2007.09.09 塩原の古代を歩く:後編 (その1)




前回の後編です〜ヽ(´ー`)ノ



さて前回中途半端になってしまったので再度塩原に向かってみる。今日も山側の雲具合はいまひとつだな。




■源氏の落ち武者と左靫の戦い




塩原渓谷を登って布滝、抛雪(ほうせつ)の滝の付近まで登ってきた。前回ちょっとだけ触れた左靫である。今日はここから源平争乱にスポットを当てた話をしよう。話が長いのでたまには講談調でいってみようかしらん。いよう〜。




さて頃は保元・平治の乱で平氏が絶大な権力を握ってから20余年、1180年前半の頃の日本の状況を整理してみしよう、べべんべんべん(※琵琶の音色と思いねぇ:笑)。

この頃、平清盛は博多と福原を拠点に瀬戸内海を押さえ、知行地である伊勢の銀を活用して日宋貿易で巨万の富を得ている。このときまだ源頼朝は伊豆で人質の身であり、義経は朝廷からは半独立状態の奥州平泉にて潜伏中である。

保元・平治の乱は平氏の勢力拡大を決定的にした戦いであったが、その本質は崇徳上皇と後白河天皇の勢力争いであり、源氏も平氏も "傭兵" としてそれぞれの勢力に加担したにすぎない。よって源氏の中にも数は少ないが勝利者(後白河天皇)側につき勢力を保った者がいる。その代表が源頼政であり、それまで朝廷の身分としては正四位下までしか与えられたことのなかった源氏一門にあって、平清盛の推挙によって従三位の地位を得るに至った(このことから源三位の別名で呼ばれる)。




その源頼政が、平家の専横をきらう寺社勢力と、安徳天皇の即位によって皇位への希望を絶たれ臣籍降下させられた以仁王(このときは既に "源以仁" だが…)と組み、この年5月に反乱を起こした。足掛け6年にわたる治承の乱(源氏方の蜂起→平家滅亡まで)の始まりである。

挙兵は途中で計画が露呈し、頼政と以仁王は京を脱出後、一時三井寺に身を隠したのち、宇治の平等院で平家勢の急襲を受け "宇治橋の合戦" にて討ちとられてしまう。要するに緒戦はあっけなく鎮圧されてしまったのだけれど、しかしこのとき以仁王の発した平家追討令が、東国の各所で源氏勢力の蜂起を促すことになるのである。べべんべんべんべん♪




宇治の合戦後、大将である頼政を失った一族は下野国宇都宮氏を頼って落ち延びてきた。前九年の役では宇都宮氏は源氏の一員として奥州攻めに加わっており、その縁を頼られたようだが詳細はわからない。なお頼政の知行地(摂津、伊豆など)にいた一族郎党なども平家の追討を恐れて逃げた筈だが、こちらも詳細は不明である。

このとき、東国は混沌としている。頼朝が挙兵するのは8月であり、宇治の戦いの直後5〜6月の段階では情勢はきわめて流動的であった。宇都宮氏もこのときは時節柄平家勢に属しており、源氏の落人をあまり堂々と受け入れられる立場にはない。そこで配下の塩谷氏、塩原氏の領地(会津道)からこっそり一行を奥州落ちさせようとしたようで、ひとまず山間地である塩原でほとぼりを冷まそうとしたらしい。

塩原の里物語(随想舎:塩原町文化協会)によればこのとき落ち延びてきた武者は六騎おり、要害城の塩原八郎に迎えられたとされる。ざっと名を挙げると…

・田代冠者和泉守源頼成 頼政の孫。子孫は塩原の温泉旅館 “和泉屋” を営む。
・源四郎成綱 頼政の孫。子孫はのちに及川氏を名乗る。
・源五郎広綱 頼政の孫。元暦元年(1184)6/5、駿河守。子孫に太田道灌。
・山県三郎国政 頼政の二男。美濃山県氏の祖。塩原にて左靫の合戦に参加。
・源四郎頼兼 頼政の四男。鎌倉政権下で蔵人大夫 。
・源太郎宗仲 頼政の孫。子孫は下間氏(親鸞に帰依して代々本願寺坊官を務める)

こうしてみると錚々(そうそう)」たる面々だな…(´・ω・`) 無論、六騎といっても馬+武士が6セットだけひょいとやって来た訳ではなく、ある程度の郎党は引き連れていたことだろう。ただし逃避行という性格上、装備も人数も限られたものであったことは想像に難くない。




さてそこで塩原の情勢である。ここは史実と伝説のあい半ばするところなので筆者も伊達と酔狂で書いていることをご了承頂きたい。べべべん♪

源氏残党の塩原入城はまもなく平家方の知るところとなり、ついに追討軍が派遣されてしまう。追討軍といっても都から誰かが来たわけではなく、令旨1枚で近場の武将に 「やっちまえ」 と指示をしたのである。これに応え、東からは那須太郎資隆(これが伝承上の初出?)の軍勢、西からはなんと亡命希望先の陸奥国から藤原泰衡の郎党秋田三郎致文が軍勢を差し向けたと伝えられている。それにしても当事者の宇都宮氏に善処を求めるのではなく他国に攻め入らせるというのは、なんとも意地の悪い対処の仕方だなぁ・・・(´д`)

平家の睨(にら)みが効いたのかは不明だが、このとき宇都宮氏も塩谷氏も援軍を出した気配はなく、塩原氏はわずか100人前後の子飼いの兵力のみで両面作戦を強いられたようだ。まあ地方の山村の伝承でもあり、歴史としてどの程度正確なのか微妙なところではあるけれど、ここは盛り上がるところなので気にしないで話を進めよう。べべんべんべん♪



さて伝承においては、その那須勢の進軍が大網付近に迫っているのを察知した塩原八郎は大胆な作戦に踏み切った。大将自ら20名ばかりの郎党を率いて左靫(ひだりうつぼ)に進出し、自分自身を囮(おとり)として敵を難所に引き込んだのである。




言い伝えでは、ここで崖の上に待機していた本隊が一斉に攻撃を仕掛け撃退したという。その本体を指揮したのは落ち延びてきた六騎の一人、山県三郎国政(頼政の二男)と伝えられる。

ちなみに猟師や武士が矢を入れて携帯する容器を靫(うつぼ)という。通常は右脇腹に抱えるものだが、この付近ではそれを左に持ち替えなければ通れなかったため、地名を "左靫" と称した。つまり馬や荷車が通れるような場所ではなく、崖っぷちを這うように進まなければならない難所である。




その道は現在、R400より10mほど上の崖に痕跡をとどめている。鎌倉時代以降岩盤を削って広げられてきたものだが、現在残る道筋が源平の頃のルートと完全に一致しているかというと、残念ながら確証はもてない。とはいえ、つい最近(→明治維新)まで使われたこの旧道も騎馬武者が軽やかに進軍できるようなシロモノではなさそうだ。

温泉街のご老体に聞いたところでは、源平の頃は馬すら通り抜けることのできない道だったらしい。「こんなもんですよ」 と説明されたときのゼスチュアは右手と左手の感覚が20cmほどでしかなかった。これは絵巻物風の騎馬戦を想像してはだめで、割と小規模な歩兵戦だったと理解すべきなんだろうなぁ。




ロープが張られていて今は一般人は侵入禁止なのだが、そこは自己責任で踏み込んでみる。道幅は1mあるかないかといったところか。。




崖の面を回ったところで道はすぐに激細の踏み跡に変わっていた。幅は20cmあるかないか・・・しかし確かに岩盤上に一直線に続いている。うーん、これは確かに難所だなぁ・・・(@_@;)。激細になる境界付近は踊り場のようになっており、どうやら近世には吊り橋が架かっていたような雰囲気もある。

那須野ヶ原方面に抜ける "関谷道" が整備されるようになるのは鎌倉時代に入ってからだが、現在切り通しになっている部分まで全部崖縁を巻いていく格好で抜けていったとすれば、難所部分は少なくとも100mくらいはありそうだ。源平の頃でも補助的な木枠の足場くらいはあったかも知れないが、ここで上から岩を落とされたり矢を射掛けられたりすれば逃げようがない。攻めるには難く、防御側にとってはきわめて有利な地勢といえるだろう。

さて、とにもかくにも、左靫の戦いは塩原勢の勝利に終わり、那須勢は引いた。その後戦国時代になっても那須勢はここまでは進出せず、大網付近からこちら側は侵さなかったという。




さてもう一方の尾頭峠の戦いも、塩原勢は同じ戦法で臨んだらしい。現在は1.7kmのトンネルでほぼまっすぐに抜けられる尾頭峠は当時は九十九折の山道で越えており、塩原八郎家忠はやはり20数名の家臣を連れて自ら囮となって敵を引き入れ、崖上に待機した主力に上から攻撃させたという。

尾頭の戦いは7度に及んだというが、いかにも講談調の話であり多少割り引いて考えるべきだろう。この時期奥州藤原政権には義経が飼われていて、藤原氏はカードの切り時を考えている。尾頭で戦いがあったとしても、平家政権の状況(弱体化してくれれば奥州にとっては好都合)をみながら残党狩りの "おつきあい" 程度の兵力を投じてみせる以上の理由が奥州藤原氏にはない。まあ、わからないことを詮索しても始まらないので、ここは "そういう話もある" くらいで構えているのがよさそうだ。

こちらは当時の古道の跡を追うのが大変なので、紹介はあっさり済まそう(^^;) ともかく結局、秋田勢は峠は越えずに兵を引いたのであった。べべべん。




そんな古代のろまんをスルーしながら塩那道路に上ってみた。21世紀になっても塩原の市街地は深い山の中にポツンと開けたピンポイントの狭い里である。周りを囲む山と渓谷がここを外界から切り離して一種の隠れ里にしたこと、そして会津道という街道すじに比較的近かったことが、落ち者集積場(なんだそりゃ)的な歴史をつみあげたのかもしれない。


<つづく>