2015.01.18 南山御蔵入領と百姓一揆の記憶:前編(その4)




 ■ 代官は実はいい人?




ところで筆者は予備取材として南会津博物館でいくらか情報を集めたのだが、山田代官があまり悪人のように思えないところもあり、博物館の中の人に 「山田代官というのは実のところ、どのくらい邪悪な奴だったのよ?」 と聞いてみた。

「…それが、実は違うのですヨ」

と職員氏は意外にも嘆くように説明してくれた。 代官は幕府の命令(年貢徴収の履行)を忠実に実行しようとしていただけで私腹はこやしておらず、それどころか上司にあたる勘定奉行に対して、過剰な搾り上げはよくないなどと百姓側に立った意見書を出していたという。特に廻米については明確に中止の立場で進言していたらしい。

・・・え?(^^;)
なんですかその並行世界論的な世界線は?





しかし調べてみるとこの話は田島町史にも載っていて、建議書などの史料の裏付けもある。いったいこれは、どういうことなのだろう?




あまり長く引っ張るのもアレなのでいきなりタネをばらしてしまうけれども、実は一般に知られている一揆の話には、歌舞伎の台本の内容が混ざっているという。

南会津は農民歌舞伎の非常に盛んな土地柄で、かつては村々に総計170にもおよぶ歌舞伎座があった。幕府はこの種の音曲系の催事にはたびたび禁止令を出したのだが、会津藩は 「歌舞伎は禁止だが踊りなら構わぬ」 などとゆるゆるの政策(^^;)をとっていたので、「踊り」 「芝居」 「物まね」 などと名前だけ変えて、地域行事としてさかんに演じられていた。主要演目には玉藻の前などとともに南山義民 (=南山御蔵入騒動の犠牲者) の物語があり、一揆の顛末は人気のある題材として繰り返し上演されていたらしい。




その中で、話の筋書きを面白くするために悪役は徹底して悪いように描かれた。ただ当時は幕府の政策を批判すること(=御政道批判)は重罪であったから、あくまでも代官が個人レベルで悪事を働いたという話になった。一方で農民側では一番最後に打ち首となった喜四朗という百姓が、悲劇のヒーローとして特に美化されていったという。

こんな経緯があるものだから、一般に流布されている南山御蔵入騒動の物語は朝日新聞の飛ばし記事のように事実とファンタジーがごちゃまぜになっている。史料を丹念に調査することで客観的な事実関係がわかってきたのは最近のことで、まあざっと戦後になってからのことらしい。




史実としての山田代官の仕事ぶりは、ざっと眺めたところではごく平均的で真面目な公務員という感じがする。勤務実態としては普段は江戸詰めが多かったのだそうで、博物館の中の人によると南山御蔵入領に本格的に入ったのは一揆の起こる直前くらいのタイミングであったらしい。筆者はてっきり着任早々に領内を検分して回ったのかと思っていたのだが、これではちょっと私腹を肥やすのは難しいのではないかという気がする。

※私腹を肥やすというのは幕府に納めるべき年貢から中抜きをするということで、これは徴収現場の帳簿と代官所が幕府に提出した決算書を突き合せれば簡単にバレてしまう。バレないようにするには口裏を合わせて表面上は矛盾のない出納記録をつくらねばならず、実はかなり強力な会計能力と現場掌握力が必要である。




とはいえ、では山田代官の治世に不正がまったくなかったかというと、実はそうでもなかった。問題を起こしていたのは代官の部下として10ヶ村くらいを単位に掌握していた郷頭という下級役人(名主が兼ねていた)の一部で、これがそこらじゅうでコソコソとピンハネをしていたらしい。特に会津藩預かり時代に農民救済のために設けられた社倉制による備蓄米は、幕府直轄支配になってからも各村々の共同倉庫に保管されたままになっていたのだが、これがいつのまにか処分されて減っていたりするのである。

※のちに幕府に処罰された領民36名(打ち首獄門以外)のうち、"役儀取上" となった名主が十名ほどいるのだが、そのうちの幾人かが罪名の無い不思議な罪人となっており、これに該当しているといわれる。



 

■ 大魔王としての徳川吉宗、降臨




さてここで、南山御蔵入領の農民にとってはもうひとつ不幸が重なっていることに触れなければならない。享保元年、幼将軍:家継が七歳にして夭折し、八代将軍:吉宗が登場してしまったことである。

吉宗は享保元年、就任早々に新井白石をすっぱりとクビにして、水野忠之を老中に登用し "享保の改革" を始めたのだが、このとき既に幕府財政は極度に逼迫し、もう待ったなしとなっていた。どのくらい逼迫していたかというと、諸国の大名に 「参勤交代の江戸詰め期間を半分にしてあげるから、代わりにコメをカンパしてよ PLEASE!」 とお願い(上米の制)しなければならない程だったのである。元禄期の小判改鋳で国庫に収まったはずの差益500万両は、この頃にはすっかり消え去っていた。

この年に南山御蔵入領に赴任した山田代官が "仕事熱心" になったのには、 「早く年貢収入増加の成果を出さねば」 という重圧があったのはまず間違いない。TVの時代劇 「暴れん坊将軍」 のイメージとは大きく異なって、実際の吉宗はもう 「カネ! カネ! カネ!」 という感じの借金大魔王である。その借金の多くは先代以前の治世の置き土産ではあるけれど、彼は敢えてそれを正面から受け止め、強い意志をもって、ピントのずれた政策(デフレのさらなる促進 ^^;)を推進した。




こういう背景を追っていくと、山田代官は本当に気の毒な立ち位置にいたのだろうと思う。

…ということで、慣れない分野の内容は書くのも非常に疲れるので(笑)、以下は次回としたい。


<後編につづく>