2007.08.11 那須国造碑 (その3)




■笠石神社(那須国造碑)




さてもう日が傾いてきている時刻だが、古墳を巡って最後にやってきたのが笠石神社である。




笠石神社の "笠石" とは、ずばり那須国造碑のことだ。




その名の通り、頭に笠のような石が乗った二段構成になっている。ゆえに笠石である。建立されたのは700年。日本最古の石碑といわれ、国宝に指定されている。

実は、さきに訪れた上侍塚古墳、下侍塚古墳を水戸光圀が発掘しようと思い立ったのはこの碑が発見されたことがきっかけなのである。碑は建立されてまもなく何らかの理由で倒れ、そのまま1000年以上文字の刻印された面を下にして放置されていた。それを江戸時代になって旅の僧が偶然に発見し、近くの馬頭村(現:那須烏山市)の大金重貞という者に報告、それが三戸光圀の耳に入ったのであった。




驚くべきことに、1000年もの長きにわたって放置されていたにも関わらず、碑文側の面が土に埋まっていたことで文字はまったくといっていいほど摩滅していなかった。村人は、古墳や正倉跡と同様、なにか曰く付きらしい碑を畏れ、その存在を知ってはいたものの "手を触れると怪異が起こるから" と近づくことはなかったのである。信心深いにも程(ほど)があるだろう、とツッコミたいところは山々だが、しかしお蔭でこの石碑は良好な状態で近世まで保存されたのであった。

1000年経ってはじめてその倒れた碑を起こしてみたのが旅の僧だった、というのも面白い。この僧が好奇心を起こさなかったら、その後もうあと100年経っても村人が自分からこの碑に関与しようとはしなかったのではないだろうか(^^;)




社務所の門を敲くと、出てきた宮司さんはいろいろと力のこもった解説をしてくれた(^^;)

碑文は全部で152文字、当時の常識としてすべて漢文である。内容は、当時那須国造であった那須直韋提(なすのあたいのいで)が亡くなったので、息子の意斯麻呂(おしまろ)らがその遺徳を称えているものだ。その大意を書き出してみよう。



「永昌元年(689年)己丑(つちのと・うし)四月、那須の国造の追大壱であった那須直韋提は飛鳥浄御原大宮より "評督" という官位を授かった。そして庚子年の正月二日、壬子の日の辰の刻に亡くなった。そこで嫡子である意斯麻呂(おしまろ)を首とする我々は故人の遺徳を偲び碑を建立した。」

・・・その先は、いかに故人が素晴らしい人物であったか、ということが延々と書かれている。

注目すべきは 「永昌元年」 の記述だろう。これは唐の元号(※則天武后の時代であり、一時的に唐は周と国名を改めているがここでは面倒なことは言わない^^;)である。日本では既に645年に大化の改新が行われ暦には日本独自の元号を用いている筈だが、ここでは中国の年号になっている。つまりこれは日本人の書いたものとしては少々違和感があるのだ。

実はこの時代、日本書紀によると新羅人が下野の国に移住したとある。当時の渡来人はインテリとして迎えられることが多かったから、実はこの碑文も意斯麻呂の依頼で新羅人が書いたのではないかと言われている。碑の外観や書体が当時の大陸風の造りとなっている点からも渡来人の影響がうかがえる。

建立が700年とされているのは亡くなったのが庚子(かのえ・ね)年とあるためだ。十干十二支(じっかんじゅうにし)は60年で一周するので年の特定の手がかりとなる。永昌元年以降直近で庚子となるのは西暦700年(文武天皇四年)という理屈である。ちなみに評督という官職は大宝律令(701年制定、702年施行)以前の官職でありここからも年代が絞り込める。ちなみに "評" という地方行政単位は大宝律令以降は "郡" と名を改め、そこを監督する官職は "郡司" とされた。(※この付近に "郡司" という姓が多いのは、明治期にこれにあやかって創氏した者が多かったせいかもしれない)

なお 「追大壱」 も 「評督」 も大和朝廷の官職だが、一生のうち二度も官職を与えられるというのは地方の者としては異例のことだった。




そんな碑文の内容が明らかになったとき、水戸光圀は 「近くの古墳に埋葬されているのは、その那須直韋提ではないか?」 と疑問に思ったのである。かくして、その仮説を裏付けるための発掘調査が行われるに至るのである (結果は証拠不十分で埋葬者の明確化はできなかったが)。

調査の後、碑(=笠石)の周囲一町部(≒1ヘクタール)は水戸藩直轄領とされた。そして笠石は風雪による摩滅から保護するため鞘堂に収まった。この処置は佐々木助三郎宗淳(=助さん)を通じて行われ、以降代々近くの民家が管理にあたることになった。それが現在の笠石神社となるのである。

※余談になるがちょうどこの調査が行われている頃、この付近を領していた那須家はお家騒動を起こして改易となり、その所領は幕府に召し上げられている。割とすんなり碑の周辺が水戸藩(→徳川御三家のひとつ)の直轄地になったのはこのあたりの事情も関係しているのかもしれない。




さて普段は閉じている門を開けていただいた。那須国造碑(笠石)は国宝なので常時一般公開されているわけではない。ただし宮司さんにお願いすれば見せていただくことは可能である。



鞘堂外観。・・・が、残念ながら写真はここまでである。御神体の撮影は禁止となっているとのことで、実物を見せては頂いたがここに掲載することはできない(^^;)。



かわりに拓本の写真を紹介しておこう。花崗岩に彫られた碑文はノミの跡が生々しく残る実に良好な保存状態だった。素人目で見ても建立されて数年〜十数年程度で倒れたように見え、判読に困らないどころか書体(中国六朝風)の特徴も克明にわかるので、その筋の研究者にとっても非常に魅力的な一級資料となっている。なにしろこの碑文書体は書道の教科書にも載るくらいなのだ。

これが、田舎の交差点脇のほんの小さな神社に地味〜に保管、維持されている。興味のない者は気づくこともなく通り過ぎてしまうのだけれど、こんなころ(失礼 ^^;)にも歴史あり・・・なんだなぁ。




帰り際、ふと宮司さんに呼び止められた。「もしや、あなたは○○さんでは?」 というので何だろうと聞いてみると、なんと宮司さんは元小学校の校長先生だった。国宝を見学させていただくにあたって記帳した名前から昔の生徒名を思い出したという。凄い記憶力だな・・・(汗 ^^;)

しばし無駄話をした。宮司さん曰く 「歴史は生々しいのはいただけませんな。千年くらい経って語るのがちょうど良いくらいです。」 とのこと。

筆者も、その意見に同意した。

<完>