2013.07.23 穴沢〜百村:水が欲しかった村の話(その3)
■ 新木ノ俣用水を遡ってみる
さてその新木ノ俣用水を、源流に向かって遡ってみよう。
ここにはかつては登山道みたいな道しかなかったそうだが、現在では木ノ俣発電所(平成元年稼働)のメンテナンス道路が整備されて取水口付近までクルマで行くことが出来る。板室街道を黒磯から板室温泉方面に向かうとホテルニューこめやから左にそれる一本道(ただし非常に細い)があり、そこから登っていけばよい。
■ 慰霊碑
やがて2kmほど登ったあたりで、小さな広場がみえてくる。道路が舗装されているのはここまでで、奥にひっそりと何かが建っている。
実はここがさきほど紹介した事故の現場なのである。今は慰霊碑が建っているのみで、静かな空間が広がっている。解説板などは何もないが、訪れるのは地元の方々ばかりなので改めて説明することは特にない…といったところなのだろうか。筆者もささやかながら、犠牲となった方々のご冥福と魂の安寧を祈ってみた。…南無南無。
なお問題のトンネル入り口は、現在はフェンスで覆われたうえに雑木が生い茂って中を伺い知ることはできない。事故ののちにトンネルはより強固なものが別途掘り直されたそうで、当時の教訓はそれなりに生かされていると言えそうだ。
■ 急斜面の水路を行く
さてここから奥は深い水たまりの連続する悪路になる。舗装らしい舗装はされておらず、落石も多いので、車高の高い四駆でないと底を擦りそうなところだ。
道路直下には、トンネルを脱した水路が急斜面上を縫うように流れているのがみえる。やはり地形上そのままでは水を流せないので、非常に細長い土塁を巡らせて僅かばかりの溝を作り、そこに水路を通している構造だ。それにしても…ホントに凄いところだなぁ。
やがて、通行止めに遭遇。…むむ、崖崩れとな。
こういうことがちょくちょく起こるから、山間部の用水というのは管理が大変なのだろう。
幸いこの部分は用水路がトンネルで岩盤内を抜けており、路肩が多少崩れても水の流れには影響は出ていないようだった。ただクルマはもう通れそうにないので、ここからは自己責任の原則に従って徒歩で登っていくしかない。
それにしてもホントに落石がゴロゴロしているな…(´・ω・`)
やがてトンネル to トンネルでちょこっとだけ地表面に顔を出している水路に遭遇。ここは第一トンネルと第二トンネルの接続部にあたるらしい。
トンネルに流入する水量を調節する水門もあった。これより上流側は取水口まで岩盤の中なので、下流から登ってくると水面を眺められるのはここが最後になる。
トンネルの入り口には "水利悠久" の文字が刻まれていた。平凡ではあるけれどもこの水路に込められた思いが伝わってくるような気がする。
■ 取水口
そこから200mあまり登ったところが取水口である。両岸は切り立った断崖で、よくもまあこんなところから水を引いたものだ…と感心してしまうような立地になっている。
今でこそこんな立派な護岸構造+導水堰が出来ているけれども、明治時代の取水口は岩盤に穴が開いているだけの素朴なものであったらしい。そこから初めて水が取り込まれて百村まで流れた日のことを思うと、なかなかに感慨深いものがあるな。
さらに100mばかり奥には、発電所があった。道路はここが終端である。
途中は未舗装のダートなのにここだけ舗装なのがちょっと不思議な気もするけれども(^^;)、これは発電所がピンポイントにここだけ営林署から借用して管理しているためだ。施設に落石があっては大変なので路面も崖面もガッチリと固めて補強してあるらしい。
発電用水はここから落としてタービンを回している。地形的には上流の3箇所の沢から水を引いて落差200mあまりで落とせるのがちょうどここになるらしい。ちなみに発電所は昭和の末期頃の代替エネルギー政策の産物で、時代があと100年ばかり早ければこの水を活用してもう少し違った未来をこの地にもたらしたかも知れない。
といっても、歴史に if は無いのだったな… (´・ω・`)
…そんな次第で、本日はここが終点である。ゆっくりと渓流の風情を眺めながら、一服してみた。
あたりには鳥のさえずりと、セミの声と、水の音がひたすらどこまでもエンドレスに流れている。ミーハーな観光客が登ってくることもなく、釣り人すら見かけない静かな深山の風景である。
それにしても…こんな所から水を引くことを考えついた明治の人々は、どれほどまでに水が欲しかったのだろう。蛇口をひねりさえすれば家に居ながら水を得られる現代人には、もはやその思いを理解することは難しい。
そして同じように、今では無駄遣いの象徴にように使われる 「湯水のように使う」 という慣用句もまた、かつてこの地で水を欲した人々にはやはり正確に理解することは難しいように思われた。
■ ふたたび、百村にて
一通り水源地の風景を堪能したのち、ふたたび百村の開拓地に戻ってきた。もう夕刻もせまり日も傾くなか、水で満たされた水田が広々と続いており、遠くでヒグラシが鳴いているのが聞こえた。実に正しい日本の農村風景である。
…が、くどいようだけれどもこれはもちろんタダで実現されたものではない。いまいちど風呂敷を広げたような言い方になるけれども、日本の国土というのは放っておけばとても人の住めないようなところを、インフラ整備によって居住可能にしてきた歴史の積み重ねでできている。それは遡(さかのぼ)れば奈良時代の墾田政策あたりから始まった大きな流れに沿っていて、率直に言って大部分が水利の改善によってもたらされたものだ。
この風景は、絵としてはまったく平凡かも知れないけれど、間違いなくその流れを象徴している。
…暮れ行く水田を眺めながら、筆者はそんなことを思ってみた。
<完>
■あとがき
当初はもっと軽めにサラっとまとめるつもりだったのですが、調べだすと案外奥が深いのが那須野ヶ原北部の開拓史で、少々長めの(しかも何だか妙に重い感じの?)駄文になってしまいました。・・・実際には半日ドライブで 「ひょい」 と行って来ただけなのですけれどね(^^;)
さてよく 「不毛の地」 だとか 「人も住まない荒地」 と言われる開拓以前の那須野ヶ原ですが、農業生産性はほとんど無かったものの、人間は案外しぶといもので小さな集落はぽつぽつと分散していました。ただ日本の土地の生産性というのは評価基準が 「コメの生産量」 ですから、水田が拓けないところの扱いはやはり荒蕪の地ということになり、これを何とか水田化していこう…というのが水利事業の動機のひとつになっています。
コメが作れない那須野ヶ原の砂礫地では乾燥につよい豆類が細々とつくられていたようで、江戸時代の年貢の内容をみると現物納付はほとんどが大豆(または一部蚕豆)です。不思議なことに年貢は現金納付も多く、そんなお金をどこで稼いだのかというとなかなか明瞭な史料が無いのですが、江戸時代の那須野ヶ原では出作(他所の土地に通って小作する)が広く行われていたのでその賃金収入に年貢が掛けられたのかもしれません。
出作については東那須野村郷土誌をみるとたとえば上郷屋村では "当地出作ばかり定五割" などとあり、どこの土地に出張耕作したのかはわかりませんが、村はあれども農作物の自給がほとんどできていない実態と、出作分の年貢の分配比(耕作地の領主 vs 出作人の村の領主)らしい数字が見えます。水さえあれば遠くの耕作地まで出かけて行く必要も無く、また自分の家族分の食糧くらいは裏の畑でちょい(中略)くらいは出来る訳ですから、やはり農民の水に関する渇望というのは相当なものがあったように思われます。
さてもう少し話のスケールを大きくしてみましょう。江戸時代における開拓事業の本格化は、全日本的な規模でみると戦国の最終段階=関ヶ原の戦いの直後から70〜80年くらいの間に集中していて、政権安定期に入ったところで一気に加速した感があります。これで日本の人口が一気に増えだし、本編でもちょこっと触れましたが関ヶ原の頃に1200万人程度だった国内人口は江戸中期(1700年代初頭)には3000万人前後に達しています。(※これ以降は飽和して明治維新まで急激な増加はなくなりますが、富国強兵政策でまた爆発的な伸びが始まります。この間、終戦までほぼ食料自給率は100%だったりします。ナニゲに凄いですね ^^;)
しかし那須野ヶ原にはそのトレンドは仲々及ばず、江戸初期から人はぼちぼち入っていたようですが、ようやく開拓の試みが本格化したのが1700年代の末期になってからでした。これは本文でも触れていますが天明の飢饉(1782-1788)以降に明瞭に打ち出されてきたものです。江戸時代中期〜後期は世界的に気候が寒冷化した時期で大きな飢饉が何度か起こっており、なかでも天明の飢饉は青森県の岩木山、群馬県の浅間山の大規模な噴火の被害とも重なって日本史上最悪ともいえる餓死者を出しました。これを機会に国内では食糧増産の試みが一斉に広まり、天領はその実験場になったのです。
那須野ヶ原北部ではこの天明の飢饉の20年ほど前に穴沢用水(旧木ノ俣用水)が開通して小規模ながら扇状地に水を引く目処が立っており、これが幕府代官山口鉄五郎の目にとまって 「これを拡張して墾田を拓こう」 という発想に至ったようです。残念ながらこの事業は当初の目論見どおりの成果を出せないままに終わってしまいますが、のちにもっと水量を稼げるルートとして那須疏水が実現していくときに、再度類似のルートで水路が開かれて "復活" しています。これはもう百年スケールで進んでいる訳で、まさに世代を超えた物語なんですね。
ただその壮大な物語も、はじまりの瞬間はとてもささやかなもので、穴沢集落二十七戸(当時)が自前の資金と労力で用水開削に踏み切ったところに原点があります。そういう意味では、ここは那須野ヶ原開拓の生きたモニュメントといえるかもしれません。実際に訪れてみると非常に地味なところですが、「水」 という視点で那須野ヶ原を眺めるとき、やはりここは忘れてはいけない場所ではないか…と、筆者はそんなことを思ってみました。
<おしまい>
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