2013.03.22 鉄と日本刀を訪ねる:出雲編(中編その5)
■ ふたたび吉田集落へ
さて高殿からふたたび吉田集落に戻ってきた。もう昼なので金屋子神社方面に向かって移動していくべき時間帯なのだが、鉄の大旦那のいた町をちょこっと眺めていくのも必要かな…と思い、すこしばかり駆け足で集落の様子を見ていくことにしたのである。
現代の幹線道路である r38 を走っていると気がつかずに通り過ぎてしまうのだが、この集落のメインストリートは大旦那であった田部家のお屋敷から鉄の歴史博物館(ここは番頭さん?の屋敷跡地であるらしい)付近にかけての石畳の坂道である。
現在のように自動車道路の整備されていなかった時代、深い山中を越えてきた来訪者は、忽然と開ける整った町並みに大いに驚いたことだろう。これらは皆、鉄の富によるものであった。
■ 鉄の歴史博物館
時間はあまりないのだが、ここで鉄の歴史博物館をすこし見ていくことにしよう。菅谷の高殿が製鉄現場の見学会場となっているのに対し、ここは産業としての製鉄を俯瞰できるような展示になっている。
玄関先には、巨大な鉄塊が飾ってあった。町内の鉄穴ヶ谷という遺跡で発掘されたものだそうで、外観はヒ(けら)にそっくりである。この付近では農地造成の際に時々こんな鉄塊が発掘される。費用も労力もかかる鉄の生成物をこんなかたちで土に埋もれさせる理由がよくわからないのだが、神事として鉄を吹いて御神体にしたものだという人もあれば、低品質の失敗作が出来たので回収しないでやり逃げ(!!)した痕跡だという人もいる。いずれにしても、鉄の産地でなければ有り得ない類の遺物である。
※いわゆる牛鉄じゃないの…という話もあるのだが、筆者にはちょっと区別がつかない
中に入ると、たたらの復元操業の時の記録映像が流れていた。「これは欲しいっ♪」 …と思ったのだが残念ながらDVDの販売はしていないとのことで、ここでは黙って眺めるだけである(^^;) 画面の中では、さきほど見てきた炉と同じ構造の実証炉で、ヒ押し法を行っているようだった。
おお…これが出来たてホヤホヤのヒか。本当に、真赤に焼けながら引き出されてくるのだなぁ。
よくみると、炉の底部の断面はV字型になっていたはずなのに、出来たヒの断面は横長になっている。これは炉の底面近くの土が触媒として "喰われて" 幅広のU字型に広がった結果と思えばよいのだろうか。なかなに、面白いヴィジュアルである。
出来たヒをそのままスパっと切ると、こんな断面になっている。これは平成18年の実験操業で作られた147kg也のヒの断面標本である。
古代製鉄関連の書籍をみると、たたら製鉄では炉の中で砂鉄が "完全溶融はしないでゆっくり滴下する" などと書かれているけれども、たしかに出来上がったヒはスポンジ状の塊で、銑鉄(鋳物鉄)のようなベタっとした塊にはなっていない。おそらく、砂鉄の粒粒は炉の中で "溶けかかった飴玉" のような状態で酸素を抜かれて徐々に底のほうにたまっていくのだろう。
※撮影は許可を戴いています(´・ω・`)ノ
そして得られた鋼のうち、中心付近の状態のよい結晶だけが刀匠に渡り、日本刀として鍛えられる。母岩の99%を流し去って1%の砂鉄を集め、たたら炉ではさらにその9割を失って1割の玉鋼を得る。…そうやって得られた玉鋼を料理する刀匠の責任は重大である。
さて奥の "蔵" の部分にもいろいろ展示があったのだが、時間がないので紹介は省略して、ここでは炭俵と砂鉄のみを見ておこう。まずは炭の方だが、展示してあるのは主に松炭であった。
たたら製鉄では一にも二にも火力優先で、着火性のよい松炭が好まれた。松炭は高熱が得られ、火力の制御性がよく、灰(不純物)がほとんど残らない。ただしうまく焼き上げるのに技術を要し、値段は高い。炭は火入れをして炉の温度を上げる 「篭もり」 の段階が一番重要で、高価な松炭はここで多く投入された。
安定稼動(砂鉄と炭を一定時間で投入すればよい時間帯=交代で休憩/仮眠をとれる)に入ったあたりからは、安価な雑炭 (雑木で焼いた炭。立木炭ともいう) が大量に投入された。「雑」 などという字を充てるのは失礼な気もするけれども(^^;)、たたらの操業を物量的に支えたのはまさにその雑炭である。中国山地ではこれを "たたら炉" の周辺で自力調達できたのが大きかった。それは雨の多さもさることながら、クヌギ、ナラ、アカシヤ、桐などの成長の早い樹種が多く自生していたということによる。
一方こちらは砂鉄である。最初は鉄穴流しで採った地元の山砂鉄かな…と思ったのだが、説明を読むと、なんと展示してあるのは鳥取県の皆生海岸で取れた浜砂鉄であった。種別としては真砂砂鉄にあたり、解説ではヒ押し法に使われたとある。…つまり日本刀の材料である。
皆生というとちょうど米子のあたりで、ここからは直線距離で55kmほどになる。"砂鉄七里" どころの話ではなく十四里ほどにもなってしまうのだが(笑)、こんなところからも調達していたとは少々驚きだ。
※ちなみに皆生海岸は日野川の河口部にあたり、この川は斐伊川と同じく船通山に源を発する。おそらく砂鉄の由来する鉱床地帯としてはほぼ一緒と思われる。
■ 蔵
ふらふらと歩いていくと、やがて白壁の蔵がみえてきた。このあたりが大旦那である田部家の屋敷である。
おお…蔵ばかりでクラクラしてくる(何 ^^;)
ちなみにここに林立している蔵は田部家の家財道具や古文書などを保管した私物倉庫で、鉄や炭の倉庫はまた別にあったらしい。いやはや大変なものである。
さて田部家は松江藩のお抱え鉄師の筆頭役を務めた由緒在る名家であった。もとは源平の時代に紀州熊野の田部というところの土豪から出ており、鎌倉時代に備後に移り、出雲山中にやってきたのは室町時代初期の頃とされる。出雲の製鉄事業者としては最後発組にあたり、出雲平野からは遠く離れた山中に拠点を築いて、苦労の末に財を成した。
現在の当主氏は松江に屋敷を構えていて本拠地である吉田には盆暮正月くらいしか帰ってこないそうだが、地域の有力者としてかつての威光を現在でも保ち続けている。
面白いことに、戦後GHQがやってきていわゆる "農地解放" を進めて国内の大地主を次々と潰したとき、田部家はその所有地の大部分が山林であったために財産価値を低く見積もられ、土地を召し上げられずに済んだ。ヒトゴトながら相続税は幾らぐらい払っているのだろう…などと余計な心配をしたくなるけれども(^^;)、一般人の考える山の価値と、鉄山経営者の考える山の価値の乖離がこれほど露骨に表れた事例というのも珍しい。
昭和30年代〜40年代にかけて、田部家の大旦那(田部長右衛門氏)は島根県知事を3期連続で務めた。島根にあっては元鉄山経営者というのは尋常ではないステータスを持っていたことがここからも伺えるのだが、このとき大旦那は屋敷町とたたら集落の主従関係を清算したらしい。
清算とは何かというと、ちょうどこの頃まで吉田の一帯には、昔ながらの大旦那と使用人的な関係がゆるゆると続いていたのである。しかし戦後民主主義の世相もあり、知事時代に 「もうそういう時代でもなかろう」 ということで、いわゆる山子制度等が解消されたのだという。
ついでながら山子制とは、元来土地を持たないたたら師、炭焼き師などの流浪人に住居と食料を与えて労働者として囲い込む制度のことをいう。江戸時代には給与は年に2回、現金ではなく扶持米を現物支給した。これは山内では水田米作が出来なかったため、大旦那が松江藩から米を借りて支給したのが原型といわれている。借りた米は製品としての鉄の納入で相殺する仕組みだった。
この米の調達に、田部家は相当に腐心した形跡がある。出雲を支配した松江藩は自らの財政の都合で鉄の買い取り価格を操作したり米の支給を渋ったり…といろいろな勝手三昧をしているのだが、田部家はそんな中でも山内への扶持米の支給をきっちりと続け、天明の飢饉などの極限期には経営悪化で家財道具を松江藩に差し押さえられながらも住民を飢えさせなかった。
明治維新以降は松江藩は消滅してしまったが、田部家は変わらず吉田の住民の面倒を長く見続けた。このためか、現在に至っても田部家の悪口や陰口はほとんど聞かれない。究極の日本的経営というか、ほとんどもう任侠映画のような世界がここには日常として存在ていたのであり、その残照は21世紀の現代にあってなお、まだ余熱を保ち続けている。
さて居並ぶ土蔵の一番奥まったところに、一段高くなったお屋敷があった。ここが大旦那のお屋敷である。
表札には、田部長右衛門とあった。21世紀になって "長右衛門" というネーミングセンスはどうよ、というツッコミが入りそうな気もするけれども、実はこの名前は代々襲名している歌舞伎の名跡みたいなもので、現在の大旦那は24代目にあたる。この人物の肩書はいくつもあるのだが、代表的なものとしては山陰中央テレビの会長さんといえばおそらく一番通りが良いだろう。
…おっと、だんだん鉄と日本刀から話題がズレてしまっているな(^^;) さてこのあたりで、再度路線を修正して、出雲の奥地にむかって移動を開始してみよう。
<つづく>
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