2015.01.18 南山御蔵入領と百姓一揆の記憶:後編(その3)



 

■ 田島




さて中荒井を出てからは、最後のチェックポイントである田島を目指していく。中荒井からの距離は3kmあまりで、クルマならほんの数分で到達する。

写真で見ると雪が少ないように見えるけれども、これは小なれども地方を代表する都市なのでマメに除雪が行われているためである。…といってもメンテナンスが行き届いているのは幹線道路沿いのみで、ちょっと奥まったところはやはり雪の無法地帯(?)になっている。




ここは江戸時代、南山御蔵入領を治める陣屋の置かれたところで、もとは戦国時代の長沼氏の居城であった。河川を自然の堀として防御を固めやすく、山がちの南会津のなかでは比較的耕地に恵まれていたため、統治の拠点となり城下町が発達した。正徳年間~享保年間の幕府直轄時代の代官所もこの陣屋に置かれていた。

陣屋跡に隣接して背後の愛宕山の尾根伝いに丸山公園という史跡公園が整備されている。もとは教林寺という寺の墓地で、南山御蔵入騒動で打ち首になった6名が獄門となった刑場はここに隣接(西側)していた。現在は再開発されているのでかつての陰鬱な(?)面影はなくなって普通の住宅街と水田の混在地になっている。夏に訪れればのどかな田舎の風景がひろがっている。

処刑された6名は現在では地域のヒーロー=義民として扱われており、供養塔を兼ねた六地蔵と記念碑が建っている。筆者は今回、それを見ておきたいと思ってここを目指してきた。




少々わかりづらい旧道側に入って、駐車場を見つけて滑り込む。…というか、昭和に入ってクルマが通行しやすいように直線状にR121を通したため、旧道に沿ってつくられた公園には少々入りにくい。




さてそれでは公園に……と思って車を降りてみたのだが…

あれ?

なんと、駐車場から公園に登る階段の前には、付近の除雪作業で片付けられた雪がうず高く積み上がっているではないか。…駄目じゃん!(爆)




市街地側(田島駅側)に回ってみたけれども、入っていける雰囲気はない。南側からもやはり近づくのは無理のようだ。田島市街地で最大の公園だから除雪くらいされているだろう…と思いきや、当局はこの季節は生活道路のメンテナンスで手いっぱいらしい。

うーん…、冬の南会津はどこに行ってもこんな感じだなぁ…




仕方がないので、碑の現物確認は諦めて遠景としての公演を眺めることで我慢。冬にこの種の歴史探訪をしようというのがそもそも無理なのかもしれないが(笑)、まあ雪景色の中で敢えてやりたかったのが今回の企画なので、ここは甘受すべきところだろう。

それはともかく、ここは公園の南西側にあたる鎌倉崎という字(あざ)の風景である。"義民" とされる6名が獄門に処せられたのがこの付近で、さすがに獄門台の跡地というのは今は残っていないようだが、改修される前の会津西街道(R121=会津では日光街道とも呼ぶ) はこのすぐ脇を通っており、当時は人通りの多いところであった。




獄門は、獄門台とよばれる高さ四~六尺の木製の台に一般的には3日間、首を和釘と粘土で固定して見せしめにする刑である。打ち首とセットで行われ、夜間は首が盗まれたり犬に食われたりしないよう番人が付いた。横には罪状を示す高札が立ち、南山御蔵入騒動では以下のような内容であった。

右六人の者ども、立ち難き願いを発頭いたし、大勢あいすすめ、願いに同心なき者をも押して判型をとり、強訴に及び、そのうえ御年貢上納を差押え、郷村へ偽りなる儀を触れ候重科によりて死罪獄門に行うものなり

獄門の刑を受けた者の遺体の埋葬は許されず、葬儀を出すことも墓を建てることも禁じられた。胴体は刀の試し切りの材料にされることもあり、首、胴とも遺族には渡されず原則として廃棄される。死後に及ぶ見せしめ的な直接刑である。




ただその執行には妙なところで日本的な美意識があったようで、"罪人" といえども最後の一服(酒、煙草など)と辞世の句を残すことは許されており、時代劇でときたま見られるようなムリヤリ縛り上げてズバッ、という光景ではなかった。

南山御蔵入騒動では、斬首6名のうちただ一人田島で刑が執行された喜四郎という農民の辞世の句が現在まで伝わっている。もはや300年も昔のことであり、これが本物なのか歌舞伎の台本の派生物なのかはわからないが、すくなくとも地元では本物と信じられている。

彼は最後の一服として酒を所望し、朗々と歌を謡ってから辞世の句を詠み、もはや思い残すことなしと述べて斬られたという。伝承によれば、享保七年七月二日のことであった。

いたづらに 花さく春を過ごしけり
寝ざめものうき 秋の夜すがら - 喜四郎



 

■ そして一揆は収束した




さてこれは後日談になる。

田島での獄門刑は、遺族が首を貰い受けできないかと願い出ると三日を待たずにあっさり引き渡された。葬儀と埋葬に関しても代官所は特になにもいわず、黙認のうちに行われたという。どこかで親切な妖精さんが 「空気を読めよ」 と役人の中の人にアドバイスしたのかもしれないが、形式上では幕府の威厳は保たれたので大目にみられたというのが、まあ妥当なところかもしれない。

ただしさすがに形の残る墓石の建立は認められなかった。代わりに地蔵や、単に南無阿弥陀仏とだけ刻んだ石塔が置かれ、これは現在でも義民各々の生家のちかくに残っている。




山田代官は戻らなかった。そのまま "施政よろしからず" として江戸で代官を罷免となったからである。……といっても、それ以上の厳罰もなかった。年貢の絞り上げが幕府(というか徳川吉宗)の政策の根幹のひとつである以上、横領など明らかな不正がみつからない限り責任の追及には限界がある。記録によれば彼は幕府小普請役なる閑職にまさわれたとあり、まあヒラ役人として平和で小ぢんまりとした人生を歩んだようである。

そしてほどなく幕府からの布告があり、享保七年七月二十一日、南山御蔵入領は再び会津藩預かりとなった。これは長い幕政の中でも極めてめずらしい "リセット技" で、ファミコンのリセットボタンよろしくすべてを無かったことにしてしまうというツッコミどころ満載ではあるが有効な大ワザであった。これのどこが凄いかというと、「○○に問題があったので△△に改める」 などと詳細を明確にする必要がなく、責任の所在を曖昧にしたまま 「あとは任せたぜ」 と西部劇のラストシーンのように ENDマークを出せることにあった。

これにより山田代官時代に課せられた諸役も課税もリセットとなり、江戸への廻米も賦役もなくなって、結果的に農民側の負担は保科正行の時代よりは重く、しかし山田代官時代よりは軽いという水準に落ち着いた。一揆そのものは鎮圧されてしまったけれども百姓側の要求の多くは実現しており、幕府は一応の体面を保ちながら、しかし中身をみれば農民側の判定勝ちといえる結末となった。




その後の南山御蔵入領は比較的平穏な時代を幕末まで過ごすことになる。統治は変わらず田島陣屋にて執り行われ、会津からはさっそく臼木覚左衛門なる奉行がやってきて、以後民心は安定したという。

その舞台となった陣屋(代官所)跡が、丸山公園の東隣にある。江戸時代の建物は明治維新後に洋風建築に改められ、南会津郡役所として使われた。残念ながらこのハイカラで瀟洒な建物からは江戸中期の一揆の余韻はもはや感じられないが、まあそれも歴史のうちと思いたい。




少々くどい言い回しになるかもしれないが、江戸時代初期の一揆とは領民の団結具合を示す示威行為(デモ)と陳情書の提出による、比較的温和なものが多かった。

それが 「食うか食われるか」 という暴力的なものに変わっていく端境期に、この南山御蔵入騒動は位置している。支配する側も、される側も、余裕をなくしていくのがこの時期であり、その後150年ほどをかけて江戸幕府は財政問題と民衆の不満をぎりぎりの水準でバランスさせながら国家を運営し、やがて崩壊して明治維新を迎えることになる。……が、ここではそこまでは語らずにおこう。(どんどん長くなってしまうので)



 

■ 下郷へ




さてあちこち脱線しながら長々と書いてきた本稿は、このあたりでおしまいとなる。

帰路は、同じ道を引き返したのではつまらないので、田島からさらに北上して、下郷~西郷村経由で那須に戻ることにした。最後はその風景を眺めながら締めくくるとしよう。




といっても、この道すがらは下手な文章を連ねるよりも黙って風に吹かれながら眺めるべき風景なのである。七ヶ嶽を源に発した阿賀川が田島から下郷にかけて幅1~2kmの細長い盆地を形成し、会津若松から田島、そして五十里へとつづく街道を抱擁し、それを真っ白な雪が覆っている。今回は一揆の話を主に書いたけれども、ここは幕末の騒乱で、もう一波乱のドラマを生んでいく。いつか時間が許せば、それも書いてみたい。




傾きつつある短い冬の日差しは、どこまでもつづく白い世界をやがて燈色に染めていく。
まさに落日の雪景色。今も昔も、こればかりは変わらない。

【完】




 

■ あとがき


うーむ…今回も、脈絡のない話題を並べてえらく長いレポートになってしまいました(笑)。最初は適当に雪景色を並べて 「雪国だヨ、全員集合!」 的なノリで書こうと思っていたのですけれども、おまけのつもりで取り上げようとした南山御蔵入騒動の背景事情が面白くて、なんだかそちらのほうにお株を奪われてすっかり景観写真のウェイトが下がりっぱなしです(^^;)

話が長過ぎ&詰め込み過ぎのうえに、本編ではマクロな話とミクロな話がごちゃまんとしていて、何が何だかわからん、という方も居られるかと思います。そこで細かいことは省略して、マクロな視点で大雑把にこの一揆の起きた前後の解説をしつつ、あとがきに代えてみようかと思います。


■ 高度経済成長の終わりという時代性




さて国家の発展と衰退を推し量る簡単な指標として、人口の増減があります。戦国時代が終わって江戸時代が始まり、その最初の100年ほどは人口がどんどん増えて豊かな社会が出来上がっていきますけれども、それが限界に突き当たって停滞し始めるのがちょうど南山御蔵入騒動の頃にあたります。これ以降も開墾事業は全国で進められており、耕地面積は増えているはずなのに、しかし人口は増えない。ここを起点に、低成長時代が幕末までずっと続いていきます(見方によっては "安定" したという人もいますが ^^;)。

これを説明する説はいろいろあるのですが、筆者的には幕府の財政難から年貢率が上がったために、百姓が食っていくのに十分な食料が農村に残らなかった…というのが最も自然な説明のように思えます。大きな声では言いにくい話ですが、農村で "間引き" が盛んになるのもこのあたりからだったりします。政策によってこれだけ人口増減に差が出ると、統治者(政府)の責任というのがいかに重いものであるかが再認識させられます。




この停滞に至る端緒は本編でも述べたように金の採掘不振からくる貨幣不足で、それがやがて米穀経済に基盤を置いていた幕府財政を赤字基調にし、不景気の中で増税を繰り返して社会が疲弊する…というその後の悪循環を生んでいきます。

ここで早期に経済政策をうまく切り替えて名目通貨制に移行 (→金本位制からの脱却および貨幣供給量の増大) していれば第一の危機は乗り越えられたのかもしれません。しかしその萌芽を育んだ荻原重秀は新井白石によって失脚させられ、あろうことかデフレ促進政策が全速力で加速されてしまいます。それに続く享保の改革でも 「供給を増やす(新田開発)」 一方で 「需要を削る(倹約)」 というこれまたデフレを促進する政策が続き、その中で山田代官の無理な年貢徴収策が進んで、天領では初の大規模一揆である南山御蔵入騒動に至ったわけです。


■ 実験場としての南山御蔵入領


ところで、山田代官が南山御蔵入領で実施した "悪行" のひとつに、不作の年でも年貢の量を例年並みに取り立てたというのがあります。これは定免法(じょうめんほう)に相当するものと思われます。定免法とは過去数年間の平均収穫量から算出した年貢を、仮に不作の年であっても徴収するというものです(そのかわり豊作の年はそれ以上は徴収せず、農民側にコメが残ります)。

それまではその年の収穫毎に、その何割という計算で年貢としていました。これは検見法(けみほう)と呼ばれる方式で、太閤検地以前からの日本の税制のスタンダードです。不作の年は不作なりに一定率で徴収するので、領主の収入は年によって増減しますが、百姓からみれば不作の年には少ない年貢で済む利点がありました。

徳川幕府は、享保の改革で検見法を廃して定免法を課税のスタンダードとして採用しています。導入時期は享保七年(1722)で、勘の鋭い方はピンと来るかと思いますが、これは南山御蔵入騒動(享保五年:1720)の起こった後のことです。ここから鑑みるに、南山御蔵入領ではこの税制が実験的に先行適用されていたのかもしれません。


■ 騒動がもたらしたもの


さてあまりあとがきが長くなりするのもアレですので、最後に南山御蔵入騒動がもたらしたものについて多少の言及をして終わりたいと思います。

南山御蔵入騒動は、強権的な統治が必ずしも良い結果をもたらさないことを幕府に示しました。しかし幕府の財政再建は待ったなしで、結局税率は従来の四公六民から五公五民に上がってしまいます。そしてその徴収方法も、結局は定免法となって不作の年でも例年通りの徴収という原則が適用されました。




ただし南山御蔵入騒動ののちに全国展開された普及版:定免法には、破免という規定が盛り込まれました。これは不作のときの例外規定で、食料が不足するときに百姓が困窮するような無理な徴収は行なわないという趣旨のものです。

実は南山御蔵入騒動の起こった享保五年は日照不足で不作の年で、それにも拘わらず山田代官が無理な年貢徴収を行ったことが、領民蜂起の一因となりました。幕府はこの顛末で学習したようで、当初は5分の収量減、のちには条件が緩和されて3分の収量減のあった年には年貢を減免するということに制度を改めたのです。これは南山御蔵入領ばかりでなく全国に散在する天領に適用されたので、恩恵を受けた農民は数知れません。南山義民の死は、この点でも無駄ではなかったと言えましょう。

また筆者は年表を眺めていて 「おお!」 と思ったのですが、八代将軍吉宗が有名な目安箱を設置したのは享保六年八月で、南山御蔵入領の義民が訴状を勘定奉行所に持ち込んだ後、江戸で半年あまりも訴えを続けていてついに逮捕収監された月なんですね。このとき勘定奉行はかなり思い切った強硬策で問題解決を図ろうと動き出した訳ですが、将軍吉宗がこれをどう見ていたのか筆者は興味津々です。この時期に 「将軍直行の直訴状の受付ポスト」 が設置されたのには、南山御蔵入騒動が絶対に絡んでいるだろうと筆者は想像しているのですが……はてさて、実際はどうだったのでしょう。

※実は南山御蔵入領の農民一行は新設ホヤホヤの目安箱にも訴状を投書しており、もしかすると投書第一号であった可能性があります。ただ目安箱には 「裁判中の案件を重複投書してはならない」 という規定があり、吉宗がこれをどう受け取ったのかはちょっと微妙な感じもします。

……ともかく、この事件は勧善懲悪的な時代劇シナリオとして解釈するよりも、もっともっと奥深い要素を含んでいます。歴史は一面のみでは正しく理解できません。いろいろな角度から吟味してこそ、後世の良い教訓になるのだと思います。


<おしまい>