2009.03.27 雪の信越線:妙高高原編(その2)




■妙高高原ビジターセンター




さてそれでは池の平温泉へ…という訳だが、歩くには遠いので駅前からタクシーに乗ることにした。運ちゃん曰く 「今行ってもなーんも無いけどねぇ」 ということだが、もとよりそれは承知のうえであるw 聞けば昨日まで雪はまったくなかったそうで、一晩で30cmくらい積もったとのこと。「へぇ」 と関心すると、この辺じゃ珍しくないですよ、と補足が入った。




池の平地区はイモリ池を中心とする割と新興の温泉街らしい。後で調べて分かったのだが、妙高山は長らく信仰の山として一般の入山が禁じられており、そもそも開発行為がほとんど為されないまま近世を迎えた山域である。江戸時代も後期になって地元民が開発を要望するようになり、文化12年(1815)に当時の高田藩より許可が下りた。このときに開湯したのが池の平の2kmほど北にある赤倉温泉で、現在の妙高高原では中心的温泉街である。

おそらく時間がたっぷりある素振りをみせれば、観光案内所では赤倉温泉の方を推したことだろう。しかし筆者はあくまでも "ちょこっと瞬間観光" のスタンスだったので幾分距離の近い池の平温泉を勧められた…ということらしい(^^;)




さて温泉は後で良いとして、まずは妙高山を仰ぎ見るポイントとしては絶景といわれるイモリ池にやってきた。…が、空は一面の雪雲で山は見えず、さらに散策路は思いっきり雪に埋もれている( ̄▽ ̄)

運ちゃん 「…こりゃあ、その靴で入るのは止めといたほうが良さそうですなぁ」
筆者 「うーん…( ̄▽ ̄) では、ビジターセンターまで行って、そこで降ろしてもらえますか」

池が駄目ならせめてビジターセンターで妙高的な気分を味わっておこう。…なんだか、少々不安になってきたけど(爆)




そのまま、本来なら池が見えるはずの真っ白い樹林部分をぐるりと山側に回りこんで、えらく広い敷地にぽつんと建つ建物に案内された。どうやらここが妙高山ビジターセンターらしい。ビジターセンターとは国立公園毎に設置される資料館の一種で、外部からの訪問者向けにその地域の概要を分かりやすく説明している施設だ。

タクシーを降りると初老の職員氏がせっせと雪かきをしているところだった。軽く挨拶をすると 「いやあぁ〜っ、こ〜んなところまで来てくださったんですねぇぇぇ〜っ!」 とえらく感激されて中に案内された。

…そんなに久しぶりの客だったのだろうか?(^^;)




ビジターセンターは拝観無料、撮影制限なしという嬉しい施設であった。妙高山の地形、自然環境、歴史、文化etc…をコンパクトにまとめて一覧できるようになっている。元は環境省の運営する施設だったらしいが、今では地元のボランティアが運営しているそうだ。彼らはどうやら山小屋の運営や自然保護活動をしている団体とメンツが被っているようで、もうすぐ山小屋に物資を上げるんですよ…などと話していた。

来訪者について聞いてみると、やはりこの時期に妙高を訪れる観光客は稀なようで、オンシーズンでも冬季は皆スキー場に直行してしまうため、ここまで来る人は少ないらしい。そんな訳で、あまりそそくさと出て行っても失礼なのでじっくりと展示を見てみることにした(^^;)。




おお…これが、本来ならイモリ池から見える筈の妙高山か〜( ̄▽ ̄) なかなか絶景な立地なんだなぁ…。晴天であればこんな感じの一枚が撮れたかもしれないのに、ちょっと残念だ。

ここで妙高山について多少の薀蓄を述べてみよう。妙高山は標高2454m、山頂付近が陥没してカルデラ構造になっている複式火山(※)である。奈良時代初期 :和銅年間(708〜715)の開山で、古代インドで世界の中心と考えられた想像上の山 "須弥山" に見立てられ、修験の聖地とされた。"妙高" とは須弥山の別名であり、インドの梵語から中国語に翻訳したとき音で漢字を当てはめたのが "須弥山"、意訳して漢字を当てはめたのが "妙高" と言われている。

須弥山は帝釈天(インドラ神)が住む山とされ、中国の天帝思想とも入り混じってその概念が日本に伝わった。飛鳥時代〜奈良時代には既に日本庭園の形式のひとつとして須弥山の見立てが流行しており、仏教の隆盛もあって妙高山はその流れの中で命名、聖地化が為されたものといえそうだ。

※妙高山は陥没が無ければ3000m級の独立峰になっていたらしい。




この付近の最深積雪量は平均で3mほどあるらしい。昭和2年の大雪では5m(!)の記録もあるようだが最近は漸減傾向にある。今年は記録的な暖冬なのでかなり下限に近い数値になりそうだな。

近代以前の妙高山は、冬季は通れない閉鎖された空間であった。官道としては東山道から長野付近で分岐した北国街道が直江津まで抜けており、それは信越本線のルートとほぼ重なるのだが、当時はもちろん除雪車や機関車などあろう筈も無く、雪が降り始めれば途絶し、雪解けが進んでから開通する季節性の回廊だった。時代が下って戦国の頃になっても状況はあまり変わらず、厳冬期には上杉謙信も兵を動かしていない。

※妙高高原を越えて長野盆地に抜けると雪はあまり積もらないらしい。




ネイチャー系の展示としては関川水系に棲むイワナの剥製が素晴らしかった。全長はおよそ60cmほど…こんな立派なヤツがいると、アングラー(Under ground ではなく Angler = 釣人 のほうね ^^;) の血が騒いでしまいそうだw




さて展示内容を全部紹介していると紙面が足りないので一気に人文@近代に飛ぶ。ヒゲのインパクトで長岡外使(左)に負けてしまっているが(^^;)、右側の腹の出たおっさん=レルヒ少佐(オーストリア軍人)がここ妙高高原にとっては非常に重要である。Wikipedia によると "日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため明治43年(1910)11月に交換将校として来日 " の旨が記載されている人物だが、本来の任務よりも彼は日本で始めて西洋スキーを紹介し、その啓蒙&普及活動をおこなったことで知られている。

その最初の指導は高田歩兵第58連隊(現在の上越市に置かれた)に対して行われ、金谷山をはじめ妙高山周辺で訓練が行われた。つまりここ妙高高原近郊は、日本の "スキー発祥の地" ということになるらしい。



日本陸軍はレルヒ少佐の紹介したスキーについて、冬季の行軍訓練の一環として注目したようだ。厳冬期の八甲田山で雪中行軍訓練中の歩兵200名あまりが遭難した事件(1902)が起こって間もない時期でもあり、当時の対ロシア戦略を考える上で雪上の移動手段を確保することは重要課題であったらしい。

しかしレルヒは軍事に限らず一般市民にも広くスキーを紹介したことから、次第にレジャー/スポーツとして民間に定着していったという。上の写真はレルヒ来日から間もない大正時代(日付は不明)のものだが、既に女性が洋装でスキーを楽しんでいる。当時は専用のスキーウェアというのはまだ無く、日本髪を結ってマフラーと外套を着用し、足元はパンツルックという格好で滑ったようである。…これも大正浪漫のひとつの形態なのだろうか(^^;)




時代性を感じるものとしては、このゲタスケートがなんとも面白い(^0^) これでフィギュアスケートをやったら大ウケするかもしれないけれど、さて実用性は…どうなのだろうw




一通り見学した後、さきの職員氏としばし雑談をしてみた。雪国の暮らしというと筆者のような太平洋側の者からは、どうしても陰鬱な閉鎖空間+雪降ろしの重労働…という印象をもってしまいがちである。しかし地元民からすればそんなことはないようで、良いも悪いもこういう土地ですからねぇ、という以上のことではないらしい。彼らにとってみれば豪雪対策は日常の一部であって、部外者から同情をうけなければならないような不幸とは思っていないようなのである。

職員氏は最後に 「また、いい季節に来てくださいな」 と言った。ここは良い所ですよ、と添えるのも忘れなかった。




■雪中行軍(笑)




さて小一時間ほど過ごしてビジターセンターを後にした。それにしても、今更ながらだがタクシーを返してしまったのが悔やまれるw

雪は相変わらず降り続いており、この中を温泉まで徒歩で行かなければならない。周囲を歩いている人影は皆無。クルマも走っていない…。しかし躊躇していても始まらないので、臨時調達のビニール傘をさして歩き始めた。




途中、イモリ池に注ぐらしい川が雪に埋もれていた。春先でも一晩でこれだけ積もるのだから、厳冬期に悪天候が一週間も続いたら凄いことになるだろうな。




観光案内もすっかり綿帽子姿である。どこが散策路なのかは既にわからなくなっている。傘は雪でみるみる重さを増していき、着雪注意報の出る意味を理屈ではなく体感で教えてくれた。…なるほど、これは只事ではない(^^;)

…耳を澄ませば、風に乗って遠くから音楽が聞こえてきている。おそらくはスキー場からのものだろう。本来なら深々と降り積もる雪にすべての音が吸収されて無音になるのが雪景色の筈なのだが、ここではいかにも現代風の音空間が広がっているらしい。




近代的スキー場の無かった頃…この付近の集落の暮らしはどのようなものだったのだろう。農閑期と呼ぶには恐ろしく長い途絶された日々と、降り続く雪…そして、音の無い世界…。家の中では、家族ばかりの濃密な時が過ぎていく。

…案外、昔話や民話などが熟成されていったのは、そんな時間の積み重ねの中だったりするのかも知れない。




数百メートルほど進んで、この地区の鎮守らしい八幡宮に遭遇した。地図を見る限りではこの地区唯一の神社のようだ。おそらくここが集落の古い中心地なのだろう。

…それにしても、観光案内所で聞いた ”歩いて10分" というのはちょっと無理があるんじゃないだろうか(笑)
濡れないように、そろり、そろりと気をつけながら歩いているのだけれど、多少の努力など全然関係なくシャーベット状の雪が靴に進入してくる。こりゃもう諦めて開き直ったほうが良さそうかなw




さて日帰り温泉施設があるという交差点付近までやってきたぞ。




■池の平温泉




おお、あれが公共の温泉…ランドマーク♪ヽ(´ー`)ノ

すっかり雪で冷え冷え状態なので、一風呂浴びていくとしよう。




そんな訳で、ゆったりと湯に浸かることにした。他のお客さんもいるので全景を掲載するのは控えるが(^^;)、浴槽が広くて展望も良いナカナカの施設なのであった♪

ところで "池の平温泉" と名はついているものの、説明書によればここの湯は直接源泉から汲み上げたものではなく、赤倉温泉からさらに山奥に入った南地獄谷(標高1800m)という源泉から湧出した温泉を運搬して沸かしているらしい。これを温泉と呼んで良いかどうかは微妙だが、ここでは気にしないことにするw



内湯を制覇した後は、当然のように露天風呂を征服する。天候がよければ妙高山を正面に見る素晴らしいロケーションの筈だが、この天候では雪景色を見るのみである。




一面の雪景色を目前に、ふるちん仁王立ちで大自然を満喫するヽ(@ー@)ノ

うむ、これが漢の温泉道。はっはっは。




さて温泉を満喫した後は、ふたたびタクシーを呼ぶ。バス路線くらいあるかと思いきや、ここにはそんなものは存在しないらしいので仕方がない。10分ほど待って登場したタクシーの運ちゃん氏は、なんと来るときと同じ人だったw

運ちゃん 「…ね、なーんにも無かったでしょ?」

との言に、筆者は苦笑しながら消極的な同意をした。…とはいえ、わずか数時間の滞在ですべてを語れる道理も無い。 そのうち良い季節にもう一度くらい来てみたいものだな。


<長野編につづく>