■2005.09.14 名古屋城を見る (その2)




■ 城内に入ってみる




さてまずは大手門から見てみよう。おおさすがに構えはしっかりしている。特筆すべきはその土台(石垣)の厚さで、たっぷり10m以上はある。近代工法で復元しているので柱がコンクリートになってしまってはいるが、まあそこはそれ。




中に入ると、庭園と内堀を挟んで天守がみえた。屋根が緑色に見えるのは銅張りが酸化して緑青(ろくしょう)を噴いているものだ。緑青の被膜は化学的に安定で、ゆえに銅張屋根は腐食につよく長持ちする。

※銅は金/銀に比べると安価だが鉄よりは高い。これを屋根材に使えるのは財力に余裕がなければならず、"緑の屋根" は一種のステータスでもあった。




この城を建てたのは、江戸幕府を開いて間もない家康だった。信長の那古屋城(廃城)後地に天下普請(=地方の大名の負担で徳川家の城を作らせる)で建てたのがこの名古屋城で、「俺様がこれからの日本を支配するボスだ」 ということを天下に示すための施策のひとつであったと言われる。

城の建築が始まったのはまだ豊臣秀頼が存命中の慶長15年(1610)で、大坂冬の陣(1614)、同夏の陣(1615)の直前であった。この頃の豊臣家は、関ヶ原で敗北して大坂周辺の65万石のみを領する "一大名" の立場に落ちてはいたものの、秀頼の朝廷内での官位は右大臣であり、征夷大将軍=徳川家康とほぼ対等であった。少なくとも朝廷は、秀頼を秀吉の存命中とほぼ同等の格式で扱っていた。




これを排除するために、家康は天下普請と称して全国の大名に号令し、大量の人員と資材を動員させててまず江戸城の拡張工事(1603〜)を行わせ、次いで越後の高田城と合わせて慶長15年(1610)に名古屋城の築城を開始した。秀頼がどんなに官位を上げようと、朝廷の意向がどうであろうと、天下の大名に実際に号令できるのは徳川家である、ということを示したかったのだろう。




・・・結局のところ、この家康の既成事実の積み重ねは功を奏した。世の中はもう徳川を中心に回りだしている。やがてかつての豊臣大名も時局を読んで徳川に付いたほうが得策と思うようになり、わずか5年後の大坂夏の陣で、豊臣家はほとんど味方を得られぬまま滅亡した。

そういう意味では、この城は時代の変革の最後の一押しをした・・・と意義付けられて然るべき存在なのかもしれない。


 

■ 本丸へ




さてどんどん進んでいこう。門をくぐって本丸側に入ってみる。内側は防御もかねて鉤形の通路になっている。戦時にはこの石垣の上から侵入者を射たり銃撃したりするらしい。




おお、これが本丸・・・!ヽ(´ー`)ノ

実に堂々とした天守閣だ。高さでは江戸城に及ばなかったそうだが、この天守は床面積では国内最大になるらしい。幅、奥行きが大きいのと、最上階の床面積が広いのが効いているそうだ。

ただしこれは鉄筋コンクリート製のレプリカである。オリジナルは太平洋戦争(大東亜戦争)当時、米軍の空襲に遭って焼け落ちてしまった。また、本来ならこの天守の前の空き地となっている部分には本丸御殿が建っている筈なのだが、これもまた焼け落ちてしまって見ることが出来ない。




屋根には、名古屋城のシンボル、金の鯱(しゃちほこ)が乗っている。戦時中の城の焼失は、この鯱を爆撃から守るために降ろそうとしているタイミングで起きてしまった。現在載っているのは、やはりレプリカになるという。




ところで驚いてしまったのが土産物屋の商品バリエーションであった。さすがは名古屋というか、キンキラキンの黄金づくしなのである(^^;) 名古屋人は何でもキンキラキンでないと気が済まないとは聞いていたけれど、実際に見ると・・・ちょっと引いてしまいそうだなw




さてもう少し寄って、天守閣の近影を撮ってみた。ちょっと雲が出てきてしまったが重量感があるいい絵になる。

ちなみに名古屋城は徳川家康が作った最後の城郭になる。安土〜桃山と通じて発展した日本の城の様式のひとつの完結点がここにあり、これ以降は一国一城制が布告されて大規模な築城はなくなった(※)。それが覆るのは、幕末ちかくなって対ロシアを意識して北海道の松前城が整備されるまで待たねばならない。

※厳密にいうと大坂夏の陣の時点で伊賀国:上野城が天下普請中(既存の城の改築)であったが、豊臣家が滅亡したことで工事は中止となり、天守のない未完成のままとなった。




・・・などと歴史に思いを馳せながら石垣を見ると、なにやら妙な施設が建っているのに気づいた。どうやら身障者用に造られた車椅子用エレベータらしいけれども、もうちょっと城の外観を壊さないデザインにできないものかなぁ(´・ω・`)

※正門から中に入ればちゃんと広いエレベータはあるのである。


<続く>