2015.01.18 南山御蔵入領と百姓一揆の記憶:前編(その3)






さていよいよ福島県側に入った。この先はずーっと似たような雪景色なので、間を持たせる意味を込めて(ぉぃ ^^;)、一揆に至るまでの歴史の流れをもう少しばかり説明しておきたい。ここからは切り口を少々変えて、情緒ではなく財政という観点で江戸時代を俯瞰してみよう。

実はこの時代(元禄→宝永→正徳→享保の頃)の日本は、ちょうどバブル崩壊から低成長→デフレに陥った1990年代〜2000年代と酷似した経済状況にあった。当時のバブル時代は元禄年間(1688-1704)の中盤以降で、このときは日本中が好景気に沸いていたのだが、続く宝永年間(1704-1711)から正徳年間(1711-1715)にかけては天災(宝永地震、富士山の宝永噴火など)が相次いでインフラ復興の出費がかさみ、さらに幕府の経済政策の変更もあってデフレスパイラルの時代へと突入していった。

このデフレ基調の中で、財政再建を目論んで幕府や大名たちが年貢の取り立てを強化しようとしたのが、百姓一揆の増加していく長期的な遠因になっている。




参考までにこの分野の研究では第一人者である青木虹二氏の著書 「百姓一揆の年次的研究」 (日本史学研究双書/1966)の統計をグラフ化(↑)してみた。これは江戸時代に起きた2800件もの百姓一揆をいちいち調査してデータ化したもので、特に享保期以降(=江戸時代後半)は社会的な不満が鬱積し、爆発しやすくなっていることが見て取れる。

南山御蔵入騒動は江戸時代としてはまだ一揆の少ない時代の事件であったが、領民支配の質的転換という点ではこの享保年間(というか直前の正徳年間というべきか)というのはひとつの境界的な時代になっている。



 

■ そもそも、どうして幕府の財政は悪化したのか?




それに関して、話をやや戻してここで幕府の財政の悪化の歴史をひも解いてみたい。話が少々大風呂敷になるけれども、これを知っていないとおそらく時代背景を理解するのが困難になるので、面倒くさいところではあるけれども少々我慢しておつきあいいただきたい。

※補足:なるべく嘘を書かないように注意しているつもりだけれど、筆者も経済理論はにわか勉強なので多少怪しいところがあるかもしれない。その点は少々ご容赦を…(^^;)



さて徳川幕府の財政事情が悪化した理由はいくつもあるのだが、その主要なもののひとつが戦国末期〜江戸時代草創期には潤沢だった金銀の生産が落ち込んだことであった。

徳川幕府はその黎明期、全国の有力な金山/銀山を召し上げて直轄地(天領)とし莫大な利益を上げていた。しかし半世紀あまりも経つと産出量は年々減り、当時世界最大ともいわれた佐渡金山(↑)も衰退しはじめる。元和年間(1615-1624)には年間800kgほどあった産金量は元禄年間(1688-1704)には100kg未満になったというからその落ち込みぶりは凄まじい。そしてこれが幕府の財政をじわじわと悪化させていく端緒となった。

※画像はWikipediaのフリー素材を引用




当時の通貨(慶長小判)は貴金属そのもので、重さ=価値であって採掘量の減少はそのまま通貨供給量の減少につながった。ここが最初のポイントである。

江戸時代の最初の百年間は庶民層にも貨幣経済が浸透し、人口が倍増するほどの高度成長期であったから、資金需要も旺盛で、本来ならじゃぶじゃぶと通貨を供給しなければ溢れる商品やサービスと通貨量のバランスはとれない。しかし金の採掘難から小判の供給は徐々に落ち込み、相対的な金の価値の上昇=物価の下落、つまりデフレが引き起こされた。そして代表的な穀物であるコメの相場も下がってしまったのである。

このデフレ傾向は、なんと三代将軍:家光の後半頃から五代将軍:綱吉の頃まで50年ほども続いていた。残念なことに当時はマクロ経済学などというものはなかったから、何故コメの相場が年々弱含んでいくのかを説明できる官僚は幕府にはほとんどいなかった。




この時代、幕府の財政は収入/支出ともコメが基準で、「○○領○○石」 で収入を見越して予算が組まれ、役人の給与は 「俸禄○○石取り」 などとやはりコメで支給されていたから、米価の下落は決して好ましいことではなかった。国家予算や役人の給与はコメでやりとりし、一般の商取引は貨幣で支払われる経済では、コメを換金するときのレートが弱含んでいくと実収入が減ったのと同じになってしまうからである。

※産金の豊かな時代はまだデフレによる米価下落があっても小判をどんどん発行することで幕府の財政規模を維持することができた。しかし貴金属資源が枯渇してくると、予算を執行するには既に市場に流通している貨幣をコメと交換して調達しなければならない。その意味でもデフレ退治は喫緊のテーマであった…筈である(問題を認識しないとテーマにならないので 少々微妙だが^^;)。




さてここで一人のヒーローが登場する。この問題を通貨改鋳で乗り切ろうとした男で、五代将軍:綱吉政権下の勘定奉行、名を荻原重秀という。彼は現在でいう信用通貨の概念をもったおそらく日本で最初の官僚と思われ、幕府が通貨の価値を保証すれば小判に含まれる金の比率は少なくてもよいと考えた。

ちなみに信用通貨の最たるものが紙幣で、四角い紙に福沢諭吉の肖像画と数字の印刷してある紙を 「一万円」 とみなして商品やサービスと交換できるのは、日銀の信用とその株主である日本国の信用に基づいている。荻原重秀は発行者に充分な信用があれば、たとえ瓦礫であっても通貨としての機能を果たすという趣旨の言葉を述べている。

そして彼はこの考え方に沿って、当時流通していた純度86%の慶長小判を改鋳して、同56%の元禄小判としたのである。これで市場に流通する貴金属としての金(GOLD)の総量を変えずに、通貨供給量を増やすことができる。金の純度が下がっても、一両は一両として流通させた。




この政策は大当たりした。今で言う 「通貨供給の量的緩和」 に相当する効果があらわれ、元禄期は年率2.7%ほどのゆるやかなインフレとなり経済成長が促されたのである。米価は持ち直し、幕府には改鋳によって500万両にも及ぶ差益も転がり込んだ。経済政策としてはアベノミクスもびっくりのクリーンヒットであったように思う。

この好景気は8年余り続き、副産物として元禄繚乱ともいわれる活発な文化活動を促進した。この時代に歌舞伎や俳諧などが盛んになった背景には "世間におけるカネ回りの良さ" があり、余談めいた話になるけれどもその波に乗って近松門左衛門や松尾芭蕉といった文化人の活躍がある。

※グラフの元データは吹塵録(勝海舟)。張紙値段は幕府の認めた小判と米の公式相場。小判一枚が一両に相当し、コメで給与(俸禄)を支給された武士はこのレートで換金して生活費とした。



しかし荻原重秀の後ろ盾となっていた五代将軍:綱吉が没して六代将軍:家宣〜七代将軍:家継の時代となり、新井白石が御用人(=将軍への助言者)として台頭すると事態がひっくりかえってしまう。

新井白石は儒学者としては大変な博識であったけれども経済政策の実務については素人に近かった。通貨供給量のコントロールという概念は持たず、小判の品質については儒教的道徳感に基づく悪貨/良貨論に固執していたため、荻原重秀の金融緩和政策の意味するところを理解できず始終批判的であった。このため自らが実権を握ると 「荻原重秀の政策は悪貨の量産である。金の純度を元に戻すべし」 と儒教的な正義感に基づいて元禄小判を回収し、純度を上げた宝永小判、正徳小判に再改鋳してしまった。

これで何が起こったかというと、市場の貨幣量がふたたび減少に転じたため、デフレが再発して景気は失速してしまったのである ( ̄▽ ̄;)

新井白石の幕政への登用は後ろ盾となった家宣、家継がともに短命政権であったことから宝永六年(1710)〜享保元年(1716)の7年間で終わったが、しかしその影響は20年以上も尾を引くことになった。これは白石が一見もっともらしい理屈をつけてデフレ政策を推し進めてしまったため、それを否定する意見を他の官僚がなかなか言い出せなかったというのが大きいといわれる。

※肖像はWikipediaのフリー素材より引用




時代はさらに流れて、この後を継ぐのが八代将軍:吉宗に抜擢された水野忠之なのだが、その政策は商品作物栽培の奨励や新田開発など供給力を上げる施策は進めたものの、需要の創出についてはほぼ無策といってよく、倹約奨励(享保の改革)による消費の縮小が進んで景気はさらに失速、低空飛行を続けていく。

のちに見かねた大岡越前守忠相が進言して、元文元年(1736)、金の含有量を減らした元文小判(65%)を発行し、荻原重秀から26年目にしてふたたびリフレ政策(※)に転換した。これが功を奏し、ようやく米価は安定して、その後はゆるやかなインフレ基調となり、元文小判はその後80年あまり流通することになる。

その流れを関連人物の存命期間と併せて年表にするとこんな(↑)感じになる。こうしてみると、南山蔵入騒動は長く続いたデフレ(不景気)がようやく荻原茂秀によって回復基調になったところに、新井白石がちょっかいを出してちゃぶ台返しをやらかし、ふたたびデフレスパイラルに陥った先で起きていることがわかる。筆者的にはこの江戸時代版 "失われた20年" の主犯は新井白石だろうと思っているので、その認識のもとでもうすこし話をすすめていきたい。

※リフレとは年率2%程度のゆるやかなインフレのこと。このくらいの物価上昇がつづくと投資、生産、消費がうまく回って好景気が持続するといわれる。


【ここでちょっと補足】


さてここは紀行サイトの筈なのに(^^;)脱線して延々と経済の話をしたけれども、荻原重秀vs新井白石の成績評価を物価推移でトレースしようとする方がいた場合、混乱する恐れがあるので多少の補足をしておきたい。…というのも、どの通貨で物価変動を追うかで印象が随分と違ってくるのである。(さらに地方によって商品相場に差があったりする)

おおまかに江戸時代の通貨は金貨(小判)、銀貨(豆銀など)、銅貨(銭) の3種類があり、まとめて三貨という。これらの交換レートはころころ変動していて(だから両替商という職業が成立したのだが)、どれをベースでみるかによって物価は上がっているようにも下がっているようにもみえる。特に大阪商人の帳簿記録(銀ベース)と江戸の幕府財政(金ベース)を直接比較するのは混乱の元みたいなものかもしれない。

筆者がデフレ基調といっているのは金ベースの話である。幕藩体制における財政はコメを基盤としていることは既に述べた。このコメを市場で換金して日常の経済活動に充てるわけだが、幕府や武家の収支は高額貨幣である小判(金)の取引で営まれており、物価はあくまでも金で評価しなければならない。

繰り返しになるけれども コメ → 金貨(小判) → その他の貨幣に両替 というのが江戸時代の武家の典型的なお金の流れであり、実際の経済活動は金貨(小判)での支払いが多かったからコメがいくらで小判に交換できるのかが重要であった。これが産金量の減少(≒マネーサプライの減少)でデフレ側に傾き、本来なら小判の品質を犠牲にしてでも "貨幣量の増加" でバランスをとってやらなければいけないところを、コメを大量に百姓から搾り上げろという方法論に行ってしまったところに徳川幕府の政策的な限界があったといえる。




そんな中でも保科家(松平家)の治める会津藩では、領民から搾りとるのではなく村を豊かにして税収を確保しようする思想がつよく、比較的安定した統治が続いていた。しかし南山御蔵入領に於いては、新井白石が幕政に関与した正徳年間に支配権が会津藩から幕府に戻され、それまでの撫民的な統治に終止符が打たれてしまう。

これが一揆の起こる素地となって、僅か7年あまりで農村を荒廃させることとなっていくのである。





■ 幕府(代官所)の支配について




さてマクロ経済の話はこのくらいにして話を戻そう。

南山御蔵入領の支配権委譲は正徳三年(1713)であった。この前年に幕府勘定所の政策変更があり、近隣大名にお預けとなっていた全国の天領が一斉に幕府に返還されたので、南山御蔵入領もそれに倣ったのである。

このとき新井白石は六代将軍家宣の側用人(助言者)として幕政に影響力をもっており、その助言のひとつに "検地" に関するものがあった。検地(今風に言えば一種の国勢調査)を全国規模で組織的に始めたのは太閤秀吉だが、これには費用も手間もかかるので一度データを確定したら何十年もそれをもとに課税を続ける運用がなされていた。しかし何十年のうちには新田開発や生産性の向上もあり、帳簿と実態の差は年々開いていく。白石は正徳年間の頃の天領の年貢率を、もともと法定4割(四公六民)であったものが実勢では2割8分程度の徴収率になっていると試算していた。これを再度徹底的に検地を行うことで年貢収入を増やし、幕府財政を立て直そうと進言したのである。そのために近隣大名に預けてあった天領の支配権をいったんすべて幕府に返還させて内実を直接吟味することになったらしい。

※検地による歳入増加策は元禄年間以前からたびたび試みられており、さきに紹介した荻原重秀も唱えていた。ただ荻原重秀はそれに抵抗する世襲代官(地元で代々代官を務める家系)を一掃してローテーション赴任体制に移行する改革を行ったものの、改革半ばでやがて失脚してしまう。新井白石はその後においしいところだけをパクったような印象がある(^^;)




…こうして返還された南山御蔵入領に、やがて幕府から代官が派遣されてきた。初代は中川吉左衛門という者で、着任早々領内に46ヶ条にわたる布告を出し、耕作状況をくまなく検分して開墾地をみつけては検地を行い、税率も上げはじめた。

さらにはコメの江戸への現物納付=廻米が始まった。実は雪深い南会津では物理的にコメを運んで納めるのが大変だったので、現物は米商人にさっさと売却して、現金で納める村が多かった。それを今度は荷のかさばるコメの状態のまま、江戸まで農民自身の手で持って来いというのである。記録では1000石を運ぶのに40日を要したというからその負担の大きさが伺える。

※廻米が強行されたのは、地方よりも江戸の市場のほうが米相場が高く、また当時は先物市場も立ち上がりつつあったので 「換金するなら江戸でまとめて有利に」 という幕府勘定所の思惑も多分に含んでいたらしい。




正徳五年(1715)に入部した二代目代官、山田八郎兵衛の施政も基本は同じであった。郷土資料である田島町史第二巻に、当時の南山御蔵入領の金井沢村の年貢率の推移が載っていたのでグラフ化(↑)してみたのだが、享保三年(1718)まではほぼ一本調子で年貢率が上がっている様子がわかる。

年貢率は最も高いところでは最終的に63%にまで上がった。これでは百姓はたまらないだろう。

※本田(昔からの耕作地)、新田(新規開墾地)で税率が異なっているのは土地の肥沃さ加減によってランクが異なるため。一般に天領の税率は四公六民などと言われるが実際の課税状況は非常に複雑であった。


<つづく>