2013.04.28 木綿畑の獅子舞(その1)




木綿畑の獅子舞を見て参りました (´・ω・`)ノ



さて今回は、前回省略してしまった木綿畑(きわたはた)の獅子舞について書いてみたい。極めて地元ローカルなお祭りで、遠方からはるばる観光客が押し寄せてくるようなショーアップされたものではないけれども、郷土色の残る素朴な民俗行事として伝承されているものだ。

木綿畑は荒地として知られる那須野ヶ原の西北端に位置し、 もともとは水利の得られない土地であったものが、江戸時代中期の明和年間に開かれた木ノ俣用水の延長にともなってぼちぼち耕地が拓かれたところである。この用水は規模も小さく、枯れては改修し…を繰り返して結局下流域に安定した給水はできなかったのだが、木綿畑と隣接する高林あたりまではなんとか潤すことができた。そんな集落に、神社が祀られ、獅子舞が奉納されていたのが今に伝わっているのである。その起源は定かではないが文献上では文化二年(1805)には既に奉納が行われていたことが分かっており、200年以上の伝統がある。




獅子舞が奉納されるのは、現在では野菜の直売所になっている 「JAなすの」 の駐車場脇にある雷(らい)神社である。いわゆる雷神様を祀った神社で、獅子舞同様に起源がどこまで遡るのかは不明だが古文書では天明5年(1785)に社殿の修復をした記録があり、少なくとも江戸中期よりは幾分古いように思える。

余談になるが r30 を境界として、木綿畑、鴫内、百村といった西側(=山寄り)の村々は江戸時代には天領で、東側の高林は大田原藩領であった。そのためほとんど連続して一体化した集落でありながら祭りは別で、そっくり同じような内容の獅子舞が高林にもある。開催時期は木綿畑より一週間早く(今年は4/21)、こちらは高林の鎮守である高林神社に奉納されている。こういうところを見ると、小さな祭りではあってもその成立過程や開催時期にそれぞれ地域の歴史を背負っていてなかなかに興味深い。




さてまだ時間があるだろう…と思ってのんびり走っていたら、やや、もう氏子さん達一同がお囃子を鳴らしながら練り歩いているではないか(^^;) …こりゃあ、急がねばw




そんな訳で滑り込むように神社脇の野菜の直売所にクルマを停める。ここは領土的には木綿畑なのに高林産直会の支配下にある租借地みたいなところだが、まあ地元ではよろしくやっているお買いものエリアである(^^;) ちなみに蕎麦が結構イケている。




クルマを降りたところで、うまいこと祭りの行列がやってきた。とりあえず舞には間に合ったようで一安心である(^^;) …さっそくカメラを抱えて氏子衆を撮ってみよう。

先頭の刀を差した二名が "奴(やっこ)" という役割で先導役、続いて踊りの主役となる獅子が三匹、さらに花傘とお囃子勢が居並んで練り歩いてくる。総勢で30名くらいはいるだろうか…




花笠には天下泰平、五穀成就とある。




さらには "帝国万歳" (^^;) …戦後に進駐軍が消し去ろうとした古い日本の民俗的エッセンスが、こんなところにチラリズム的に残っているんだな。



 

■雷神社へ





さて一行はいよいよ神社の境内に入ってきた。ここでいったんお囃子は中段となり、一時休憩となる。その間に地区の世話役や幹事などの代表が社殿に上がり、神事を行うのである。




写真紀行などをやっているとどうしても派手なパフォーマンス(今回なら獅子舞)を撮りたくなるものなのだけれど、奉納舞というのはいわゆるお供え物の一種であって、祭りの本体は神様の前で祝詞を読み上げ五穀豊穣などの祈願を行う部分にあたる。ここではまず、それが粛々と進んでいく。




この神社で特徴的なのは獅子頭が本殿の上に置かれていることだろうか。ふつうは前に並べることが多いような気がするのだが、木綿畑ではこの作法で神事が進行する。意図としては獅子頭を憑代にして神様に降りていただく…という理解でよいのかな。




続いて氏子代表による玉串の奉納。これが人数分、時間をかけて丁寧に行われていく。村の鎮守様であるから神様の受け持つテリトリーも狭いものだけれど、祀る側、祀られる側の関係が明確で、きっちりと自己完結しているのが特徴的である。




一通り神事が済むと、獅子頭は神殿から降ろされる。




そしてふたたび装束と合わせて、ここから舞の奉納に移っていく。



 

■ 口上




さて舞は神様にご覧いただくものなので、観客のことはあまり考えずに進行していく。見れば見物人もあまり作法など意識していないような感じがするけれども(笑)、みなご近所の人たちで結構なぁなぁ的な雰囲気が漂っている。…まあここは細かいことは突っ込まないで、ゆるゆると拝見させていただくことにしよう。

舞は、なんとなく始まって、なんとなく終わる(笑 ^^;)。なんとなく…というのは、神前に進み出るところからもう踊りが始まっているからで、ゆるり、ゆるり…と神社の拝殿前に進み出ていくのである。「さー今から始まりますよ」 的な合図は…うーん、あったのかもしれないが、筆者には感知できない程度のささやかなものだったようなw




やがて、定位置に付くと先導役の奴(やっこ)の舞が始まって、奉納の始まりを示す口上延べがある。



口上延べとは、獅子舞の奉納に先だって神様のご機嫌伺いをするものらしく、ここ木綿畑でのバリエーションは3種類ほどあるらしい。保存会の方から頂いた資料によると本日の口上は神様のお宮を褒め称えるもので、その内容は以下のようなものだった。

さても見事なお宮かな
四方のすまを眺むれば
龍や象の彫り物で

御拝の柱を見上ぐれば
上り龍に下り龍
金銀垂木に
屋根は八方八棟造り

水戸錠などは
金紗と銀紗のその糸で
日の出の松に菊の紋
さほど利生な御神様に
感ぜぬ者こそなかりけり

今上皇帝
御宝祚萬々世
郷中安全
五穀成就と

ほほ敬って申す

…なるほど、簡略化はされているがこれは神道の祝詞の形式だ(´・ω・`)。前半2/3ほどが神様のお宮の立派さを褒め称える部分で、こんなお宮にお鎮まっておられる神様なのだからさぞや霊験あらたかなのだろう、とヨイショしている。それに続くのが舞の奉納に先だって神様にお願い(奏上)している部分で、現在の天皇の御代が末永く続きますように、村内が安らかでありますように、そして実りが豊かでありますように…と述べている。

なお日本の伝統が嫌いな左翼の人などがこれを聞くと "今上皇帝" のくだりで脳内に軍靴の音がエンドレス再生してしまうかもしれないが(^^;)、それだとちょっと無教養に過ぎるので少しばかり解説しておきたい。今上皇帝宝祚萬々世とか今上皇帝宝祚延長というのは古文書に出てくる神社の由緒書きや祝詞でよく使われる表現で、奈良平安の頃から使われているテンプレートである。 "皇帝" という表現は続日本記などの六国史(※)では天皇の意味でしばしば使われていて、鎌倉時代以降はこの呼び方はあまり使われなくなったようだが、今上皇帝 御宝祚萬々世 郷中安全 五穀成就のくだりは定型句のようにコピペされて其の後も神事等で使われつづけた。その一端がこの小さな祭りの口上のなかに息づいている訳で、これはまさに日本の文化そのものなのである。

※六国史:日本の最も古い時代の歴史書六編を総称して六国史と呼んでいる。六編とは日本書紀/続日本紀/日本後紀/続日本後紀/日本文徳天皇実録/日本三代実録のことで、いずれも律令が機能していた時代の朝廷からみた正史にあたる。




さて口上延べの後は、奴(やっこ)は引っ込んで、獅子が前面に出た。まずは荒くれた獅子の群れが地面を蹴るような所作から舞が始まっていく。




そしてサポート役(?)なのか火吹男(ひょっとこ)と…




御亀(おかめ)が登場して、伴奏にあたるささらを鳴らしはじめた。

…ここからが、獅子舞の本番らしい。


<つづく>