2022.07.20 霞ヶ浦の風景(その5)
■ 木原港
ふたたび湖岸を走り出し、木原付近にやってきた。相変わらず風景は広々としている。カメラマン視点としては、邪魔な電線や看板が無いのがすばらしい。
やがて小さな漁港が見えてきた。木原港というらしい。現代の基準では港というよりも船溜まりと呼ぶのが適切かもしれないが、古くからある港である。 霞ヶ浦の港はこのくらいの小規模なものが無数にある。
霞ヶ浦の水質はお世辞にも "清浄" といえる状況ではないけれど、そこで獲れる魚が食用にできないほど極悪なわけではない。であるからにはもちろん漁業は行われていて、シラウオ、ワカサギ、エビなどが獲れる。
ちなみに霞ヶ浦は面積がひろいため、漁業法では "海区" 指定となっている。普通の河川(内水面)と何が違うかというと、海の漁業と扱いが同じで入漁券等の購入を必要としない(=誰でも漁をしてよい)。琵琶湖も同じで、やはりスケール感が違うと扱いも違うようだ。
そして港があればそこには水神様もいる。氏子のなかに甲斐性のあるスポンサーがいるのか、ここの社殿はしっかりとつくられているようだった。
■霞ヶ浦四十八津の話
ここで少しばかり余談をしたい。歴史を遡れば、かつて戦国期~江戸時代にかけて、霞ヶ浦四十八津なる漁師の自治組織があった。
昨今のゲーム風にいえば "ギルド" に相当するもので、水産資源を共同管理し、魚を獲りすぎないように漁期の設定や網目のサイズなどを決めていたらしい。 欧米の偉そうな環境団体にお説教される迄もなく、ここでは400年以上前から "持続可能な開発" が実践されていたわけだ。
この漁師ギルドが、それぞれの津(港)で水神様を祀っていた。霞ヶ浦の水神宮は小さな石祠まで含めれば200カ所以上あるといい、そのほぼすべてが漁民の祀るものとなっている。
一方で、これだけ広大な干拓地があるのに農民側の地区には水神宮はない。水神宮どころか、神社と呼べそうなものがそもそも見当たらない(※)。
※湖岸から1kmくらい内陸の丘陵地まで引っ込めばあるにはあるのだが、干拓されたゼロメートル地帯にはない。
調べてみると、どうやら当初は農民の祀る水神宮もあったようだが、経済的に豊かだったのが圧倒的に漁民の側だったので、祭祀の担い手が次第に漁民側に移ってしまったという事情があるらしい。
曰はく、干拓農地は多少雨が降っただけで簡単に水没して収穫が安定せず、満足にコメが採れたのは三年に一度くらいだったという。
……といってもピンと来ない方もいると思うので、堤防決壊で水没した実際の水田の様子を示してみたい。 関東地方だと水害の原因は梅雨末期の大雨か台風の襲来といったところだが、いったん水を被ると水田はこんな状態になってしまう。
稲は水辺の植物でありながら、穂が水没すると実が入らない "不稔" を起こしやすい。だから天候によって極端に収量が減少する場合があり、それでも種が生き残れるように収量比が麦の4倍ほどもある "子だくさん" の種に進化した。
おかげで耕作地が小面積でもたくさんの人口を養い得る作物になった訳だが、低地に開かれた水田ではこの性質が災いしてギャンブルのような農業になりやすい。霞ヶ浦はこの残念なパターンにハマりやすかった。
一方で漁民側は多少の天候不純や増水があってもそれで漁業資源が枯渇、壊滅することはなかった。 船さえ無事なら漁は可能で、今風のBCPの観点からも事業の継続性は高かったように思える。
また港(津)は船運による現金収入もあり、こちらも副業としては優良だった。霞ヶ浦は江戸への廻米ルートとしては主要な地位にあって、年貢米の積み下ろしをする河岸(かし)には課税があったが、小規模な港を拠点に小口の荷を捌いている船主は割とフリーダムにやっていたらしい。水没区画に入植した農民からみれば、誠に羨ましいかぎりだったことだろう。
今では小さな船溜まりにしかみえないこの港も、かつてはそんな津のひとつだった。
その最盛期を知る者は、今ではもう水神様くらいであろうか。 湖水面の管理の質があがって蓮根栽培のネームバリューのほうが上がってしまった今でも、水神様を祀る氏子は漁業関係者が主だ。律儀なことだと思う。
<つづく>