2006.04.22 沖縄旅行記(その5)




■ さらに公園内を散策




時計をみると午後4時を少しまわったあたりだった。日没までにはもう少し時間がある。閉園は17:30だそうだからまだいくらか散策出来そうだな。

そう思って海洋文化館に行ってみたが、改装工事中だったので郷土村のエリアを散策することにした。




沖縄の民家と言うと赤瓦の屋根が印象的だが、赤瓦が一般に普及したのは明治時代中期以降のことである。琉球王朝時代(〜1872=明治5年)は身分によって住居の様式が決められており、一般民衆の家は茅葺だったという。上の写真は当時の農家を復元したものである。壁は板ではなく草で編んである。




内部はこんな感じである。なんともポリネシアンな雰囲気が漂う。




台所は石を並べただけの簡素なつくりで、河原でキャンプでもしているようだった。火を使うところなのでここだけは粘土壁になっているようだが、それにしても一般の琉球人というのはこんな生活レベルだったのだな。




これがノロ(呪術師)の身分になると、いきなり高床、板壁、赤瓦にグレードアップする。集落数箇所毎に一人のノロがいて、王朝から土地と建物を与えられ、宗教的な祭祀を取り仕切ったらしい。




沖縄の祭祀は女性が中心で、ノロも女性(巫女)である。その住居には火の神を祭る殿内(デンチ)という建物がある。広さは2畳ほどで、一見すると茶室のような印象だ。




これが殿内の内部である。押入れのように見える下の段が火の神を祭る場所らしい。囲炉裏のように灰が敷き詰められているが、煙突が無いので常時火を灯しておくのではないように思える。ものによっては仏壇とセットになっていることもあるそうで、どういう宗教空間なのかはちょっとよくわからない。




さらに偉くなって地頭代(=代官)の家になると門まで瓦葺になって一段とゴージャスになる。




その瓦屋根のアップ。沖縄建築の赤瓦の構成は、一見複雑そうにみえるかもしれないが実は基本パターンが3つくらいしかない。上の門の写真の壁模様もそうだが、同じ形の瓦をいろいろ組み合わせて装飾に用いている。一昔前のTVゲームで少ないタイルチップを組み合わせて背景を作っているのと要領は同じだ。




またこの向きからは分かりにくいけれども、地頭代クラスの身分になっても、いわゆる鬼瓦のような装飾瓦は用いられていない。屋根の破風の部分には巴柄の丸瓦(軒先と同じ)がそのまま取り付いており、漆喰でちょこんと跳ね上がったような意匠がみえる。

鬼瓦のルーツは古代シリアにまで遡るそうで、中国を経て奈良時代に日本に伝わったのだが、琉球にそれがないというのはちょっと面白い。王国の建ちあがった15世紀頃の中国寺院建築には鬼瓦はあまりみられず屋根が極端に反り返る禅宗様が流行していたから、それが反映しているのかもしれないな。




屋敷のなかを覗いてみると、本土とはずいぶん様相が違う仏壇がみえた。あの幅の広いのが位牌だそうで、一族の戒名をどんどん追記して 「ご先祖様名簿」 をつくっていくのだという。沖縄人の一族意識の強さはこんなところにあるのかもしれない。




さてそのほかいろいろと見所はあるのだけれど、閉館時間が近いのであきらめることにした。ちなみにここは植物園エリア。本日は無料開放日だったらしいが、まあ仕方が無い。




これはバナナ・・・ではなく、芭蕉だそうで。…でもバナナって芭蕉じゃなかったっけ。




そんなこんなで、タイムアウト。また雲が湧き出してきたところで帰到フェーズに入った。




ホテルに戻ってみると、ちょうど定時イベントの最中だった。内容は昨日と同じなのだけれどギャグの飛ばし方が微妙に違う。どうやら客の反応をみて小技を効かせているようだ。・・・でもそういうヒネた見方をする客は、たぶんイヤがられるだろうな(笑)

<つづく>