2013.01.14 木幡神社の太々神楽とどんど焼き(その1)




矢板市の木幡神社で太々神楽とどんど焼きを見て参りました〜 (´・ω・`)ノ



季節柄、小正月といえば "どんど焼き" だろう…ということで、矢板市の木幡(きばた)神社を訪ねてみた。ここは奈良時代創建と伝わる古社で、毎年小正月の祭りとしてどんど焼き太々神楽の奉納が行われている。この時期、どんど焼きは比較的どこでも行われているけれども、神楽とセットになっているのは珍しく、今まで未訪問だったこともあってこの機会に見ておこうと思ったのである。




念のために説明すると、どんど焼きとは小正月の民俗行事で、元日(大正月)に迎えた歳神様のもてなしが一巡し、ふたたび天に送る日とされている。昔は太陰暦=月を基準とした暦であったから、元日(新月)から月が満ちて満月になる15日までを松の内とし、その最終日の夕刻から夜にかけて正月飾りを焚き上げる神事が行われた。これは身も蓋もない言い方をすれば正月装備のゴミ処理の儀式(^^;)ということになるのだが、神様に捧げた神聖な品であるから一般ゴミとは分けて扱い、"燃やして天に送る" という処理方法が採用されたのである。

日本では明治維新以降は欧米式の太陽暦になってしまったので月の満ち欠けと小正月は連動しなくなってしまっているが、正月行事としてのどんど焼きは連綿と続いている。今回はそんな風景をゆるゆると眺めてみることによう。

※地方によっては旧暦の名残でどんど焼きを2月に行うところもある。ちなみに太陰暦を厳格に運用すると閏月が頻繁に挿入されて中国や韓国のように年によって正月が1か月ほども前後することになる。日本ではこれが丸められて、旧正月版のどんど焼き(左義長/賽の神)は建国記念日に集約される傾向にある。
※暦の上では日付が変わるのは子の刻(深夜23:00〜01:00の頃)とされているが、小正月の行事は日没を区切りとして一月十四日の夕刻から一月十五日の夕刻までに行われることが多かったらしい。




 

■木幡神社への道




さてこの日、伊豆諸島方面で発達した爆弾低気圧(?)によって関東地方は大荒れの天気になっている…と、少なくともTVでは言っていたのだが、栃木県北部では静かに雪が降っているのみでほとんど無風状態だった。




路面はこんな感じで、平地では珍しい割とサラサラ気味の雪である。なお東京では予想積雪量が4cmで大雪警報だそうで、その軟弱ぶりにはツッコミどころが満載なのだがここではいちいち取り上げない(^^;)




さて目的地である木幡神社は、矢板盆地の底にある。盆地の中には河川による浸食で形成された名無しの分離丘陵があり、その山頂が神社になっている。日本の里山の文法を当てはめるとこういう場所には山神様が祀られて然るべきなのだが、ここでは武神が鎮座しているという点に面白味がある。




タネを明かせば、ここは京都の宇治にあった許波多(こばた)神社を坂上田村麻呂が勧請したものといい、この神社の坐する地名が "木幡" なのであり、現在の矢板市の木幡の地名もここから来ている(元は峯村と称したが神社建立の折に改称した)。

坂上田村麻呂は蝦夷討伐に出陣するにあたって、延暦10年(791)京都の許波多神社に戦勝祈願を行い、勝利の暁には東国に神威をひろめ社を建立する旨の祈誓をしたという。同神社は壬申の乱(672)で大海人皇子(後の天武天皇)が戦勝祈願をして勝利したという由緒があり、どうやらそれに肖(あやか)ったものであったらしい。



蝦夷地での戦果がそれなりの黒字決算となって祈誓が果されたのが同14年のことで、矢板の木幡は朝廷軍の宿営地となった縁で神社建立の地となった。時代はちょうど奈良時代から平安時代への移行期で、神社建立は平安遷都(794)の翌年というタイミングであった。旧都=奈良圏ではなくピカピカの新都=平安京圏の神社が勧請されたのは、当時なりのモダンなトレンドの反映だったのかもしれない。

※上記浮世絵はWikipediaのフリー素材から引用(坂上田村麻呂:月岡芳年画)




ちなみにこのときの征夷大将軍は大伴弟麻呂で、坂上田村麻呂はまだその補佐官のひとりという立場であった。田村麻呂はこののち20年以上に亘って何度も蝦夷地と京都を往復して戦功を重ねることになるのだが、長くなるのでその話はまた別の機会に譲ろう。なにしろ、今回のテーマであるどんど焼きや神楽には坂上田村麻呂は(時代的に)ほとんど絡んでこないのである(え? …だったら話を引っ張るな? …いやはや、ごもっともで ^^;)。





■神社の風景をみる




さてそれでは神社に正面から入ってみよう。木幡神社の歴史は特に戦国期に栄枯盛衰の波が激しく、神領が増えたり減ったりした後遺症がいまでも残っている。本来ならもっと先まで伸びていたであろう参道は、現在では150mほどで途切れており、普通なら鳥居があるべき位置にあるのは江戸時代風の冠木門である。…が、余計な詮索をすると長くなるので先に進もう(爆)




奥の鳥居の前には、周辺の民家から出された正月飾りや縁起物、お札などが堆(うずたか)く積み上げられていた。鳥小屋を建てないのはこの地域のどんど焼きとしては珍しく、これはイベント性よりも焼却の実利を優先しているものらしい。

…というのも、ここのどんど焼きはえらく長いのである。塩谷郡の惣社という担当地域の広さもあるのかもしれないが、次々と正月飾りが持ち込まれて、まるまる6〜7時間以上も焼却が続いていく。だから点火は日が暮れるのを待たず、正午頃からはじめてしまうらしい。




さて時計をみるとまだ11:30…点火にはしばらく時間がありそうなので、先に拝殿のほうに上がってみることにした。




これが、拝殿である。茅の輪は年末の大祓のものとは別に新調したものらしい。「招福除難」 と書いてある通り、茅の輪は厄除けのお呪(まじな)いを兼ねている。




正面からだと構造がわかりにくいのでアングルを変えてみよう。木幡神社では拝殿と神楽殿はハイブリッド構造になっている。普段は壁板を閉じておき神楽奉納のときだけ跳ね上げるもので、この構造のために神楽殿内部は綺麗な畳敷きのまま維持されている。




気温は3℃…寒空の下、参拝者が火に当たっていた。神社の人曰く 「いつもならもっと人が来るんですけどねぇ」 ということだが、まあこればかりは自然現象なので筆者も笑うしかないw




さて神楽殿の内部はこんな感じである。額には塩谷惣社大明神とあり、これは祭神である
正哉吾勝々速日天押穂耳々命のことを指すらしい。読み仮名を振らないと 「なんだその暴走族の当て字みたいな名前の神様は?」 とツッコミが来そうだが(^^;)、元は万葉仮名で "音に当て字をした" ものなので実は暴走族のDQN感覚と奈良時代の神名表記の感覚は非常に近いのである(笑)

この神名の読み方は 「まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと」 といい、天孫降臨で有名な天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(あめのにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)つまりニニギ神の父神に当たる。神名にみえる正哉吾勝とは 「我は正しい、我は勝つ」 、勝速日は 「日が昇るような勢いで勝つ」 という意味で、 坂上田村麻呂が戦勝祈願したのも頷けるような縁起のよさそうな神様なのである。




神楽殿の側面には、伊勢太々神楽の扁額があった。さきの祭神:正哉(中略)命と、おそらくは臨時滞在中の筈の歳神様に向けて奉納されている神楽である。

ここに伊勢系の太々神楽が奉納されるようになったのは、古文書(永代太々御神楽之事)によれば宝暦六年(1756)のことであるらしい。ちなみにその前年=宝暦五年は江戸時代に何度か発生したお伊勢参りのブームの年にあたっており、状況からみるとどうやらこれに触発されて神楽の奉納が始まったような雰囲気がある。…案外ミーハーな起源なのかも…と思うと、ちょっとばかり楽しい気分になれそうだw




ところで伊勢系の神楽には 「太神楽」 と「太々神楽」 があり、たった一文字違いだが中身はまるで異なっている。簡単にいうと太神楽は庶民受けする大道芸(傘回しや獅子舞など)で、もう一方の太々神楽は非常に長丁場の神前奉納劇と思えばよい。木幡神社で行われているのは後者である。

長丁場というと素人としては上演時間が気になるところだが、ここでは餅撒きなどのイベントを挟みながらなんと8時間以上も続いていくという。本場の伊勢では一晩中やっているのだそうで、これは相当に気合の要る奉納劇だ。伝承する側もなかなかに大変に違いないが、見ている神様も相当に大変であるに違いない(^^;)


<つづく>