2013.01.27 奥塩原:新湯温泉(その1)




塩原温泉郷で最も標高の高い新湯温泉に行って参りました〜 (´・ω・`)ノ



せっかく雪の季節になったのだから、寒いところで温泉にでも…と、新湯(あらゆ)温泉に向かってみた。ここは塩原温泉郷の中でも最も標高の高いところ(940m)にある温泉街で、日塩もみじライン(※)を登っていくとその途中にある。今回はあまり大仰なテーマではなく、紅葉の頃に入り損ねた "寺の湯" を訪ねてみようか…というゆるゆるレポートである。

※順番からいえば元々あった温泉街に至る山道を拡張して観光道路にしたのがもみじラインということになるのだが、ここでは細かいことにはこだわらない(^^;)




さて普段なら山に行く場合は早朝移動が鉄則なのだがこの日は気分もゆるゆる(笑)なので日も高くなった9:30過ぎにマターリと出発した。これは高林付近から眺める鴫内山。背後に雪雲を抱えていたりするけれども、比較的晴天に恵まれているようだ。



 

■新湯への道




そんな訳でいつもの如く関谷からR400を登っていく。多少の積雪があるおかげでノーマルタイヤの車はあまり登ってきていない。冬装備の四駆にとっては、今日のような日は混雑に巻き込まれないで定番スポットにアクセスできる吉日みたいなものかもしれないな。




もみじラインに入ると、鹿の群れが道路をひょいひょいと横切っていくのに遭遇した。4〜5頭ばかりの小さな群れで、いずれも角がないところをみるとメスであるらしい。あっという間に森の奥に消えてしまったので残念ながら絵になるショットは撮れなかった(^^;)




…やがて、深い森の奥に忽然と温泉街が見えてくる。ここが新湯温泉である。写真では分かりにくいかもしれないがちょうど雪雲にかかって粉雪が舞っていた。下界からみると晴れているように見えたんだけどな…(笑) まあ、山の天候と言うのはそういうものだと思うようにしよう。




さて新湯温泉は高原山の寄生火山である富士山の爆裂火口(山頂ではなく中腹にある)に隣接する温泉である。日塩もみじラインの塩原寄りにあり、ここまでは地元住民の生活圏なので無料で登って来られる。付近に平地はほとんどなく、温泉街は急斜面に階段状に密集している。標高はもみじラインの路面で940m、源泉のある火口部がちょうど1000m前後である。

ここに温泉街が本格的に発展したのは、江戸時代の日光地震で壊滅した元湯からの移住組が移ってからと言われている。…が、温泉宿の方に聞いてみると、温泉そのものは平安時代後期の康和二年(1100)頃には発見されていたといい、八郎ヶ原に塩原八郎家忠が居を構えた頃には既に小さいながらも集落が営まれていたらしい。




「昔は居村(いむら)と言いましてね、人が定住していたのでそう呼ばれたのです」 …と、雪かきをしていた旅館の主人氏が説明してくれた。塩原の山中にはいくつも源泉が自然湧出して山仕事の人々が利用していたそうなのだが、湯が沸くからといって即、そこに集落が成立した訳ではなく多くは無人の立ち寄り湯であったという。

ここは塩原を支配した古い豪族、塩原八郎の拠点にほど近く、その配下の郎党の一部が住居を構えたことで村が成立したらしい。配下の郎党といっても山間のことであり、その人数は全部まとめても100名にも満たず、その生活実態は杣人(そまびと)と大して変わらなかった。やがて彼らが切り開いた最初の耕地=八郎ヶ原が、塩原の歴史の最初の舞台となっていくのだが…その話はまた別の機会に譲ろう。




余談めいた話になるが、かつての塩原の中心地は現在では僻地感MAXとなっている元湯温泉にあった。平安初期から江戸時代初期までのおよそ800年の間、塩原温泉と言えばこの元湯のことで、その谷筋には元湯千軒と呼ばれるほどの賑やかな温泉街が広がっていた。そこが江戸時代(天和三年=1683)に日光地震で壊滅し、周辺の源泉へと人々が移動していった後の姿が、現在我々の見ている塩原温泉郷ということになる。

新湯温泉には最後まで元湯の復興に尽力して二度目の地震で完膚なきまでに叩き潰された九軒の旅館が、塩原の中では最後発の "再出発組" として居を移した。"新湯" という名には、再出発を決めた当時の人々の心意気のようなものが幾分か含まれているように思える。

※大多数の人々が移住した箒川下流域ではなく、敢えて峻険なここを選んだのは、できるだけ元湯に近いところで再建を果たし、その面影を残したいという意図があったらしい。



 

■寺の湯




さて温泉街には共同浴場がいくつかあるのだが、源泉=爆裂火口の真正面にある一番立地の良さそうなのがこの寺の湯である。




もともとここには円谷寺という仏寺があり、その寺の風呂場として使われていたのがこの浴場であった。円谷寺はかつて元湯の温泉街を檀家としていた寺で、日光地震で土砂に埋もれてしまったご本尊をこの新湯に移住した村人が掘り出して、新たにここに寺を移したと言われている。




寺があるからには墓地もある。寺の湯の共同浴場から少し下った渓雲閣(旅館)の手前の斜面に墓石が並んでおり、 江戸時代にこの寺を拠点に地元民の医療に尽くしたとされる禅僧、如活(じょかつ)の供養塔が残されている。この人物は臨済宗の医僧で、会津の人であったらしい。

如活の属した臨済宗(禅宗)は仏教の中でも儒学と共通した教学書(テキスト)を多くもち、宗教者でありながらエンジニアリングに明るい僧が多かった(その点、呪術に特化した密教僧とは方向性がかなり異なっていた)。如活は医学に特に才覚を示し、付近の山村を巡っては住民に医療処方を提供し、同時に念仏を奨めてまわった。塩原周辺に多く残る念仏供養塔の多くは彼の活動の足跡と言われている。

※如活は自分の寺を持たずに放浪を続けた仏僧で、円谷寺の住職は門弟となった地元出身の君島三左衛門、君島善兵衛がそれぞれ的斎、徳眼の僧名を得て務めたらしい。如活は寺持ちでこそなかったが円谷寺にはよく訪れて念仏を講じたようである。

※ちなみに塩原温泉で最もにぎわいのある中心市街地=門前にある妙雲寺も臨済宗である。幽玄なる山間地にありながら塩原温泉郷が山岳行者の溜まり場にならなかったのは、密教寺院ではなく禅宗寺院のテリトリーであったことが大きい。




しかし時代が下って幕末の戊辰戦争の折、塩原は幕府軍と新政府軍の激突する戦場となり、かつて如活が拠点とした円谷寺は同じ会津人の手によって火を掛けられ、焼失してしまった。

…以来、寺が再建されることはなく、風呂の跡だけが共同浴場として存続したのである。それが、この寺の湯なのだ。




…さて前振りが長くなりすぎたが、さっそく入ってみよう。ここは混浴なので撮影でに入るのにはちょっと勇気が要るのだが、本日は先客もなく安心してカメラを持ち込める(笑) ちなみに入浴料は宿泊客は無料、立ち寄り客は\300となっており入り口の料金箱に収めるようになっている。

浴槽は 「適温」 と 「激熱」 の2つがあり、熱い方(写真左奥)は50℃近くある。成分表をみるとアルミニウムと硫酸イオンが多いので主成分は明礬(みょうばん)と思ってよさそうだ。種別でいえば硫黄泉の一種で、pHは2.3とかなり強めの酸性である。こういう泉質の温泉は殺菌作用が強く皮膚病に効果があるといわれる。




ただし更衣室のドアは御覧のように凍り付いていて、感覚的には冷凍庫の中にいるのと変わらない。脱衣後はすみやかに湯船に入らないと大事なところが寒さで縮んでしまいそうだw



採光口を兼ねた窓は常時オープンで、樹脂製の波板が張ってはあるものの、その気になれば丸見えの状態にある。…まあ田舎の温泉というのは得てしてそういうものなので、細かいことは気にしてはいけない。




そんな訳で湯船に浸かってマターリ…ヽ(´ー`)ノ 



 

■お湯とか、湯治とか、坊さんとかの話




さてここで、お湯の話などをいくらか書いてみたい。ここは温泉の成分が非常に濃く、成分表によれば1リットルで陰/陽イオン合わせて1717mg、ケイ酸などの非乖離成分を含めた蒸発残留物が2044mgとなっている。これは一般的な家庭用ユニットバス(200L)に換算すると単純計算で409gの温泉成分が溶けているということだ。




参考までに砂糖の1kgパックの粉末分量がこの↑くらいである。409gというと、この半分弱くらいに相当する。一般的な家庭用入浴剤として販売されている 「名湯〇〇温泉の素」 などの粉末入浴剤が1回分20〜30gであることを思えば、かなり濃い部類の温泉であることが分かる。




寺の湯は系統からいえば草津と共通点の多い温泉で、強酸性の熱い湯は殺菌性にすぐれ、細菌性の皮膚病に効果があるとされる。殺菌性があるということは切傷などの化膿防止にも効果が見込まれ、消毒剤の普及していなかった時代には怪我の回復を助けるような使い方もあったことだろう。

さきに紹介した仏僧、如活禅師の施した医療の中にもおそらく常識的に "温泉療法" はあったと思われる。彼の活動域は会津から塩原〜那須周辺を中心に北関東一帯に広範囲に及んでおり、もしかすると行く先々でここのの泉質や効能をいくらかプロモーションしてくれたかもしれない。




…が、如活の新湯での活動の詳細は実はよく分からないのである。その記録の多くは、戊辰戦争で寺とともに灰になってしまった。南会津ではいくらか記録があり、墓所も残っているのだが、あちらでも塩原に関しては昨年になってようやく妙雲寺境内に供養塔があるのが 「発見」 されたとニュースになっているくらいだから、あまり多くを期待するのはアレな気がする(^^;) でも機会があれば調べてみたいところではあるなw




円谷寺は末期には浄土宗の住職が入っていたようで、如活の残した臨済宗の香りはどうなったんだと言う気がしないでもない。…が、山間部の小集落で貧乏(?)寺院の住職を引き受けるような気前の良い人がそうそういるとも考えにくく、これはこれで仕方のないところかもしれない。

※浄土宗も念仏を優先している宗派なので如活の残した念仏講がそれに引き継がれていると考えることもできる。…もっとも、座禅で厳しく自らを律する臨済宗と異なり、浄土宗はかなり間口の広いゆるゆるな宗派なので "安直な方向に流れた" ともいえなくもない(笑)




ところで、のちに戊辰戦争で寺が焼けて風呂だけが残された…という奇妙な結末は、会津軍による焦土戦で村もまるごと焼かれた(→慶応四年=明治元年八月二十二日)ので寺の復興まで手が回らなかった…というのが、まあ平凡だがいかにもありそうなところのように思える。




この年は閏年で四月が2回あり、秋の暦は前のめり気味に推移している。村が焼かれたのは今の暦では十月の初旬頃で、もう雪の季節を目前に控え住民たちは寺の復興などよりまず風雪をしのぐ住居を建てる必要があったことだろう。

これは筆者の推測にすぎないが、このとき同じように火を掛けられた円谷寺は浴槽に温泉の湯が満たされていてここだけは燃え残り、復興作業中に共同浴場として使うのに都合が良かったのではないだろうか。




そしてようやく村の復興が一段落した頃には、明治新政府による廃仏毀釈の嵐が吹き荒れていて、寺は復興されることなくそのまま廃寺となってしまった、その後は共同浴場だけが使われ続けた…と考えれば、現在の寺の湯のありようが矛盾なく説明できそうな気がする。

※この説はまだちゃんとウラが取れた訳ではないのでまだ推論です(^^;)




…さてそんなゆったりとした時を過ごしていると、誰かが脱衣所に入ってきたらしい。やがて引き戸が開いて



…と、一糸纏わぬたおやかな女性が入ってきた。

若くはないが年増でもない程度の方で、「お湯加減は如何ですの?」 などと言うところをみると育ちはそこそこ良いらしい。筆者は 「よろしゅうございますなぁ」 などと適当な受け答えをしつつ、さすがに一眼レフを片手に女性と一つ湯船というのもアレなのでそろそろ上がることにした。

…うーむ、それにしても至福の時間がこんな形で終焉を迎えるとは(爆)

※混浴で強いのはどうも女性の方らしく、大抵は男性側が危険回避のために逃げていく…いや、いいんだけどね(^^;)

<つづく>