2013.03.24 鉄と日本刀を訪ねる:関編:前篇(その3)




■ 再び関鍛冶伝承館へ




さて春日神社で往古を偲んでいる間に開館時間となった。そろそろ関鍛冶伝承館に入ってみよう。




この施設は元は日本刀鍛錬塾と称する刀匠の養成所だったところで、戦前は旧日本軍の軍刀を打っていた。昭和59年にその跡地に産業振興センターが建ち、平成14年に現在の形でリニューアルオープンしている。

建物の一階が主に伝統的な日本刀に関する展示で、二階がナイフや剃刀、鋏などの刃物一般に関する展示+イベントスペースになっている。この日は企画展のおかげで二階にも日本刀の展示スペースが広がっていた。




さて入館してみると、おおリアルな人形で古式鍛錬の様子が再現されている。こういうヴィジュアルがあると鍛冶の仕事というのがイメージしやすいな。




関は五ヶ伝の中では最後発で人の移動の記録は比較的詳細に残っている。展示では有名どころの刀匠がどのように流れて来たのが(或いは出て行ったのか)の解説が出ていた。ちなみに上図では大和系の筈の金重が越前から来たことになっているが、彼は鍛冶選任になる以前は越前の清泉寺という寺の僧だったことからこのような書き方になっているらしい。




こちらは関鍛冶の系図である。ここでは関鍛冶の始まりとして元重、金重、兼永が並立して書かれている。元重の出自が九州と記されていて関市公式サイトの伯耆国檜原と異なっているのは、元重については資料が少なく文献によって表記に揺らぎがあるもので、この資料は九州説で書かれている…くらいに受け取っておこう。

ちなみにこの図では兼永の子孫が長く残ったように読めるけれども、職人の系図は血統と一致しない(※)ことも多いので少々注意が必要である。なお関鍛冶はその草創期に春日神社の氏子として結束を固めて鍛冶座を結成し、藤原氏の始祖=中臣(藤原)鎌足の鎌の字から金(かねへん)を取っての字を職人名に使ったので皆似たような号になっている。つまり 「兼を含む職人名=関鍛冶組合の正規構成員」 ということで、備前や鎌倉、京にくらべて結束力は高かったらしい。

※日本の職人家系では血統はあまり重視されない。実子よりも技量が優れた弟子がいれば養子に迎えて家督を譲ってしまうことが珍しくなかった。




余談ながら全盛期の関鍛冶集落は現在の鍛治町のエリアに留まらずもっと広範囲に分散していたらしい。展示パネルでは重竹遺跡(鍛冶屋敷跡)が取り上げられていたが、これは東海北陸自動車道の美濃関JCTの付近にあり、現在の関市鍛治町からは4kmほど離れている。関鍛冶にはメジャーな流派が7つ(関七流)ほどあって、それぞれがコロニーのような集落を作って適度な縄張りをもちながら分立していたようである。



 

 ■ 関刀のカタチ




さて気が付けばここまで刀のヴィジュアルが全然ない(^^;) …ということで、このあたりで関刀ってどんなもの…という写真をいくらか紹介してみよう。

これは一番立派そうなケースに入って展示されていた刀である。南北朝時代の古刀で銘は "古銘金重" と打ってあり、関鍛冶草創期の金重の系列のようだ。…といっても金重を名乗った刀工は代々5人おり、そのうちの誰なのかは良く分からない。
 



近くで見ると、地金の文様が美しい。

古刀期(慶長年間以前)の日本刀はだいたいこんな感じで、微量の不純物が適度に分散して折り返し鍛錬で積層し、こうして文様として浮かびすい。古刀の特徴は地金が青みを帯びた黒っぽいテイストになることで、現代刀はなかなかこういう仕上がりにはならない。

このクネクネとした地金文様は十文字鍛えをすると現れるという。同じ方向にひたすら折り返す一文字鍛えだと模様が一方向にそろって柾目調になるのだそうだ。




こちらは天正年間の作で銘は兼長とある。天正といえば信長の現役だった時代だ。量産刀の盛んに作られた頃で、この時代の作品は骨董品としての希少価値はないとされ、作者もまとめて兼某(かねぼう)などと呼ばれたりする(…ヒドい扱いだなぁ)。

しかし筆者には南北朝の頃の刀と比べて出来の良しあしの差がよく分からなかった。地金にそれほど差があるようには見えないのだが…まあ兼長は関七流のうち三阿弥流の名のある名工なので、量産刀と一緒にしてはいけないのだろうな。




さてこちらは現代刀である。色味が違うのは照明色によるもので気にしないで頂きたいのだが、現代刀は古刀のような青黒っぽさはなく全体が白っぽく仕上がる傾向にあるらしい。

地金の文様はかなり詰んでキメ細かく、綺麗になっている。人によっては 「綺麗になりすぎ」 と評することもあるそうで、固くてスパスパよく切れるのだけれど耐久性がどうこう…という論者が一定数いたりする。筆者は見るだけの人なので実際の性能については何とも言えない。・・・まあ、多少切れ味に差があたっところで殺傷力という点では十分に危険水準にあると思うのだが(^^;)




これもおなじく現代刀。こちらは樋(ひ=峰側の溝)が2本穿(うが)ってある。樋は軽量化の手段であると言われるが、後には装飾的な意味合いが強くなった。狩猟用の剣鉈(けんなた)では "血抜き" のための溝と言われたりもする。




こちらはおなじく現代刀で、これは大切先の一本である。ちなみに切っ先が大きい刀は相州伝に多い。元寇との実戦経験から鎌倉中期〜南北朝のころに流行したといい、先端が折れたり欠けたりしたら現場で荒研ぎして応急措置することを意図していたらしい。

※これには逆の発想もあって、太く厚い刀身の先端に短い切っ先をつけて機械的強度を上げた猪首切っ先というのもあった。ただこちらは割と早期に廃れているので、総合的には大切っ先のほうが実用性があったようである。




これは古い形の小切っ先である。平安時代〜鎌倉初期の日本刀はやや細めで小振りな切っ先が多い。馬上で片手で振れるように薄型軽量であったといわれ、戦闘形態が足軽型になって両手剣として振り回されるようになると厚く太く豪壮になっていく。源平合戦の頃の刀はおおよそこのタイプが多い。




趣向を少し変えて、これは鵜(う)の首造り…でいいのかな。大和系の鍛冶に多いと言われる意匠で、樋の溝を掘るかわりに峰側の肉をなめらかな曲線で落として軽量化を図っている。薙刀の刃先などにこのタイプの作りが多い気がする。

…それにしても、こうしてみると一口に日本刀といってもその在り様は非常にバラエティに富んでいたことが伺える。素人である筆者にはこれらの工夫のうち何が本当に役に立ったのかは良く分からないけれども、意匠ひとつにしても創意工夫はいろいろあって、時代、産地、刀匠の個性によっていろいろな解があったわけだ。




美濃伝は戦国末期には比較的根元と切っ先の身幅差が少なく均一な刀身に集約した。反りが浅目で切っ先は伸び気味。これは実戦を経て落ち着いていった当時なりの最適解らしい。

…ということは、江戸物の時代劇で役者が振り回している刀の形は、時系列的にその究極形態というか完成形ということになるのだろう。そういう視点で見ると、小道具係氏の仕事ぶりを少々マニアックに面白く眺めることができそうな気がする(^^;) …いやそれは余計なことか(笑)



 

■ いまいちど、鉄についての余話を少々




さて展示作品の中には、地元の長良川の砂鉄で作刀を試みたものもあった。長良川の砂鉄は不純物を多く含む上に粒子が細かく、伝統的な比重選鋼(鉄穴流し)では砂礫から分離することができなかった。史実としても長良川水系で産業として砂鉄が採集された記録はなく、これは現代の強力な磁石によって採取されたものである。




では関鍛冶はどんな鉄で刀を打っていたのかというと、戦前に陸軍向けに靖国刀を打っていた渡辺兼永という刀匠が、関鍛冶は千種鋼(千草鋼)を多く使っていたと書き残している。




千種鋼とは兵庫県西部の砂鉄地帯で取れる鋼で、本稿の出雲編で紹介した金屋子神社の由緒において、最初に神が降り立って製鉄技術を伝えたという岩野辺(岩鍋)がまさにその場所である。かつては千種村(ちぐさむら)という村であったが、現在では市町村合併によって宍粟市(しそうし)となっている。

伝説では金屋子神はここにしばらく留まったのち、出雲の比田に去ったことになっている。ここは出雲一帯にひろがる真砂砂鉄地帯の東側の末端にあたり、刃物用に適した鋼を産し、明治時代までたたら製鉄が続いていた。




ところでよく言われる玉鋼(たまはがね)という名称は明治になってからの呼称である。出雲の鋼のブランド名は正式には出羽鋼(いずははがね)といい、千種の鋼は千種鋼(ちくさはがね)といった。 江戸時代の刀剣の材料はこの2大ブランドが中心となっている。ただ製鉄のシェアとしてはいち早く設備の大型化、効率化に成功した出雲が圧倒的で、時代をさかのぼっても出雲の製鉄の物量的優位は揺らぎそうにない。

ただ量産性に優れた出雲の鉄は、刀剣に限っては千種鋼の品質に敵わなかったという。出雲はどんどん蹈鞴炉の規模を大型化して、天秤鞴で強力な送風を行いながら火力を上げて生産性を上げていったが、ヒ押法としては温度が高くなりすぎ、品質のばらつきも大きかったという。

それに対して千種鋼は炉の規模が小さく、ヒの大きさは出雲の半分くらいしかなかった。しかしより低温側で砂鉄を還元していたためか、刀剣用の材料としては出雲より評価が高かった。刀鍛冶にとっては千種鋼のほうが振る舞いが素直で扱いやすかったというのである。




そのあたりの事情について調べてみたくなり、千種の郷土史家の方の著書を紐解いてみると、やはり設備の大型化と品質低下に相関がありそうなことが述べられていた。ヒ押し法の発明は千種(千草)の方が早く、出雲が大型設備で急伸して追い抜かれた経緯などが書いてある。

その千種もやがて価格競争に巻き込まれて設備の大型化に走り、天明年間のあたりから以前のような良質な鋼が出来なくなった。天明年間というと時期的には新々刀が現れる頃で、しかしそれでも千種鋼の名声は残り、関鍛冶の間では優良ブランドとして認識されていた。さきの渡辺兼永刀匠の話はそれを裏付けているように思える。

※刀匠ばかりではなく国友などの鉄砲鍛冶も鉄の品質は千種が優れると書き残している。




…ところでそんなに良質な鋼であったのなら、何故いま日本刀の材料としては千種鋼が使われず、出雲の "日刀保たたら" が玉鋼を供給しているのか?

それは千種の製鉄業が廃刀令から間もない明治18年頃にはもう廃業しており、戦後の日本刀復活が試みられたときには技術を受け継ぐ者が誰もいなかったからなのである。たたら復活の可能性を探るため何度か人間国宝の刀匠を含む調査団が来たものの、あまりの荒廃ぶりに諦めて去って行ったという。

一方、出雲では大正末期まで商業操業が続いており、戦時中は靖国たたらとして一時的な生産再開もあった。そのような経緯もあって、GHQが去って政治的に日本刀の作刀環境が復活したとき、かろうじて数名の村下が存命していたのである。彼らの残したノウハウ以外、現在の日本に伝わる体系的な玉鋼の製法は無い。良いとか悪いとか論評する以前の問題として、比較対象となる別解は失われた状態にある。

今回は "関編" なので他地域の話に脱線するのはこのあたり迄にしておくけれども、鉄と日本刀に関してはそんな背景もあることは知っておきたい。


<後編につづく>