2012.11.25 晩秋の足利:鑁阿寺〜織姫神社(その1)




足利をさらっと流して参りました〜(´・ω・`)ノ



世の中はどうやら勤労感謝の日を含めて週末の3連休であるらしい。…が、浮世の雑事に追われて筆者には遠出をする時間がなく、出かける余裕が得られたのは連休最後の日曜日の午後であった。しかしせっかくの晩秋の休日である。出掛けないというのは余りに勿体ない。

…ということで、秘密基地のある埼玉県:熊谷から比較的近場の足利界隈に出かけてみた。具体的な行き先は鑁阿寺(ばんなじ)と織姫神社(おりひめじんじゃ)である。紅葉もいよいよ平地に降りてきていることだし、あまり難しいことは考えずに人里の秋の風情をゆるゆると探訪してみようという趣向だ。




■足利への道




さて熊谷から足利に向かうには、R407に乗って太田経由でほぼ一直線である。渋滞にさえ巻き込まれなければ所要時間は1時間未満で到着できる。

この1時間というのを長く感じるか短く感じるかは人それぞれだろうが、筆者としては 「リーズナブルな距離のご近所」 として捉えている。職住近接の恵まれた環境にいたらとてもそうは思わないだろうけれど、 週末ごとに自宅まで往復150km也のドライブを繰り返していると、だんだんそういう感覚になってきてしまうのである(^^;)

それはともかく、連休最終日と言うこともあり世の中はもっと行楽客で混雑しているのでは…と筆者は想像していたのだが、 天気がいい割に道路はスムーズに流れていた。さすがに3連休の最終日ともなると皆疲れて出歩かなくなるのだろうかw




太田の市街地を抜けてゆるゆると北上すると、やがて県境を越えて足利市に入る。

足利の市街地は渡良瀬川を挟んで北側の旧市街、南側の新市街に分かれている。神社仏閣が多いのは旧市街の方で、これから向かう鑁阿寺はその中心にあたる。




足利の地勢と歴史については以前レポートした足利学校の項でもちょこっと触れているのだが、改めて簡単に書いてみよう。歴史や地理なんぞより 紅葉具合のほうに興味があるぞ、という方はここを飛ばして第二頁に飛んで頂きたい。

さて足利は渡良瀬川の支流にあたる袋川、田島川、名草川による複合扇状地である。この扇状地は現在では東西4km、南北5kmほどの広さがある。現在では…と但し書きが付いているのは渡良瀬川の川筋が洪水によって度々変わったためで、ここはかつては利根川流域と並ぶ水害の常襲地帯でもあった。扇状地の末端=渡良瀬川の流れる平野部は、海までの距離が160kmもあるのに標高は30m程度しかなく、傾斜や段差はほとんどない。こういうところではちょっと大雨が降るとすぐに河川が氾濫してしまう。

このため足利の旧市街地は洪水に飲まれない程度の山寄りの高台に形成されてきた。高さは河床からせいぜい5〜8mほどなのだが、水害から逃れるには必要十分であり、寺院や武家屋敷、そして足利学校などの名所旧跡はちょうどこのラインに並んでいる。洪水のもたらす豊かな土壌は一方では農業生産にとって有益であったため、水の流れと付かず離れずの絶妙な位置に人の営みが続いてきた。




さて もう少しロングでここの地勢を俯瞰↑してみよう。

さきほど渡良瀬川の川筋が洪水で度々変わったと書いたが、室町時代以前は現在の矢場川の付近が渡良瀬川の本流だったことが文献等から分かっている。関東武士団がにわかに活気づく平安中期〜鎌倉時代には、ここは10km四方ほどもある広大な扇状地とその末端平野が、渡良瀬川を天然の堀として巨大な要塞のような構えになっていた。

※余談になるが旧律令国の領域を受け継ぐ栃木県(下野国)と群馬県(上野国)の境界は、この矢場川に沿っている。川の流れは変わっても国境線はほぼ飛鳥時代の区割りのまま維持されてきた訳で、恐ろしく気の長い歴史の片鱗が伺える。




ここに足利氏を名乗る家系が興ったのは、藤原北家を祖とする藤原秀郷が平将門の乱鎮圧で功を上げ下野国押領使(軍事の棟梁)、下野国司、そして鎮守府将軍に任ぜられ、7代後の藤原成行が足利を本格的に開拓して足利荘としたときである。藤原成行は土地の名を採って足利大夫を名乗り、ここに藤原系足利氏が成立した。

一方、頃を同じくして清和源氏の棟梁源義家(八幡太郎)が関東に勢力を張り、その息子義国が同じく足利に入部して足利氏を名乗り、土地の境界線を巡って藤原系足利氏と対立するようになった。元は藤原氏、源氏であった家系が同じように "足利" を名乗るようになったのは、端的にいって土地に対する執着によるものだろう。

これは足利氏に限った話ではなく、平安中期頃になると氏族の姓よりも住んでいる(≒所有している)土地の名を冠して 「〇〇郷の誰それ」 という名乗り方が一種のトレンドとなっていくのである。これは特に武士の家系に顕著であった。初期の武士というのは武装した開拓農民というのが実態であるから、自分の開拓した土地の名前を名乗ることはその所有権の主張でもあったわけだ。 ただし 当時はまだ武士の土地所有権は法的には曖昧で、都の有力者に土地を寄進して荘園とし、その管理人という形で領地を実質的に安堵するという方法論がとられていた。 背後にいる中央政界の有力貴族や皇族は滅多なことでは滅亡しないので、いったん荘園として体制に組み込まれると、境界争いは膠着状態が長く続いた。

この争いに一応の決着がついたのは、平安末期の源平合戦のときである。このとき藤原系足利氏は平家側につき、源氏系足利氏は源氏側に付いた。 合戦はやがて5年の歳月の後に、周知の如く源氏側の勝利に終わり、藤原系足利氏は平家とともに滅亡してしまった。…以降、足利の地は源氏系足利氏の本拠地として長く歴史に名を留めることになるのである。今に伝わる足利の名所旧跡は、これ以降…つまり鎌倉時代から後に整備拡張されたものが主流になっている。




 ■鑁阿寺(ばんなじ)




さて前振りが少々長くなったが、さっそく鑁阿寺の正門にやってきた。ここは現在では仏教寺院(真言宗)となっているが、元は足利氏(源氏系)の武家屋敷である。地図によっては寺の名前ではなく 「足利氏宅跡」 などと表記してあり、 隣接する足利学校跡とセットで足利の名所旧跡の中心の地位を占めている。




寺の周囲はぐるりと堀と土塁で囲まれている。東西、南北とも250mほどある四角い領域で、四方に門を構えた鎌倉時代の武家屋敷の特徴が現在でもしっかりと残っている。土塁の高さは2m程度でこんなので果たして防衛の役に立ったのか?…と思えなくもないのだが、往時はおそらくここに板塀などが建っていたはずで、現在の見た目ほどヤワなものではなかったことだろう。




土塁越しに見える庭園は、色づきがちょうどいい具合のようであった。これは絵的にちょっと期待できそうだな。




…ではさっそく門内に入ってみよう。 正門から本堂までは一直線である。100mほどの石畳の参道の奥に、鎌倉時代創建の本堂がどーんと建っている。

本堂は創建時の建築がほぼそのまま残っており、大変貴重なものだ。実は足利は度々兵火に見舞われているのだが、鑁阿寺では戦闘仕様の堀と土塁がうまく機能したためか、楼門は焼け落ちたものの本堂に被害が及ぶことはなかった。火災に遭わなかったことで寺内の多くの蔵書(古文書)が現在に伝わっており、鎌倉時代の世相を知る上で貴重な史料となっているという。




寺の縁起については、あまり長く書くのもアレなので簡単に済ませよう。

鎌倉時代草創記、ここに居を構えた源氏系足利氏2代目の義兼は、出家して高野山に入り戒名を鑁阿(ばんな)とした。 戒名といっても別にそこで突然死した訳ではなく(^^;)、出家して正規の仏教徒となったなので仏教徒(僧)としての名前=戒名を授かったのである。

ちなみに鑁は密教で言う金剛界、阿は胎蔵界を表し、 真言宗の本尊=大日如来の支配する世界観を表現している。鑁阿は高野山から理真阿闍梨を招聘し、自宅敷地に持仏堂を建立してのちに伽藍を本格整備し、足利氏の氏寺とした。これが鑁阿寺である。 その本尊はもちろん大日如来であった。





…が、現在ではこの大日如来は秘仏となっており、一般人は見ることができない。

見れば本堂でお参りの対象になっているのは何と "鏡" なのであった。これだと神道になってしまいそうだが…(^^;)




地元のご年配の方に聞いたところ、どこまで本当かは分かりませんけどねぇ…と前置きしながら、ご本尊が鏡に化けたのは実は廃仏毀釈によるものであるらしいとの説を話してくれた。

廃仏毀釈とは明治維新のときの過激な国学派官僚による仏教排斥運動のことである。仏教寺院の破壊や廃絶、神社への転換などが行われ、戊辰戦争後の混乱が収まった明治5年頃には過激派は追放されてこの運動も終息するのだが、この間に日本の宗教界が被った影響は大きかった。

鑁阿寺と周辺の寺院は、特に足利尊氏が国学派によって "逆賊" とされてしまったために手痛い仕打ちにあったようである(※)。ご本尊を秘仏として目につかないところに退去したり、 前立本尊(=秘仏の代役として仮の本尊を置く)の位置に鏡を置いたり…というのもその対策のうちだったのかもしれないが、まあよく耐え抜いたものだと思う。

※足利尊氏は北朝を立てて南北朝分裂の契機をつくったことから、特に南朝に対する逆臣という評価を受けることとなった。




現在では堀の内側だけが存続している鑁阿寺だが、もとは上図の赤線の領域までがその敷地であった。領域が縮小してしまったのはやはり廃仏毀釈によるもので、当時ここに建っていた寺院施設や僧坊は取り壊されて土地は明治新政府に取り上げられ、のちに民間住宅地として払い下げられてしまった(※)。

※現在 "家富町" と呼ばれている高級住宅街がそっくり鑁阿寺の旧領域に該当している。

こうしてみると、失われた文化財や歴史的建造物がいかに多かったかが実感される。 宗教的な過激派というのは、いつの時代でもロクなことをしないようだなぁ…( ̄▽ ̄;)


<つづく>