2013.03.24 鉄と日本刀を訪ねる:関編:前篇(その1)
前回からの続きです〜 (´・ω・`)ノ
■ 現代につづく刃物の街 「関」
さて今回は岐阜県の関を尋ねる。取材してから記事にするまでにたっぷり3年ほども掛かってしまったのは調べものにいろいろと時間をかけすぎたせいもあるのだが(^^;)、一気に書こうとすると気分のテンションも必要で、まあ諸般の事情がごにょごにょ…という多少の言い訳をご容赦頂きたい(汗)
関は戦国時代には国内第二位の規模を誇った刀剣の産地であった。第一位であった備前長船が慶長年間に洪水で衰退してからはその跡を継いで国内随一の刀剣産地となった。
作風は一般に "美濃伝" と呼ばれている。戦国時代から江戸の太平に至る過程では、秀吉の朝鮮出兵、関ヶ原、大坂の陣(冬/夏)などの大型イベントが続き巨大な刀剣需要がやってきた訳だが、これらの多くは関鍛冶の作で賄われた。その意味では、戦国の世を終わらせた陰の主役が関鍛冶だったといっても過言ではないだろう。
時代が下って徳川の治世となると、全国の大名がここから有力な刀匠を次々に引き抜いてお抱え鍛冶にした流れがあり、お蔭で関の日本刀の生産基地としての性格はややぼやけてしまうのだが、刀剣以外の民需品(カミソリ、ハサミなど)の生産にもゆるやかに手を広げながら鍛冶産業は長く続いた。これが幸いして明治の廃刀令以降も民需品を中心にやはり刃物の街として関は存続し、現在に至ってなおそのアイデンティティを保っている。かつての五ヶ伝のうち、組織だった "産業の街" としての体裁を保っているのは、現在では事実上、関のみといっていい。
そんな街の様子を眺めながら、刀剣館で折り返し鍛錬などを、ゆったり、まったりと見てみよう…というのが、今回の訪問の趣旨である。
さて前回の訪問地=出雲から関までは、山陰本線 → 伯備線 → さらに岡山経由で山陽新幹線 → 東海道新幹線を乗り継いで7時間ほどで到着する…筈であった。しかし関は新幹線の最寄駅(岐阜羽島/名古屋)からさらに30kmほどローカル線を乗り継がねばならず、この日は深夜に至ってしまったため移動は途中で断念(笑)
仕方がないので名古屋から岐阜まで至ったところで一泊することにした。観光的にはオフシーズンで宿の確保には困らないけれども、今回は少々移動に無理を生じている感がある。…まあ、折り返し鍛錬の実演が2日連続というレアな日程なので、そのへんは敢えて甘受するしかないのだが(^^;)
それはともかく、またもや地図ばかりになってしまうけれども、ここで地理的な説明をしておきたい。関は人口密集地である濃尾平野の北端部にあたり、名古屋圏から飛騨の山々を越えて北陸に抜ける白川街道の要衝に位置している。かつてはここに濃州関所が置かれていた。
街の成立は鎌倉時代初期といわれ、名のある刀工としては鎌倉中期頃になって元重、金重の名が見え始める。美濃の刀工は当初は、志津、直江、赤坂といった濃尾平野の広範囲に散らばっていたが、南北朝の騒乱が続いた頃に関への移住がすすみ集約化された。
この付近(=名古屋圏)にはもともと目ぼしい鉄資源はなく、素材は他からもってきて加工産業を立てるかたちで刀剣産地が成立した。美濃、尾張、三河、伊勢といった豊かな人口密集地に隣接して、需要に応えるかたちで加工産業が興ったと思えばよい。物流路としては東山道と長良川水系に依存し、戦国期には武田、織田、徳川(松平)、上杉など主要な国取りプレーヤー達に刀剣を供給して、その生産性(量産性)の高さで他を圧倒した。信長や秀吉の物量戦を支えた影の主役が関鍛冶だったといってもいい。
いわゆる五ヶ伝のなかでは、関の美濃伝は最後に成立した。 その成立以前の状況をざっと地図に書いてみると、なぜここに刀剣産業が興ったのかがなんとなく見えてくる。 ポイントは古代の "三関" と呼ばれる関所との位置関係である。
三関とは都(平安京/平城京)を東国の反乱から守るために設けられた関所のことで、時代によって多少の変動があるのだが、概ね愛発(あらち)、不破(関ヶ原)、鈴鹿のことをいう。いずれも狭隘な山間部に通じた回廊のような地形のところで、大きな政変や騒乱が起こるとここを閉じて首都の防備を固める…というのが、平安時代以前の朝廷の安全保障の基本であった。地図に起こしてみるとまさに絶対防衛ラインといった位置関係で、古代の貴族たちがどれほど東国を恐れていたかが伺えて興味深い。
古代的な "関所" としての三関それ自体は平安時代の早い時期にその機能が失われてしまうのだが、交通の要衝としての地政学的な価値が大きく変わることはなく、のちに天下分け目の合戦となった "関ヶ原の戦い" も、かつて不破関のあった回廊部分の争奪戦のかたちをとった。
注目すべきなのは、最初の武家政権=鎌倉幕府が成立する "以前" の主な刀剣産地が、すべてこの三関から西側にあったということであろう。 朝廷は蝦夷支配を進めてどんどん領土を奥州方面に拡張していった割に、東国には武器生産の拠点を設けていない。源平合戦の頃までの兵器インフラは、西日本側に圧倒的に有利になっている。
ゆえに平家を倒した東国武士団の装備していた刀剣もその多くが西国製で、筆者の地元のヒーロー : 那須与一宗高の佩刀していたのも古備前刀であった。源平合戦は比較的短期戦で終結したのでイケイケで革命が成ってしまったけれども、長期の消耗戦になっていたら東国武士団の武器の補給線は実に心許ないものであった。そういう意味では平家は変な美学にこだわらずにしぶとく持久戦を続けていれば、あんなにあっさりと滅亡せずに済んだのかもしれない(^^;)
これが鎌倉時代に入り、東国に武家政権が確立すると流れが変わっていく。奥州藤原氏を倒したことでまず北方の蝦夷の刀工(舞草鍛冶)が鎌倉に引き抜かれ、さらに備前一文字派の刀匠が招聘されて、幕府お膝元の鎌倉に刀剣産業が興った(→相州伝)。
これで関東にも刀剣の供給基地が出来た訳だが、一方で間に挟まれた中部〜北陸のあたりは空白地帯のまま残されることとなった。
やがてこの空白を埋めるように登場したのが、美濃伝として名を馳せることとなる関鍛冶なのある。その発展については後ほど改めて述べるとして、今回は短い滞在時間の中でその関の日本刀の様子が少しでも垣間見れればよいと筆者は思っている訳だ。
…というか、前振りがちょっと長すぎだな(笑)
■ 線路はつづくよ
そんな訳で夜が明けた。取材のために取得した休暇は今日までなので、戻りのダイヤから逆算して実質的な作戦時間帯を6〜7時間ほどと見積もって行動開始。なるべく効率的に動くこととしたい。
まずはJR岐阜駅から午前6時半の各駅停車に乗って、美濃太田を目指すことにする。名古屋から一発リーチが出来ればらくちんなのだが、関というのはどうも現代にあっては微妙にマイナーな立地にあってそうは問屋が卸さない。さてさて、線路は続くよ〜ど〜こま〜で〜も〜〜〜…♪
道のりは近いようで結構遠い。岐阜から美濃太田まではたっぷり1時間(^^;) …さらにここから、長良川電鉄に乗り換えて行く。
長良川電鉄のホームに移動すると、おお…世の中が信長の野望一色に染まっている!
筆者的には美濃と言えば斉藤道三なのだが、ここではすっかり信長に食われてしまっているらしい。まあインパクトから言ったらどうしてもこうなってしまうか(笑)
ポスターの信長が持っている刀の刃紋は互の目乱れっぽく描いてあった。これは孫六兼元に特徴的な作風である。兼元を名乗った刀匠は文安〜天正年間まで4人いるのだが、初代は大きく乱れた刃紋を焼き、後代になるほど三角形の文様が均一化していく。絵に描かれた刃紋は均一な三角文様(いわゆる三本杉)なので四代目兼元とみるのが妥当だろう。
ちなみに四代目は天正年間の刀匠…まさに信長の時代である。ということはイラストレーターの中の人は時代考証をかなり綿密にしているということか。ゲームグラフィックだからといってナカナカ侮れない気がするな ヽ(´ー`)ノ
…などとツッコミを入れながら待つこと十数分。おお、ようやく来たよ、長良川電鉄♪
ここからまた、線路は続くよ〜…と、30分ほど揺られていく。今回は岐阜駅から乗り継いでいるので所要時間は1時間40分ほどだが、名古屋駅から乗り継ぐとさらに遠く、2時間20分くらいは見ておかねば厳しい。往復の移動時間を考えると、遠方から関に向かうには綿密な時間見積もりが必要だ。
目指す関の刃物会館前駅に到着したのは、午前8時10分頃だった。関鍛冶伝承館の開館時間は9:00なので、まあ良い頃合いに着いたといえる。
…が、天はここで筆者に試練を与え給うた(笑)
なんと、ここは裸のホーム一本の無人駅で、駅舎も改札もなく、さらに最悪なことに荷物を預けるコインロッカーも無かったのである…!orz
お蔭で筆者はこの日、出雲から持ってきた荷物を引きずったまま、延々と街の中を歩き回ることになった。もしこれから関を訪れようとする方がいたならば、長良川電鉄に乗り換える前にJRの適当な駅のコインロッカーに荷物を預けるか、宅配便で別送して身軽になってから現地入りすることを激しくお勧めしたい。
■ 関の街並み
そんな訳で、いよいよ関の街並みに足を踏み入れてみた。
駅があんな具合であるから周辺も "駅前" という雰囲気はなく、普通の路地裏である。筆者のように事前リサーチを怠って現地入りするとその殺風景ぶりにたじろぐことになるだろう。コンビニエンスストアなどという未来商店も一切ないので岐阜県を甘く見ている人は要注意だ。
ランドマークになりそうなところとしては、カミソリメーカーのフェザーの工場を目印にするとよい。工場の敷地内にフェザーミュージアムというカミソリに関する展示館があり、その向かい側が刃物会館で、そのまた奥側に関鍛冶伝承館があるという位置関係になる。
ちなみにこの周辺をウロウロすると、鍛冶町とか…
金屋町などという表記があり、金属産業の街であることが伺える。こういう地名として残るローカルな歴史は、なかなかに面白い。
さて文章だけでは分かりにくいと思うので、ここで関のローカルMAPを示しておきたい。現在の関の中心部は安桜山(あざくらやま:標高152m)と津保川(長良川の支流)に挟まれた南北1.5mほどの平地に展開している。
安桜山にはかつて戦国時代に関城が置かれ、農業用水を兼ねた堀(関川、吉田川)がそれを囲む構造になっていた。このためいかにも城塞然とした構造になってしまっているけれども、鎌倉時代に刀剣製作が始まった時点ではここは人もまばらな森林地帯にすぎない。時系列的には鎌倉中期頃に安桜山の西麗に関鍛冶の初代とされる元重が移住し、200年以上が経過したのち享禄元年(1528年)になって美濃小守護代:長井長弘がここに城を築いている(信長の攻撃であっさり落城しているけれども ^^;)。
なお古い市街地には元重町、兼永町、孫六町などの刀匠の名が見え、少し離れて鋳物師屋(いもじや)という地名がある。現代の関は "刃物の町" として産業振興を図っているけれども、地名から伺えるように鋳物産業も実は結構盛んだ(※)。
※関市の周辺には鋳物の一種であるダイカスト製品を作る工場が多かったりする。
■ 関鍛冶伝承館へ
さて伝承館まで至る道は、フェザーの工場まで到達すればあとは心配なかった。なんといっても第六天魔王織田信長公が御直々に案内してくださるので迷うことがない(^^;)
駅から伝承館まではおよそ300m、5分もかからずに到着。もう少し迷うかと思っていたのだが意外にあっさりしたものだった。…しかし早く到着しすぎてまだ誰もいない(笑)
折り返し鍛錬の実演は…10:30 開始か。たっぷり2時間近くあるな。
…ではこの時間を利用して、隣の春日神社を見てみることとしよう。この神社も実は日本刀にゆかりのある史跡のひとつである。時間は有効に使わねば♪
<つづく>
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