2013.07.23 穴沢〜百村:水が欲しかった村の話(その2)
■ 百村本田
さて続いて百村本田集落を見てみよう。こちらは明治時代になってから用水路が開通したところで、先行した穴沢から遅れること120年あまりでようやく潤沢な水を得たところである。
穴沢集落との距離は1km少々で、那須野ヶ原の最北端ぎりぎりに成立した。背後にある山はその名も百村山(もむらやま)といい、地名区分としてはここから福島県との県境までがすべて百村になっている。その百村の中でも "本田" つまりもっとも古くから人が住んで中心集落となっていたのがここである。
なぜここに最も古い集落が成立したのかといえば、水が得られるのが唯一ここだったからである。平面地図上では近隣に那珂川、木ノ俣川、巻川が流れて一見すると水が潤沢そうに見えるけれども、これらはいずれも深い渓谷の底を流れ、簡単に利用することはできなかった。しかしここには背後の百村山から湧き出る護安沢という細い水の流れがあり、ぎりぎり飲用水くらいは確保できたのである。
※先に紹介した穴沢集落も、当初はこの護安沢の水に依存していた。しかし水量が少なすぎて水は穴沢までは届かず、だからこそ彼らは一大決心をして自前で穴沢用水を開削するに至ったのであった。
百村本田を潤した護安沢の流れは、集落のほぼ中心部にある光徳寺(曹洞宗)の境内を流れ下っている。駐車場にクルマを停めると、さっそく参道と杉並木の脇から水の音が聞こえてくる。
これがその流れである。水は参道に沿って流れ下っており、穴沢集落と同様に鎮守となる寺院がキースポットとして水辺にあるという位置関係になっている。
…が、これはオリジナルの護安沢の流れに、明治時代に開削された新木ノ俣用水が合流して流れ下っているもので、当初からこんなに豊かな水の流れがあった訳ではなかった。参道を登ればすぐにその実態をみることができる。
新木ノ俣用水は光徳寺の境内(山門のすぐ上)で護安沢と合流している。山門に立つと右側に新木ノ俣用水、左側にオリジナルの護安沢の流れを見ることになる。
その合流する前の護安沢のオリジナルの水量はこんな(↑)程度で、見たところせいぜい家庭用の水道の蛇口くらいのレベルでチョロチョロとしか流れていない。これではとても水田などは開拓できなかっただろうし、むしろこの程度の水量に依存して村がひとつ成立したという事実のほうに驚く。これでは山麓ぎりぎりにある集落を超えて砂礫の平野部に出た途端、水はたちまち地面に浸透して消えてしまうだろう。集落の立地が山際ぎりぎりになっているのは、この水を有効に使うためであったに違いない。
その辺りの事情を、寺の住職氏に聞いてみたかったのだが…残念ながらこの日は不在のようであった(^^;)。御婦人らしい方が裏庭で草を刈っておられたので多少の話はしてみたが、嫁に来る前のことは正確にはわからないという。ただ境内を見てまわるのは構わないとおっしゃるので、お言葉に甘えて多少ウロウロさせて頂くことにした(^^;)
■ 新木ノ俣用水について
さて一見すると用水掘には見えない水の流れだが、境内で山水の見立てになっているこれが、百村本田から那須疎水本管までの広い地区に水を供給している新木ノ俣用水である。開削されたのは明治26年のことで、実は那須疎水よりも8年ほど遅い。
その開削意図は、那須疎水や穴沢用水(旧木ノ俣用水)では標高の都合上カバーしきれなかった百村〜木綿畑〜高林方面の水田開拓を目指したものであった。これが出来たおかげで、穴沢より50mばかり高地だったためにそれまで分水を引けなかった百村本田は、ようやく "自前の水源" を手に入れることが出来た。たびたび渇水で枯れることもあった護安沢の頼りない水量から開放され、村人達の喜びは如何ばかりであったことだろう。
ところで電動ポンプや揚水機の恩恵を当たり前のように受けている現代人にはちょっと想像しにくいかもしれないけれども、穴沢より50m高いところに水を引くコストは決して小さなものではなかった。
当然、取水点は山奥深くに作る必要があり、新木ノ俣用水では集落から7kmあまりも遡る峻険なコースで水路がつくられた。これは穴沢用水の取水点からさらに5kmほども奥地から水を引くということで、もはや人家も無い木ノ俣渓谷深遠部の断崖は急斜面の連続で、トンネルも多く、工事の難易度は非常に高かった。
寺の上流側、露天の区間をみると、当時の雰囲気を今でも感じることができる。ここは左上から右下にむかって急斜面となっている地形で、水路の右側が盛り上がって見えているのは高さ2mほどの土塁が作られて補強されているものだ。一見して土砂や落ち葉などで埋まりやすい構造で、メンテナンスの大変そうな水路であるといえる。
…これが、延々と7km以上にわたって上流側に続いていくのである。
■ 木ノ俣隧道事故の記憶
さて新木ノ俣用水のメンテナンスについて考える際、忘れてはならない事故の記録がある。昭和41年(1966)に起きた木ノ俣隧道(ずいどう=トンネル)事故である。これに触れないで新木ノ俣用水の話を書くのは少々忍びないところがあるので、ここで簡単に概要を説明しておきたい。
当時は大正時代に改修の行われた水路が老朽化して、そろそろ昭和の大改修(=那須野ヶ原総合開発の一環)が検討されていた。古くなりすぎた水路は水量を確保するのも大変であったらしい。
この年の6月29日、台風による豪雨によって大規模なトンネル崩落があり、水が流れなくなった。稲の生育期に水が止まるのは一大事である。そこで急遽復旧工事が開始されたのだが、そこには専門の土木関係者ではなく、素人である地元住民が大量投入されていた。
これは義務人夫制といって公共工事を行う際に周辺住民を徴発するもので、もちろん戦後のことであるから工事請負の表看板は正規の土建業者なのだが、実態としては江戸時代から明治時代にかけて行われていた住民動員の慣習が、当時はまだ生きていたのである。公的にはこれは "受益者負担" の一環として認識されていた。地域組織に参加すらしない都会の人には理解不能かもしれないけれども、田舎の生活インフラとはこうやって維持されていたのであり、労役を負担せずにタダ乗りするなど有り得なかったのである。
豪雨から9日あまり経った7月8日、長さ700mにもわたる第三トンネル内の崩落部で、トンネル内に溜まった土砂の除去作業に59名の義務人夫が投入された。縦横1.4mという狭い坑内で入り口から280m奥の崩落部分まで人夫が一列に並び、土砂を順繰りに掻き出すという作業であった。もちろん内部に照明設備はなく、作業にあたっては発電機(ガソリンエンジン)と長大な連結電燈が持ち込まれた。…が、これがいけなかったらしい。
午後一時半頃、トンネルの入り口付近で作業をしていた人が変異に気付いた。奥に居る人が返事をしない。気分の悪くなった人が増えている。密閉状態のトンネル内に大量の人が入り、なおかつ発電機を回したことによって内部が酸欠状態になり、一酸化炭素中毒を生じたのだった。
すぐに警察と消防、さらには自衛隊が呼ばれたが、酸欠による二次災害の恐れがあり、運の悪いことに雨も降り出して救出作業は難航した。被害者全員の搬出が完了したは日も暮れた午後7時過ぎで、救急隊の活動も空しく、59名中25名が死亡、17名が入院するという惨事となった。
光徳寺の参道脇には、このときの犠牲者の慰霊碑が建っている。犠牲者はみな地元の住民で、百村、鴫内、木綿畑の各戸から1名以上の参加を義務付けられて参加した人々であった。水の豊かな土地であれば有り得なかったシチュエーションで、水神様はかくも多くの人身御供を取っていったのである。
当時この事故は水に困窮する農民の悲劇としてマスコミで繰り返し報道され、国会でも取り上げられたらしい。そしてこれがきっかけとなり、計画中であった那須野ヶ原総合開発(→灌漑水路の再編)の着工は早められ、新木ノ俣用水の上流部では近代改修も進むこととなった。
昭和30〜40年代は、戦後の復員者受け入れに伴い、この地域にも入植者が増えてふたたび水不足をきたすようになっていた時代でもあった。那須野ヶ原北部の水利環境が近代土木の技術のうえに改善していくのは、この後のことである。
<つづく>
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