2013.03.24 鉄と日本刀を訪ねる:関編:前篇(その2)




■ 関鍛冶の総氏神:春日神社




さて春日神社は関鍛冶伝承館のすぐ隣にある。ここは関鍛冶の総氏神で、鎌倉時代後期の正応元年(1288)の建立と伝えられている。ここで鍛冶業を営む者は基本的に皆この神社の氏子で、それは鍛冶座 (洋風に言えばギルド) に加入するときの必須条件であった。

関に最初に移り住んだのは伯耆国檜原(九州説もある)から流れてきた元重という刀匠で、安桜山の山麓に居を構えた。長良川電鉄の関駅の付近には今も "元重町" の名が残っている。

神社を建立したのは同じころ大和(奈良)から流れてきた金重という刀匠である。血統のつながりはないものの金重は元重の後継者として認識されている。




この金重は仏僧から刀匠に転じた風変わりな人物で、齢六十一にして鎌倉:相州伝の五郎入道正宗に弟子入りし、正宗十哲に数えられる名工となった。金重はのちにやはり十哲の一人である志津三郎兼氏(この人物は名前の通り志津に入った)を伴って美濃に帰郷し、彼らの伝えた技法を加えて関鍛冶の技術が発展したと言われている。




さてもう一人、金重と並んで神社建立の発願をした刀匠に兼永という者がいる。さきの金重の娘婿にあたり、元は手掻包永(てがいかねなが)と号した。大和の住人である。手掻とは当時の大和伝の代表的な五派のひとつで、東大寺に属し包永がその始祖とされる。つまり大和伝の重鎮で大親分みたいな人である。

金重はこの兼永を関に呼び寄せたうえで、その大和の古社=春日大社を勧請して春日神社とした。このとき兼永は一人でぽつんとやってきた訳ではなく、多くの弟子を引き連れて移住している。そしてここから排出された数々の刀匠が、のちのいわゆる関七流のもととなっている。こうして血のつながらない最初の三代=元重、金重、兼永の撒いた種が、やがて関の刀剣を大きく育てていくこととなった。




ところで刀匠の守り神というと金屋子神とか金山彦じゃないの…という気がしないでもないけれど、どうして春日大社なのだろう。初代:元重は伯耆国の住人と言われるのでおそらく金屋子神を拝んだと思うのだが、金重、兼永は違ったのだろうか。



…と思って由緒書きをみると、藤原氏一門の誼(よしみ)をもってその一門の氏神である奈良の春日大社の分神を請けて...と書いてある。神職さんに聞いてみると金重、兼永とも家系は藤原氏なのだそうで、なんとみな平安貴族の末裔(!!)なのである。

祭神をみると春日大社の主祭神、建御雷(たけみかずち)、経津主(ふつぬし)に続いて天児屋根命(あめのこやねのみこと)の名がみえる。この神は記紀神話の天岩戸伝説において岩戸が開く瞬間に鏡を差し出したとされる神で、古事記では中臣氏(藤原氏)の祖先とされている。もう一柱の比売神というのは天美津玉照比売(あめのみつたまてるひめ)のことであろう。天児屋根命の妻神である。

…なるほど、こうしてみると確かにこれは藤原氏つながりが濃厚だ。ここは刀鍛冶という切り口よりも、大和+藤原氏という流れで建立された神社なのだなぁ。




■ 背景として知っておきたい中世の大和(奈良)




さて話がややこしくなりそうなのでここで大和(奈良)の話を少し挟んでおきたい。

鎌倉時代の奈良といえば興福寺+春日大社(いずれも藤原氏の菩提寺+氏神)の支配下にあって、朝廷や幕府からは半独立の状況にある。ここに藤原一族のうち、都にいても出世の見込みの薄い傍流末端の子弟が送り込まれて、そこそこの地位でそこそこに収まり、ドスをきかせて都の藤原本家の権勢を裏から支える…というのが中世における寺社勢力の実態のひとつである。奈良においては神社としては春日大社、仏寺としては興福寺が藤原系にあたっている。

※写真は参考までに奈良興福寺(^^;)




この時代の奈良には武士も地頭も守護もいない。

林立する南都仏教の大寺院が荘園を奪われまいと大量の僧兵を抱えて割拠しており、鎌倉幕府もここには守護を置くことができなかった。そんな土地柄にあって、刀匠達は必ずいずれかの寺社に所属し、僧兵の振り回す武器を供給していた。つまり大和鍛冶の主要顧客は、武士ではなく戦う山法師=僧兵である。

その紀元を辿ると、奈良が都であった時代(ほぼ直刀の頃)に律令のもと兵部省が設置され、首都圏(=朝廷のお膝元)での武器製造が奨励されたたことに始まる。これがのちに平安遷都にともなって京都に移住した者と奈良に残るものに分かれ、京都に移った者は山城伝を形成し、奈良に残った者は寺社勢力の庇護下に入って大和伝を受け継いだ。関鍛冶のもととなったのは、このうちの大和鍛冶である。




彼らは華美な業物(わざもの)ではなく、装飾の少ない実用刀(※)を打った。刃紋に工夫を凝らすわけでもなく、彫刻もなく、樋(ひ)の溝も穿たない。銘すら切らなかったものも多く、のちに悪い商人がこれに目をつけ、適当な有名人の銘を切って売りさばく(→俗にいう奈良物)例も見られたくらいである。

※これは顧客=僧兵の好み…というか仏教的な捨身思想を反映したものらしい。即ち身/財/命を捨てて華美を好まずというところから来ている。

しかしここから、やがてぽろり、ぽろり、と脱出組が出ていく。既に首都ではなくなり、かつての市街地の大半が農地に返った奈良では面白い仕事がない…と思ったかどうかは定かではないが、関鍛冶はこの大和からの脱出組を受け入れて大きくなった。総氏神が "春日神社" というのも、もちろんその流れを汲んでいるものだ。




大和から関に移り住んだ鍛冶たちは、ちょうどその頃世間で流行していた鎌倉風の派手な作風をよく取り込んて創意工夫を重ねていくことになった。これは初期の関鍛冶に鎌倉で修行をした者が入ったこともあるだろうけれども、 「大和の連中とはちょっと違うぜ!ヽ(`◇´)ノ」 という意識がそうさせたのだろうと筆者は思っている。

なにしろ大和伝は実用一点張りで地味なものが多い。そこから解き放たれた美濃移住組は、当時最先端の流行を取り入れて工学的にも意匠的にもなかなかに面白い仕事をしている。刀鍛冶=冶金エンジニアとしては、何物にも縛られない境遇で創意工夫を凝らすというのは、きっと楽しかったに違いない。


<つづく>