2006.04.22 沖縄旅行記(その6)
■3日目
3日目の朝が来た。・・・が、空は素敵な曇天。雲はかなり厚い。天候的な幸運は昨日のうちに使い切ってしまったのか・・・ _| ̄|○
TVの天気予報をチェックしてみると、本土にいるとなかなか気が付かないのだが、やはり沖縄についての言及はまったくといっていいほどない。
沖縄に来て3日間、天候が悪いので天気予報には注意していた。しかし困ったことにお天気キャスターの意識は "九州以南" にはさっぱり及んでいない。BSなんて離島の難視聴解消を事業目的のひとつにしているのに、これではちっとも役に立たない。TVより地元の新聞(→鮮度は半日前レベル)のほうが情報が多いなんていまどき笑い話にもならないぞー ヽ(`д´)ノ
※ちなみに今回宿泊したホテルではインターネットにすら接続できなかった。いやもう、なんというかw
それはともかく、このまま空模様を嘆いていても仕方が無いので初志貫徹で出発しよう。
さて本日のコースは海中道路から離島(といっても道路でつながっている)をハシゴして景色を眺めるのがメインである。金武湾は遠浅の砂地の湾で、眺めがとても素晴らしい。それをゆったりと愉しむのである。
では早速走り出そう。
東シナ海から太平洋岸に抜けるには仲泊付近が最短ルートになる。ここは沖縄本島でも最も幅がせまいところで、たった3kmで反対側に抜けることができる。
このあたりの海岸には米軍の燃料貯蔵庫が並ぶ。よくみると注意書きには ARMY と書いてある。空軍でも海兵隊でもなく陸軍の設備なのか・・・筆者は沖縄=海兵隊と思っていたのだが、陸軍施設もあったのだな。
■ 海中道路
そのままうるま市(旧具志川市)を南下すると、海中道路に達する。与勝半島と平安座島をむすぶ全長5kmにわたる海の道だ。
ちなみにここは干潮のときには砂州で島と半島がつながり、歩いて渡ることができる。そのくらい浅い海なのである。現在の海中道路は、米軍占領時代に平安座島に石油基地が作られ、その連絡用に高架式の橋がつくられたものが原型になっている。現在ではかなり立派な道路に改修されて観光資源になっているけれども、最初は産業用道路だったのだ。
筆者が訪れた朝の時間帯はちょうど引き潮で、湾内は見渡す限り干潟のような景色になっていた。どちらかというとエメラルド色の浅い海を期待していたので筆者的には少々微妙(^^;)だったのだが、離島で時間をつぶして戻ってくるころにはまた状態が変わっているだろう。
【浜比嘉島】
さて海中道路を渡ってクルマでお手軽に走れる離島は4つある。平安座島、浜比嘉島、宮城島、そして伊計島である。本日はこの4島を制覇する…というのがミッションの柱になっている。
最初に上陸するのは平安座島だが、まずはひとつ南側に位置する浜比嘉島からレポートしたい。4島の中では最も人口の少ない静かな島だ。
海中道路から見た浜比嘉島はこんな感じである。島に通じる浜比嘉大橋が見える。
橋から見た浜比嘉島は、遠くからはマリーナのようにみえたけれども、停泊しているのは漁船ばかりのようだ。立派な橋は架かっているものの、観光客が押し寄せて賑わっている訳ではない。
浜地区の港をすぎて奥まで行くと、小さな砂浜があり、道はそこで途切れていた。浜茶屋の類はなにもない。観光客の来るようなところではなく、あくまでも地元民のための静かなスポットという感じだ。
浜には竜宮神が祀られていた。彫像や装飾は一切無く、単に竜宮神の文字だけが書いてある。古い民俗伝承となにか関係があるのか多少の興味をもったが、調べるならコンクリートで作られたものより古い遺跡のほうが良いかもしれないな。
■比嘉
さて浜地区の反対側、比嘉地区にも足を伸ばしてみた。小さな集落をすぎるとコンクリート製の防波堤が沖に浮かぶ岩礁に向かって延びている。
その先端はクルマ10数台程度が停められそうな岸壁になっていた。地図をみるとフェリー乗り場と書いてある。おそらく橋が出来る前はクルマはここからフェリーで本島方面に渡ったのだろう。現在は使われていないようだ。
その岸壁で一人、釣りをしている男性がいた。尋ねると、ここはイカがよく釣れるんだよー、言いながらジグ(イカ釣り用の擬似餌)を投げ込んでいた。
うーん、それにしても、イカ釣りか…いろいろ考えてしまうなぁ(^^;)
岸壁からはさらなる離島、浮原島がみえた。ほぼ砂州だけでできた島でビーチが綺麗そうなところだが、無人島なのでさすがに橋は伸びていない。
…ととまず、筆者も引き返すことにしよう。
【平安座島】
さて浜比嘉島から戻って、ここからは海中道路の東端、平安座島を行く。この島はその面積の半分以上が石油基地になっている。もともと平安座島と宮城島との間は浅い海であったそうだが、石油タンク増設のために埋め立てられて島の面積は4割ほど増加している。
その石油基地と集落を隔てる小高い丘陵地の端に、小さな洞窟が口をあけていた。地図には載っていないが、なにかありそうだ。そう思って中を覗いてみた。
内部は自然石に塩と酒(・・・だと思う^^;)が供えられていた。遺跡…という訳ではなく、現役の祭祀場のようだ。傍らに小さな案内板があったので読んでみると、なんとここは3500年も前から存在するニライ・カナイを祈願する女人の聖地だという。記紀神話より古いのには正直なところ驚く。
ニライ・カナイとは想像上の一種の理想郷のようなもので、毎年遠く海の彼方(=ニライ・カナイ)から神が渡来して豊穰や幸福をもたらすという沖縄独特の信仰である。人の魂もまた、死すればニライ・カナイに行くと信じられていたらしい。ニライ・カナイの方角については島によってまちまちで、定説というのはないようだが、海からやってきて幸をもたらすという点では日本本土の恵比寿信仰に似ている。
案内板によると、沖縄に古くからつたわる旧暦3月3日の浜下り(はまうりー)の風習の発祥の地がここだとも書いてある。浜下りとは女性が海岸で不浄を清める儀式といわれる。現代では単に浜辺で宴会や潮干狩りをする風習に簡略化されてしまっているが、本来は禊(みそぎ)に近い意味合いがあったらしい。
聖地には、塩と酒の他に、ひとつかみの稲穂が供えられていた。
このセットは、日本本土では弥生時代の信仰と共通する。沖縄の稲作の発祥時期については9〜10世紀頃というのが定説だが、中国→沖縄→九州の伝播ルートを主張する説もあり、民俗学者の柳田国男などはその説にたっている。
15世紀に本土から神道が伝播した経緯もあるので、その後弥生系の様式をもつ本土神道と混交した可能性もありそうだが、いずれにしても面白い民俗だな。
その祭祀場から一山越えると、ひたすら原油タンクが続く景色が現れた。
話を石油基地に戻すけれども、もともとこの施設は宮城島に作られる予定だったらしい。ところが米軍統治下の時代でもあり、土地接収と絡んで反対闘争が盛り上がり、それを左翼活動家(当時の沖縄では共産党は活動禁止であったが人民党と名前を替えて公然と活動していた)が煽りに煽って滅茶苦茶にかきまわした。
それでどうなったかというと、結局は隣の平安座島の住民が施設を誘致して意外にあっさりと現在の形に落ち着いてしまった。平安座島にとっては政治的なイデオロギーよりも、海中道路で本島と接続されること+税収が確保されるという実利のほうが重要だったらしい。
戦後の沖縄史をひもとくと、こんな反対運動の話題ばかりが出てくる。海も空も綺麗なのに、揉め事の耐えないのが沖縄の現実なのである。うーん。
さてその反対闘争の島、宮城島はまるで川のような狭い海峡を挟んで橋でつながっていた。ここまで埋め立てておいて接続しなかったのは、まあ宮城島の郷土愛(棒)に配慮して島としての独立を保ったというところだろうか…(^^;)
<つづく>
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