2009.01.03 那須波切不動尊 金乗院で護摩行を見る (その1)




正月なので神社仏閣巡りなどをして参りましたヽ(´ー`)ノ



黒磯神社に引き続き、JR東北新幹線沿いの神社仏閣を巡ってみた。メインディッシュは金乗院(那須波切不動尊)の護摩行で、実際にはもっと巡っているのだが3箇所に絞ってレポートしたい。




さてまずは毎度毎度レポートコースの出発点として扱っている那須塩原駅である。いまでこそ新幹線が停車し地域の玄関口然としているが、歴史的にみれば黒磯、西那須野のほうが駅前集落が大きく、ここはその間隙に埋没した小さな駅であった。かつての駅名は "東那須野駅" という。

東北新幹線建設の計画が持ち上がった1970年代、その停車駅候補として名乗りを上げたのは黒磯駅と西那須野駅の周辺住民で、東那須野は特に何かをしたわけではない。しかし加熱する一方の誘致合戦が収集のつかない状況になり、ついに地元の有力議員W辺M雄が 「じゃ、真ん中にしろよ!」 と豪快な決定を下した経緯がある。…が、まあそれは初詣とは無関係なので置いておこうw

今回は駅の現在の表口=西口ではなく、旧東那須野駅の表口=東口から尋ねたい。そこには元旦に訪れた黒磯と同じように、明治の開拓時代の残照がかすかに残っている。




■東那須野神社




東那須野駅(現・那須塩原駅)が置かれた場所は大原間(おおはらま)といい、読んで字の如く茫漠たる原っぱの真ん中であった。地理的には原街道(現・R4)と大田原道(石林から東小屋に抜ける)の合流点にあたる。江戸時代の原街道は物流専用路線で宿場町はなかったが、東小屋には荷駄を取り次ぐ問屋がおかれていた。

東北本線(現・宇都宮線)の駅は開通当初(明治19年=1886年)は少なく、宇都宮以北では矢板、西那須野、黒磯のみであった。東那須野駅が新設されたのは明治31年(1898年)で、市街地の形成開始時期は遅い。しかしここにも黒磯と同じようにやがて鎮守の社が作られた。それが東那須野神社である。



今も残る村社時代の参道門柱。"村社" の文字は現在では漆喰で塗り潰されており、少々痛々しい。周囲が開けているのは戦後まもなくと1980年代(バブル期)の宅地造成の影響である。本来の拝殿/本殿は奥側の白壁の民家のあたりにあった。

バブルの頃はこんな田舎でも土地投機が横行し、なんとこの那須塩原駅前は土地の値上がり率が全国一位という名誉なのか不名誉なのかよくわからない記録を残した。現在の周辺地価は最盛期の1/3〜1/5まで下落しており、一応の落ち着きを取り戻している。




さてこれが現在の神社の全景である。黒磯神社に比べると慎ましやかで社務所もなく、注連縄は更新されているようだが人気はない。もともとはここは地区の寄り合い所とセットで神社が建立され、寄り合い所は公民館となって存続しているが建物の位置はより奥側に移ってしまった。周辺の杉林もすっかり伐採されて裸の神社中枢部だけが残ったという状態だ。狛犬と鳥居の配置が妙な角度になっているのは造成にともなって移動した結果である。

残念なことにここは由緒書きが何も無く、創建年代も不明で祭神もわからなくなっている。貴重な開拓時代の史跡なのに、実にもったいないと思う。




本殿脇の記念碑には明治42年(1909)に氏子が杉苗100本を寄進したとの記録があり、黒磯神社(明治35年)とそう変わらない年代に神社が成立していたことが伺える。明治初期には数軒〜十数軒程度の零細集落(当時の村はその程度の規模)が周囲に散在し、この地区には大原間村、東小屋村が隣接していた。そんな周辺集落が30あまり集まって東那須野村を形成したのは明治22年のことである。成立当初の人口規模は不明だが、開拓の進んだ昭和10年の調査では4800名余が住んでいたという。

東那須野駅の付近には那須疎水第二分水が通され、盛んに新田が開かれた。それは地名にも現れており、周囲に "○○新田" 、"○○開拓"と名の付く土地が多いのはその名残といえる。なお鉄道は旅客路線というよりは貨物路線としての性格がつよく、駅前には材木置き場/製材所などが併設され林業の振興にも一役買った。こうして開拓が進行していく中で、鎮守の社としての神社もそれなりの社格を整えていったようだ。




今は絶版になっている東那須野村郷土誌(昭和10年)をみると、当時の東那須野神社は非常に立派な構えであったことがわかる。戦後は門柱一基を残して他の施設は隅のほうに寄せ集められてしまい、神域は切り刻まれて宅地と駐車場と建設会社の事務所になってしまった。

"鎮守の神社を潰した跡地" に平然と住めるかというと筆者はちょっと遠慮したくなってしまうのだけれど(^^;)、世の中には色々な人がいるので細かいことには言及しないでおこう・・・(汗)




灯篭基壇には皇紀2600年記念(昭和15年=1940年)の文字が見える。この翌年が真珠湾攻撃で、5年後の昭和20年に日本は敗戦を迎える。戦後の東那須野神社は切り刻まれて静かに埋もれ行く小社…という状況になり、新幹線開通後は周辺がさらに開発によって削りに削られてしまった。

埋没していったのは陰謀論的なGHQによる神道潰しの成果(?^^;)…かどうかは分からないが、現在ここが寂れた状態にあるのはやはり "賑わい具合の差" が積算した結果ということになるのだろう。商店街の競争と似たようなもので、神社仏閣の集客力もある意味では人気投票の結果といえる。これは結構シビアな選別だ。




難しいことを抜きにしても、こうして正月に訪れてもテキヤがいない、社務所は無人、おみくじも引けない…という小社には、なかなかリピートしづらいというのが正直なところだろう。地理的な立地条件は決して悪くない筈なのだけれど、やはり狭い敷地に寄せ集められてしまったこと、およびプロモートがうまく出来ていないところに少々残念なところがある。




さてせっかく訪れた訳だし、一応、家運隆昌、武運長久、商売繁盛などを雑多に祈願してみた。

よくみると祭壇には供え物が上がり氏子が健在なことが見て取れる。ここが信仰空間として復活するには相当な時間と努力が必要かもしれないけれど、それでもどうやらここがまだ生きている神社のようで少し安心した。




すっかり都市化が進んでしまった駅周辺にあって、この神社は開拓時代のモニュメントとして地味ではあっても当時の残照を伝えている。願わくば、もう少し地元民の関心がよみがえって、それなりの地位を取り戻してほしいところだ。

そんなわけで、頑張れ駅前住民〜ヽ(´∀`)ノ

<つづく>