2014.07.26 塩原化石探訪:後編(その1)




前回のつづきです〜 (´・ω・`)ノ

 

■ 塩原化石湖について




さて前回は1000万〜2000万年前の海底の貝化石を中心に眺めた訳だが、今回はぐぐっと時代を新しくして、約30万年前の淡水湖の跡地=木の葉化石園を目指してみたい。

この湖は地質学界では "塩原化石湖" と呼ばれている。今から30万年ほど昔に塩原盆地に存在した長さ6kmあまりの湖で、現在はすっかり干上がって跡地には塩原温泉街が広がっている。




現在の温泉街とその主たる熱源となっている高原山塊の位置関係はざっとこんな(↑)状況である。かつては現在の山体とは異なる古高原山(塩原火山)とでもいう山塊がここにあり、40〜50万年前頃に巨大噴火を起こして現在の大田原付近にまで火砕流を及ぼしたという。




その後、山体はいったん陥没してカルデラを形成したと想像されている(上図はなんだかメテオの直撃を受けたみたいな絵になってしまったが…まあ気にしない:笑)。ただし地下にマグマの供給は続いたため、やがてふたたび噴火が始まり、ここに再度現在の高原山に相当する山塊が形成されたらしい。

※ちなみに高原山本体は溶岩と火山礫の塊なので化石は産しない。化石が見つかるのは周縁部の堆積岩の露頭部である。




そして現在の高原山の山体が形成された頃、その北麗部、今の温泉街の付近に湖が形成された。この湖がいわゆる塩原化石湖である。もしかすると巨大カルデラの時代に既にプロトタイプとなる湖が形成されていたのかもしれないが、今回筆者はそこまでは調べていない。

湖の水をせき止めていた "天然ダム" の位置は、現在の塩釜温泉付近と推定されている。噴火による噴出物とカルデラ外輪部の断崖によって水が堰き止められていたらしく、この天然ダムは長い年月をかけてゆっくりと水流によって浸食されて、湖もそれに従って水位が下がりやがて消滅していった。いつごろまで湖の体裁を保っていたかは、よくわかっていない。




■ 化石湖の尻尾(しっぽ)を眺めてみる




さてそんなわけで、まずは塩原化石湖の尻尾=かつての天然ダムの痕跡を眺めてみよう。

筆者はダム壁の骨格は現在の塩原温泉ビジターセンターのある尾根部分の岩盤だろうと考えている。対岸にある天狗岩は、その片割れが断崖として残ったもののように思える。

その痕跡を眺めるには、塩原温泉郷を構成する11の温泉のうちのひとつ、塩釜温泉街のはずれにある三島通庸顕彰碑をランドマークとして尋ねるとちょうどよい。




これがその碑である。明治の開拓期にここに街道を通した栃木県令:三島通庸の功績を称えているものだが、今回はそちらの話は関係ないので単なる駐車場として使わせて頂いている(ぉぃ ^^;)




この碑の向かい側に、崖っぷちに建つ小さなレストランがある。ナニゲにデザートのコーヒーゼリーが美味な店なのだがひとまずそれは置いておいて(笑)、この直下にかつての天然ダムの成れの果てと思われる岩盤がみえる。




この白っぽい岩塊がそれである。一見すると 「これが何よ?」 とツッコミを受けてしまいそうだが、よく見るとこれは "岩が転がっている" のではなく、巨大な岩盤が水流で削られた一体ものの彫刻みたいな構造になっていることに気付く。…つまりここは、かつては巨大な岩塊による一枚壁だったのだ。




地質的にはこの付近は鹿股沢層と呼ばれ、数千万年前に海底でつくられた堆積岩(砂岩)である。隆起する過程で大きな褶曲を受けたようで、地層は70〜80度ほども傾いてほとんど垂直にちかい。

この岩盤の上に火山(高原山)の噴出物の層がさらに厚く堆積して、全体として巨大なダム壁を構成していた。岩盤の分布をみると壁の厚さは野立岩の付近まで200〜300mくらいはあったようで、もしかすると福渡の岩盤河床までがずっと一体だったのかもしれない。それが、塩原化石湖から流れ出す水流によって徐々に浸食され、いまではすっかり櫛(くし)の歯のようになってダムの役割を果たさなくなってしまったのである。




岩盤が健在であった頃の状態を筆者なりに想像して、まずはこんな(↑)感じかな…などと図に起こしてみた。まあ大筋では間違っていないと思うのだが(^^;)、過去の研究論文をひっくりかえしてみると実際にはこんなに単純ではなくて、もうすこし複雑なものであったらしい。




そのヒントになるのが、高原山の東麓側を深くえぐるように流れる鹿股川と甘湯沢の存在だ。これらの川は化石湖の存在した頃に盛んに噴火していた前黒山〜明神岳の火口付近から、せっせと火山灰や火山礫を運んでダム壁を強化する役目を果たした。高原山の裾野の中でも特に峻険な谷筋にあたるこれらの河川は、木の葉石誕生の密かな影の主役ともいえる。




塩原化石湖に関して研究された論文をいろいろ調べてみると、横浜国立大学の研究グループが昭和31年(1956)に詳細な地質調査(※)をしていた。塩原化石湖はよく 「三日月形をしていた」 などと言われるけれども、その原本となったのはどうやらこの研究のように思われる。

※塩原化石湖の地史に就て:高橋正五/内田智雄,1956



論文の詳細な地質図はこんな感じで、これだけだとなんだか分からないと思うが、大雑把にいって化石湖は東側と西側で堆積している土砂の層が異なり、良質な化石は中央部〜西側に多いとある。

35頁ある論文を大胆に四捨五入して紹介すると、湖は断層面に沿ってできた窪地に水が溜って第一世代の湖面を形成し、それが甘湯沢から流れ込む土砂(須巻層)で塩釜周辺がどんどん埋まってしまったために、上流側に湖面が広がって現在の木の葉化石園から元湯方面に至る第二世代の領域が形成されたということらしい。木の葉石を多く含む地層(宮島層)はこのときに形成され、ちょうど周辺から植物の枝葉が流れ込んで堆積するのに都合のよい淀みがあったのが化石園の周辺なのだという。

この間、すぐ隣で高原山がさかんに噴火して火山灰や溶岩を噴出し、水の堰き止め具合に影響を与え続けたのだが、やがてその活動も一段落し、最近10万年くらいは浸食の時代となって川筋が掘り下げられて現在に至っている。さきほど見た櫛の歯状の浸食河岸はその最終段階の痕跡ということになるのだろう。




…ということで、論文の堆積層の分布を参考に須巻のあたりまで土砂が溜っていたと仮定して改めて漫画図を書き起こしてみた。これだと岩盤壁よりもそこに引っかかるように溜った土砂のほうが主役という感じかな。

※あくまでも素人の想像図なので過信はしないように(笑)




しかしそんな分厚く溜っていた土砂の壁も、今では見る影もなく消失している。これは火山活動が休眠期間に入ったことから、土砂の供給量が減って 浸食量>堆積量 となってしまったためだろう。高原山の火山活動が休眠したのは今から10万年ほど前のことで、6500年ほど前にほんの一瞬だけ活発化して富士山ドームを形成したりしているのを除けば、最近はずっと静かな状態が続いている。




河川の地形というのは一見すると動きがないようにみえるけれども、水によって削り取ろうとする働きと、土砂が堆積して埋めて行こうとする働きが常にせめぎ合って釣り合って(=平衡)いる。化石湖が存在した期間は火山活動によって堆積側のパワーが強い状態で平衡していた。それが休眠してしまったので、浸食側のパワーが強くなって新たなバランスとなっているのが、現在我々が見ているこの地形なのだろう。

…こういう10万年単位で移り変わっている風景を鑑みると、人間の言葉でいう "悠久" のスケールがいかにもちっぽけなものに感じられる。国破れて山河ありと詠んだのは杜甫であったか。その山河の様子も実際には移り変わっているわけで、偉大なる詩人の想像力もさすがに地質スケールには及ばないとみえる。

 

 

■ 湖底中央付近へ




さてそのままR400(旧道)を遡って温泉街(=かつての湖底)を畑下、門前、古町…と通り過ぎていくと…




やがて中塩原に至る。この付近では箒川はゆったりとした中流域の面持ちで流れていて、この写真だけをみても "塩原渓谷" のイメージはちょっと湧いてこない。この付近は化石湖のほぼ中央付近にあたっており、化石を含んだ地層がひろく、しかも厚く分布している。その厚さは50mほどにもなるという。




ただし湖が干上がってから既に数万年が経過して、新たな土の層が出来た上に草木が生い茂っている。そのためわかりやすい化石層の露頭は意外と少ない。あったとしても断崖絶壁の中腹だったりして、素人がちょこっとお手軽にアクセスするにはアレだったりする。




そのなかで最もアクセスしやすい露頭の部分に作られたのが、木の葉化石園だ。…ということで、少々前振りが長かったけれども、いよいよ訪れてみよう。




■ 木の葉化石園




木の葉化石園は中塩原でシラン沢、ツル沢の穿つ谷筋が合流する付近にある化石博物館で、一部の走り屋に人気のある漫画 「頭文字D」 の12巻で登場した塩那スカイラインの入り口にあっている。化石湖内での位置は、もうバリバリのど真ん中だ。

※図で示した化石湖の範囲は塩釜の尾根の高さを参考に湖面水準を標高650〜670mくらいと仮定して着色したものだが、さきに紹介した横浜国立大の研究グループはもう少し湖面水準を高めにみて750mくらいに評価している。(そのくらいで見積もると湖の形が三日月形になる)




そんなわけで、いよいよ入場してみよう。




ちなみにここは小学校の定番の遠足先である。筆者が最初に訪れたのは小学校低学年のときの遠足で、なけなしのお小遣いを全部投資して化石標本セットを買った記憶がある。ギャンブルの一発賭けは褒められたものではないけれど、この投資に筆者は後悔しなかったことを覚えている。




正門を抜けて80mほど歩くと、化石層の露頭がある。写真では草木が茂ってしまって少々わかりにくいかもしれないけれども、ここの露頭は高さが20mちかくある。化石層(宮島層)の中では下部に近く、年代は30万年前頃のものだそうだ。




この地層は化石園以外の盆地内にもひろく広がっている。ただし化石として発掘される葉の状態は他の地区では悪く(→破砕されてあまり原型をとどめない)、葉がまるごと綺麗に1枚単位で出てくるのはこの化石園の付近に限られるらしい。



化石の存在は古くから知られていたようで、本格的な研究はスウェーデン人の地質学者兼探検家アルフレッド=ガブリエル=ナトホルスト(Alfred Gabriel Nathorst)によって明治21年(1888)に西洋に紹介されたのが最古とされる。彼はスウェーデンから香港を経由して南極探検に向かう途中で日本に立ち寄り16種の化石を入手して論文を書いた。筆者はその内容は未確認だが、時期的には彼が1885年にスウェーデン王立科学アカデミー員に選抜されたのちのことであったから、それなりに権威のある取り上げられ方をしたといえそうだ。

木の葉石に関する日本人研究者としては、日本植物分類学会を創立した小泉源一博士(京大)、遠藤誠道博士(東北大)、旧通産省地質調査所研究員の尾上亨などの名を文献上でよく見かける。素人調査ではその全体像まではつかめなかったが、どうやら植物分布から当時の気候区分を推定しようというというアプローチの研究が多いようで、これは前出のナトホルストが氷河期と温帯植物の生存状況を研究テーマにしていた流れを汲んでいるように思える。

※写真はWikipediaのフリー素材から引用




木の葉化石園が開館したのはこれら日本人学者が研究を始めるよりも早く、明治38年(1905)のことであった。その開園の動機は多分に観光施設的な目的であったようで、おそらくお土産として化石を売るという行為を始めたのは国内ではここが初めてではないだろうか。

なお化石園では観光要素にばかり力を入れた訳ではなく、地質学者、古生物学者などへの協力を積極的に行い、研究材料としての化石を気前よく提供している。欧州での紹介がナトホルストという著名な学者によってなされたという幸運も手伝って、国内でも研究論文が多く発表され、学会への寄与はすくなくない。




さて展示館に入ると、あたりまえだがもう化石標本だらけ♪ ヽ(´・∀・`)ノ

ちなみに植物の種類は現在の塩原に繁茂する木々とほぼ共通だそうで、それを根拠にこれらが堆積した頃の気候状態は "現代とあまり変わらなかった" とされている。




…が、筆者はこれには多少の異論があったりする(^^;) すくなくとも幾らかの但し書きが必要なように思える。




実は筆者もにわか勉強ですこしばかり調べてみた(※正確性はあまり期待しないように ^^;)。

時代区分としては木の葉石の年代は氷河期と重なっていて(ナトホルストが興味をもったのはこのためか?)、Wikipedia から引っ張ってきた推定気候グラフと比較すると、現在よりも平均気温が3〜6℃ほど低かった時代が長そうに思える。ただ33万年ほど前にギュンツ−ミンデル間氷期という暖かい時期があり、この頃であれば現在とさほど変わらない気温レベルであったと推定してよさそうな気がする。…しかしその期間は1万年くらいしかなく、化石湖の存在期間(少なくとも10万年以上はあっただろう)と対比すると割とピンポイントなのだ。

※Wikipediaにはこの気候グラフの元データの説明が無いので定量的な分析というよりは大雑把な変動傾向をつかむくらいに留めておくのがよさそうだが、木の葉石の由来を考える場合 "氷河期" との相関は割と重要なテーマのように思える。




ところで気象学の立場からは -0.6℃/100mUp のレートから 3℃気温が低い=標高が500m高いと言い換えることが出来る。化石湖の湖水面(650〜700mくらい?)から+500m(-3℃)というと現在のハンターマウンテンスキー場の最下部あたりが相当し、−6℃(+1000m)の環境をさがすと奥日光の湯ノ湖〜金精峠トンネル周辺を思い浮かべればよいだろう。いずれも紅葉の名所であり、しかし塩原盆地と比べて樹種がそんなにべらぼうに変わってしまうかというと…案外そうでもない。

氷河期に氷床のひろく発達したのはヨーロッパ大陸や北米で、実はアジアはそれほど極端に氷で覆われてはいない。氷河期というと凍結したシベリア平原+マンモスの群れようなイメージを刷り込まれてしまっている人が多いかもしれないが、塩原周辺では実際には樹種が総入れ替えにはならない程度の冷え込み具合で、冬の寒さは厳しかったかもしれないけれども、それなりに春夏秋冬のある豊かな森があった可能性は高い。…そういう環境の中で、木の葉石は静かにつくられていったと読み解くのが、より実際に近いのではないか…と筆者は思う。

まあそのへんを全部ひっくるめたうえで最終的に "気候はそんなに変わらなかった" とまるめて表記しているのなら見解の相違はないということになる。このあたりは、もう少し掘り下げた考察というか、研究事例の紹介などがあると面白いと思う。(化石園の展示はそのあたりの説明がちょっとあっさりしすぎて、スキモノの立場からは少々物足りない気がするのだなぁ…!^^;)




さて木の葉以外では、市内の貝石の標本も綺麗なものが展示されていた。小太郎ヶ渕で見たものとほぼ一緒で、時代は木の葉石より遥かに古く、2000万年ほど前のものだ。ちゃんとトリミングすればまるごとハマグリみたいなやつが分離できるらしい。

それにしてもこの密集具合…かつてはどれほど豊かな海だったのだろう。




…で、展示品をいちいち全部紹介するのも大変なので(^^;)、このあたりで本日のメインイベント=化石割りに行ってみよう。




…と思ったら、先客がいたw 「うーん、…どれがいいのかなぁ」 と少年はお土産をなかなか決められないでいるらしい。まあ筆者は暇人なので待つことは苦にならない。思う存分ゆっくり考えてくれたまえ(笑)




それはともかく、これが筆者のお目当ての原石である。一袋 \500 で、さきほど見た露頭から採取したブロック状の堆積岩が5個くらい入っている。おひとり様2袋までという制限付きだが、子供を夏休みで連れて来るならぜひともこれは入手してほしい。

これの何が良いかというと、当選確率ほぼ100%の宝くじであることだ。どこかの層には必ず何らかの化石が含まれているので、ハズレということがまずほとんど無い。化石園ではロックハンマーをレンタル(無料)してくれるので、こいつを実際に割ってみることとしよう。


<つづく>