2022.07.20 霞ヶ浦の風景(その3)
■ 湖岸をゆく
公園を出た後は、霞ヶ浦西浦の湖岸をゆるゆると流していく。土浦市街地近郊は都市開発が進みすぎている感があるが、田舎では都市部からちょっと離れれば自然たっぷりというところが少なくない。それを期待しながら、もう少し低開発っぽい湖岸風景を眺めてみよう。
走っていくのは堤防道路を基調にしたこんなコースだ。湖岸には戦前の旧帝国陸軍の流れを汲む自衛隊の施設が点在していてストレートに通り抜けるのは難しいが、そこはまあ適宜迂回して進んでいく。
そんな訳で公園南端に隣接する水質管理センターから堤防道路に乗っていこう。堤防道路は特に何号線という名前はないようで、クルマがぎりぎりすれ違うことのできる4m規格でつくられている。
ここは基本的に交差点も信号もない一本道路だ。標識もなければ停止線もなく、ただひたすらに道路が続いている。ついでにいうと電線もない。愛称としてはりんりんロードと呼ばれているようで、どうやらサイクリングコースという建前になっているようだ。
しかし普通に自動車も走っているし、まあサイクリングの邪魔にならない程度なら特に走行に制限はないのだろう。
道路から湖面をみるとこんな感じで、相変わらずベタ凪の景観がひろがっている。海と異なるのは "打ち寄せる波" がないことで、いわゆる潮騒の音というのはない。標高ゼロメートル地帯の水の風景は本当に静かだ。
■ 蓮田のある風景
さて静かな湖岸を進んでいくと自衛隊の土浦駐屯地があり、ここは通り抜けることが叶わないのでいったんR125に退避する。駐屯地の先にはさらに防衛装備庁の研究施設もあってしばらくは霞ヶ浦は見えなくなる。
駐屯地から4kmほど進んで島津集落の付近までくると、周辺には蓮の花が多く見られるようになった。 おお、たしかに公園で見た蓮園より広大な景観だな。
見れば水田と蓮池が混在している。どちらも似たような泥地に見えるけれども、蓮根は水深50cm~1mくらいの泥の中で育ち、稲作の水田よりもずっと深い。実態としては遠浅の沼みたいなところだ。
こんな状態でどうやって蓮根を収穫するのかといえば、水中ポンプででジェット噴射のごとく水流を当てると蓮根が浮かび上がってくるのでそれを採るのだという。つまり泥田から 「水を抜く」 というプロセスはない。
収穫は蓮根を全部採るのではなく1割くらいは残しておく。そうすると水の中で地下茎が再び成長してまた葉が伸びてくるのだそうだ。
さてこのあたりからふたたび湖岸を走れるようになるので水辺に寄ってみよう。ちなみにカーナビ画面の左上に見えているのが防衛省の施設で、旧帝国海軍の航空隊施設を受け継ぐものらしい。
湖岸に寄ると、まあ蓮田の多いこと。
ここに広がっている蓮田は、コメ余りに伴う米作からの転換で広がったものらしい。せっかく江戸時代に干拓を進めて水田を増やしたのに1000年ほども時代を巻き戻して蓮根栽培に戻っているというのはなんとも不思議な気がするけれども、現代の市況に於いては蓮根はコメ作りより収入がよく、転作は農家にとっても利があるらしい。
さて湖岸道路に戻った。道幅は3.5mほどで、土浦周辺よりは幾分安普請になった気がする。 これだとクルマがすれ違うにはかなりギリギリだが、交通量はほとんどゼロなので実質的に問題はない。
道路を兼ねた堤防は湖面から2~3mくらいの高さになっている。道路左側の湖面水準と右側の蓮田+水田の高さにはほとんど差が無い。両者は道路下の水路でつながっていて、水位面水準は一緒だ。
このギリギリ&ヒタヒタな環境は湖面水準が厳密に管理されているからこそ維持できるものだ。この道路添いにはそれをコントロールするためのポンプ場が約1km毎に設置されている。
これがそのポンプ施設である。施設設置票をみると灌漑用水の取水施設という名目になっている。晴天時には農地の肥料成分が霞ヶ浦に流出して富栄養化を起こさないように水路内で循環、雨天時には農地が水没しないよう霞ヶ浦側に排水する働きをしているらしい。 正直なところこんな小さな施設で間に合うのか?という気もするけれど、実態として管理できているのだから必要十分なのだろう。
取水/排水兼用の水門はおよそ150mに亘(わた)る導水路を伴っていた。最初は船でも入ってくるのかなと思ったが、どうやら放っておくと遠浅の岸辺が土砂で埋まってしまうので、ガードを設けて水の流路を確保しているらしい。
湖畔は相変わらずの遠浅で、この付近では沖合300mくらいまでが水深1m未満の泥田の延長線上みたいな領域になっている。
実は湖全体でみても霞ヶ浦の水深は平均4mほどでしかない。東西25km、南北22kmの広さがあってこの水深であるから、アスペクト比にしてざっくり 1:6000 ……つまり幅が6mに対して深さが1mmの水溜まりということになる。これだと平面地図の上に湖を象ったシールでも貼ってあるんですかというくらいのシロモノだな。
後ろを振り返ればヒタヒタの水田がみえる。用水路の水面は湖面の延長線上にあり、ほとんど一体のものになっている。ほんの数十cmほども水位が上昇すれば、ここは水没して湖面になってしまうだろう。
それを裏付けるように、人家は堤防沿いではなくR125まで退いたところに並んでいる。人家の建っている地面水準はR125付近を境界に標高2~3mくらいの段丘になっていて、土浦周辺もそうだったけれど、皆経験的にどのあたりなら水没しないのかを知っているようだった。
戯れに、ここでも国土地理院の測量データで断面図を書いてみよう。堤防道路があるおけげでかろうじて湖面と干拓地が区切られているけれども、段差など無いに等しい。本当にギリギリ感のある立地なのだ。
そして堤防の外側には、どこまでが陸でどこからが水面なのかよくわからない葦原が広がっている。
なるほど……これが、霞ヶ浦の風景なのだな。
堤防は 「ここまでがヒトの支配する陸地だぞ」 と主張するための境界線ではあっても、その支配の実態は蜃気楼のように心許ない。
まさに "霞ヶ浦" とは、よく言ったものだ。
■干拓の背景としての気候変動、天変地異など
さてここで歴史ロマンをぶち壊すかもしれない雑学を少し入れておきたい。
霞ヶ浦の干拓が可能になったのは、人類の叡智というよりは世界的な気候変動サイクルと火山活動に乗ったもの、というミもフタもない実態がある。 まず気候については室町時代~江戸時代は小氷期と呼ばれるほどの寒冷な時代で、南極圏や北極圏で氷の形で固定される水が増え、海水面が下がった時期にあたっている。霞ヶ浦はもともと海であって、やはりこの時期に水面を下げた。
もうひとつが火山噴火の影響であった。主なものとしては宝永四年(1707)の富士山の噴火、天明三年(1783)の浅間山の噴火があり、このとき関東地方に大量の火山灰が降下した。それらは雨に流されて川に流入し、特に利根川流域で河床の上昇をもたらした。
特に影響が大きかったのが利根川の源流に近い浅間山から出た大量の噴出物で、これが川を下って河口部を広範囲に閉塞させた。おかげで海水が以前ほど遡ってこなくなり、霞ヶ浦の淡水化が加速した。このとき生物相は海水魚主体から淡水魚主体へと劇的に入れ替わっている。そして塩分が抜けたかつての干潟では、米作が可能な領域が増えていった。
※上図は Wikipedia のフリー素材より引用浅間山夜分大焼之図)
※土砂の流入には利根川東遷事業も関連しているのだが話が長くなるので割愛
参考までに江戸時代に水田化が進んだ地域(↑)をざっくり示してみよう。収穫量UPが幕府に知られると年貢の賦課が上がったので未報告のローカル耕地が他にもあったかもしれないが(笑)、まあそこはそれ。
その主軸は霞ヶ浦と名が付いても実質的には利根川の周辺で、ありていに言って浅間山から流下した火山噴出物で埋まった地域のようにみえる。地質的にはこれもまた関東ロームの一部であり、火口から10km圏内(※)に降り積もる礫状物質と違って、粘土状の微細な粒子の集合体であった。
※火口から10km圏というのは鹿児島県の桜島と鹿児島市街地くらいの距離感になる。霞ヶ浦は浅間山、富士山からともに150kmほど離れており、降下灰は鹿児島よりずっと細かいものだった。
これらの作用によって、かつて "香取の海" と呼ばれた内海はほぼ消滅した。
現在我々が見ているのは、このとき取り残された水塊部分とその境界領域ということになる。河口堰や水利施設を整備して極限までコントロールされた水面は、わずか数十センチの段差でかろうじて "陸地のようなもの" を維持して今に至る。
面白いのは、明治維新以降にも霞ヶ浦の干拓はたびたび行われているのに、新規に獲得できた耕地は江戸時代の1/10くらいの規模に留まっていることであろうか。
筆者が思うに、干拓しやすい土地は江戸時代のうちにあらかた干拓され尽くしてしまったのだろう。いかにテクノロジーが進歩しても自然環境の変化ほどのインパクトでゲームチェンジを演出することは出来ない。 ボーナスステージは、そう簡単に人間の都合に合わせて訪れてはくれないらしい。
<つづく>