれない。しかし洋式高炉よりも低温域で行われるたたら製鉄は、燐や硫黄といった不純物をほとんど含まず、硬さを決める炭素含有量もほどよい特殊鋼(玉鋼)を、直接得られるという点で得難い利点があった。そこそこの規模の施設で高品質の鋼を得ようとした場合、時代性を加味すれば "たたら製鉄" は局所解としては十分に "あり" であったと筆者は思う。
余談になるが中国では西洋よりも1000年も早く石炭火力(コークス)による製鉄が始まっていた。こちらは燃料となる木炭の入手難=森林枯渇を契機に、熱源を次善の策=化石燃料に切り替えたものである。後の西洋のパドル法に近く、鉄鉱石を原料にまず銑鉄をつくり、そこから脱炭して鋼を得る炒鋼法という手法がひろく行われた。これはコークスの強力な火力に任せてドロドロに溶かした銑鉄に脱炭剤を加えて棒でぐるぐるとかき回すというものである。
※写真はWikipediaのフリー素材より引用
ただしこの方法は、鉄鉱石や石炭の入手困難だった日本ではさっぱり流行らなかった。日本人にとって最も身近にあった燃料は近世に至るまでずっと木炭で、しかも湿潤な気候に恵まれた日本(特に山陰地方)ではいくら木を伐っても森は再生し、尽きることはなかった。このあたりの事情が、日本人をして木炭ベースの製鉄手法をとことんまで追求する "たたらオタク" にしたのかもしれない。
■ もう少し、たたら炉の話など
さて何やら脱線して実際に見たこともないたたら製鉄の工程の話などを書いてしまった。あまり大風呂敷を広げすぎて間違ったことを書いてしまってもアレなので、話を元に戻そう(^^;)
高殿の炉脇には、昭和44年に復元操業をしたときのパネルが飾ってあった。最後の世代の村下が技術を後世に残すために行った実証実験のときの写真だそうで、このときはじめて外部の学者や報道陣などが入って詳細な記録を残した。それまでは一子相伝で伝えられてきた村下の秘伝は本当に "秘密" にされていて、何の史料も残されていない状態であったという。
秘伝のひとつ、炉の内部構造はこんなふうになっている。土壁の厚さは最上部で10cm程度、下にいくほど厚く頑丈である。炭と砂鉄の投入されるお釜の部分の断面はホームベース型につくられている。操業を開始するとこの土壁を触媒にして "喰い" ながら砂鉄の還元プロセスが進行し、下の狭いスペースに鉄が溜まっていく。操業期間が3日とか4日になっているのは、炉壁の耐久限界(※)がそのあたりになるためらしい。
※操業を続けていくと土壁がどんどん薄くなり、やがて割れて崩壊してしまう
この炉の地上部分は、操業のたびに構築して、終わると壊した。鉄は木炭と一緒に炉の底に溜まっているので、炉を壊さないと取り出せないからである。ヒを取り出した後は、次のチームにバトンタッチし、まだ熱い焼けた炉床の上に次の一代(ひとよ)のための炉が構築され、次の操業に備えた。最盛期にはそんなサイクルが冬季のオンシーズンいっぱい続いていたらしい。
係員氏は 「炉を壊して取り出したヒは、こうやって生木のコロの上を…」 と、真っ赤に焼けたヒ(けら)を取り出す様子を説明してくれた。…それにしても、話の内容も面白いけれど、この方は本当に鉄作りが好きで好きでたまらない…というオーラを発していて、人物そのものがこの村の鉄に対する姿勢を体現しているようだ(^^;)
さて再度たたら炉に目を向けてみよう。炉の左右には空気を送り込む配管がタコ足のように取り付いている。均等に空気を送り込むことで、炉の温度を維持する重要な機構である。粘土が盛られているのは耐熱防壁の意味があるそうで、特に操業の最後に炉を壊す瞬間に、猛烈な熱を浴びることになるので鞴の部分は念入りに土が盛られたらしい。
かつてはここに天秤鞴(てんびんふいご)が取り付き、番子と呼ばれる担当者が操業中はずっと鞴を踏んで風を送り続けていた。炉の燃焼中は片時も休むことが許されないので、6人掛かりで交代で踏んだという。
菅谷の高殿では、この部分に明治以降は水車を利用した送風機を導入して、当時なりの "近代化" を図っている。明治時代は洋鋼に押されて和鋼が衰退していった時代でもあるのだが、なんとか省力化、効率化を図って競争力を維持しようとしていた様子が伺えて興味深い。
取材時から時間が経って少々記憶が曖昧なのだが(^^;)、たしかこれが地中に埋設された送風管だったと思う。昔風の浪漫を求める向きには 「えー、水車とはいえ機械化しちゃってるのー」 とツッコミを受けるかもしれないけれど、こういう工夫が為されて効率運用できたからこそ、この高殿が最後まで存続できて現在もその姿を留めているである。筆者的には、ガチンコ的に産業として生き残りを図った当時なりの経営者の意思のようなものが伺えて、とても貴重なもののように思えたのを覚えている。
…しかしそんな生き残りを図った "たたら場" も、大正時代いっぱいでその命運は尽きてしまった。大正時代というのは前半は第一次世界大戦に伴う超好景気、後半はその反動による超不景気+関東大震災による経済縮小という時代で、特に後半は明治期以前から続く企業がバタバタと倒れた時代でもあった。こうして戦争終了で急激に縮小した鉄鋼需要の先細りのなか、出雲の製鉄業にもついに引導が渡されたのである。
おそらく、ここに火が入ることはこの先も無いのだろう。もう百年ちかく鉄を生み出していない "たたら場" は、すっかり遺跡然として薄暗い建物の中で沈黙している。
…これもまた、時代の流れなのかな (´・ω・`)
■ そして、解体修理が始まった
では時間を戻してみよう。これが、現在(2013/3/22)の高殿の様子である。なんで工事中の現場に入っているんだ、とのツッコミを受けそうだけれども、一応許可は戴いているので無断進入ではない(^^;) それにしても、すっかり骨組みだけになっているなぁ…。肝心のたたら炉は、今回はカバーで覆われて見ることは叶わず。…まあこの状態では仕方がないか。
見れば一部は新しい部材で置き換えられて真新しい色になっている。ここはあくまでも実用本位の建物で、それほど高級な材料が使われている訳ではない。長年の使用であちこち傷んだ箇所が広がり耐用限界に近かったらしく、適宜補強、補修が行われているのである。
修復作業には5年ほどをかける予定だという。それが済んだら次の解体修理は何百年も先になるとも伺った。そういう観点では、このタイミングで写真を撮ることが出来たのは非常に貴重なことかもしれない。昨年のうちに古びて味のある土壁の写真などを撮っておいたのも、今となってはやはり貴重なものだろう。
解体された部材には、和釘が使われていた。洋釘と違って和釘は鉄の純度が高い。幕末以前の建築物から回収した釘(=和釘)は、鍛冶屋で卸してもらえば刀剣に鍛えなおすこともできる。それがここでは惜しげもなく使われている。
こちらは同じく、和鉄の鎹(かすがい)である。築260年余を経てなお、しっかりと朽ちずに残っている。…しかもほとんど腐食らしい腐食がない。凄い耐久性だな。
そして解体作業中も、金屋子神の神棚は手付かずで置かれていた。榊は枯れてしまっているようだが注連縄と杯は新しく、ちゃんとメンテナンスはされているらしい。神様の坐する祠は外にもあるので、追々紹介していきたい。
<つづく>
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