2008.04.05 金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:奈良編 (その2)




■平城宮跡(へいじょうきゅうあと)




さてそんなわけで、激混雑中の東大寺≒奈良公園方面は諦め、平城宮跡に向かう。

ここは天皇の住まい、および朝廷の政務の場の跡である。長岡京への遷都令ののち荒廃し、千年後の幕末〜明治時代には一面の水田であったという。しかし平城宮の中心≒大極殿の周囲だけは千年経っても農地にはならず、遺跡として残されていたというから面白い。鎌倉時代以降、尊皇攘夷の唱えられた幕末に至るまで皇室の威光というのは長らく地に落ちていたが、その間でも高貴なる宮殿の跡地に鍬を入れるのは躊躇(ためら)われたということだろうか。

現在の平城宮跡地は北辺は住宅街に侵食されてしまっているが、全体として見ればほぼ往時の領域を留めており、現在は公園として整備されている。遺跡を思いっきり横切る形で近鉄線が通っていて近畿日本鉄道株式会社に一言ツッコミを入れたくなるが、ここはスルーして話を進めよう。ちなみにここは現在、世界遺産に登録されている。




もとが水田だっただけに宮殿の建物は残っていないが、現在では発掘された遺構の上に朱雀門が復元されている。これがなかなか巨大なのである。門本体の高さは20m、左右に広がる築地の高さは6mあるという。王朝時代にはこれが宮殿の周囲をぐるりと取り囲んでいたわけだ。


門前には、朱雀大路も復元されていた。なんと道幅は75mもある。復元された領域は長さ250mほどだが、往時は都の南端にあたる羅生門まで、およそ4kmほど続いていた。ピンとこない方のために多少の補足をすると、道端でサッカーW杯の公式試合が開催でき、ジャンボジェット機の滑走路(※)にも使えてしまうくらいの規模である。中世のいわゆる戦国的な城下町とは背景となる思想が根本的に違っており、これを見ると大陸的な都市計画というものがどういうものだったのかがよく分かる。

※参考:成田空港の一番大きなA滑走路は幅60m×長さ4000mであり、長さはほぼ同一だが幅が広いぶん朱雀大路のほうが規模が大きい




隣接する博物館に通じる公園には、桜が咲いていた。まさにあの有名な歌の如し。




あをによし
奈良(寧楽)の都は 咲く花(華)の
匂(薫)ふがごとく 今盛りなり

万葉集 巻之三、第三二八番の歌(小野老朝臣)である。枕詞にもなった "あをによし" とは万葉仮名では青丹吉と書き、青瓦と丹塗りの建築の壮麗さを花に喩えたものだ。要するに中国風、仏教風の寺院建築や楼門、宮殿が壮麗に立ち並んでいます、ということである。実も蓋もない写実歌といえばそれまでだが、万葉集の歌はおしなべてこんな感じの素朴な表現が多い。




しかし奈良時代の政治状況は、実際にはこんな歌のような平穏、華麗なものではなかった。…その実態は血塗られた粛清劇の繰り返しである。




さてここで簡単に道鏡登場までの歴史に触れておこう。彼の登場までに、奈良時代には大きな政変劇が5回起こっている。ここでいう政変とは、天皇の交代…というよりもその周辺で権勢を誇る朝廷内有力官僚の交代劇である。

これら実務者のなかで著名な者として、藤原不比等、長屋王、藤原四兄弟(武智麻呂/房前/宇合/麻呂)、橘諸兄、藤原仲麻呂 を↑年表に加えてみた。説明を始めると長くなるので詳細は割愛するが、大雑把にいって藤原氏一族と皇族方がおよそ10年周期で交互に実権を奪い合っていると思えばいい。これに加えて疫病(天然痘)の流行や凶作による飢饉、地方反乱が相次いだことで、奈良時代の政情は不安定なものであった。

特に状況がひどかったのが聖武天皇の時代で、長屋王の変から藤原四兄弟の連続死(天然痘と言われている)、さらには相次ぐ地方反乱、飢饉などで政権中枢は揺さぶられ続けた。天然痘の流行では有力官僚も次々と病死し、朝廷の事務方が事実上全滅してしまうという状態にまで陥っている。それゆえに聖武天皇は仏教の力によって国家鎮護を図ろうとの思いに至り、東大寺大仏の建立が開始されるのである。そして道鏡は、その東大寺のなかで頭角を現していく。ただしまだ孝謙天皇とは出会っていない。




前振りとして、聖武天皇の話をもう少し続けよう。奈良時代初期は律令制の最盛期であり、藤原氏は始祖たる鎌足の息子、2代目不比等の時代である。この不比等が娘を文武天皇に嫁がせ、その皇子が聖武天皇となったところから "天皇の外戚" としての藤原氏の栄華が始まる。藤原氏にとって聖武天皇の存在は、まさに政治権力の寄り代、もしくは利権の打ち出の小槌といったところだっただろう。

おかげでこの藤原氏的サラブレッド=聖武天皇は大切にされるのだが、為政者としてはその資質に問題点も多かった。精神的に不安定で決断力に欠け、政治課題を自らの手腕で行政的に解決するのではなく、仏の加護や密教的神通力でしてなんとかしようという他力本願的な傾向が強かったのである。そして聖武天皇は次第に現実世界から逃避し、仏教に傾倒していく。

※天皇に仏門への帰依を進めたのは遣唐使僧:玄ムといわれるが、彼についてはのちに別項で触れる予定。




さて奈良時代最長の在位期間(25年)を誇る聖武天皇だが、その治世の後半はもう無茶苦茶である。部下が地方反乱(大宰府:藤原広嗣の乱)の鎮圧に奔走している最中に都を留守にして放浪の旅に出てしまったり、大仏建立を指示する一方で次々に都の移転を図るなど支離滅裂な行動が目立ち、移転のために大極殿(平城宮の主要政務の行われた建物)を解体中に結局は平城京に都を戻す勅を出したりしている。今に伝わる平城宮跡に大極殿が新旧2箇所あるなど変則的な形になっているのはこの後遺症である。




さてここで注目すべきなのは平城宮の細かい建物の配置よりも、これだけ費用と労力のかかる大事業をポンポンと連発できるその財力と動員力、つまり中央集権国家における権力の強大さだろう。実際のところ、聖武天皇は恐るべき分量の土建屋事業をやってのけている(…やったと言うより発注しまくった、というべきか ^^;)。

まずは東大寺大仏の建立の勅。次に全国に国分寺と国分尼寺の建立の勅。なんと全国68箇所、尼寺とセットで合計136箇所である(※)。さらに都を短期間に4回も移転(平城京 → 恭仁京 → 難波京 → 紫香楽宮 → 平城京)している。これが740〜745年のわずか5年ほどの間に集中的に行われている。いずれも国家財政を破綻させかねない規模の大事業であり、しかしながらその根拠は個人的な思い込みレベルというシロモノである。内容を聞いた財務担当官僚は真っ青になっただろうし、労働力として狩り出される民衆もたまったものではなかっただろう。

この野放図な突っ走り方は、教科書的に記述すれば国家鎮護のために篤(あつ)く仏法に帰依し・・・ということになるのだろうけれど、いくらなんでもやりすぎの感がある。…というより、止める奴はいなかったのか(^^;)。

※国分寺、国分尼寺の造営は勅ののち数十年にわたって継続した。68ヶ国とは以下の通り。
陸奥、出羽、下野、上野、常陸、上総、下総、安房、武蔵、相模、佐渡、越後、越中、越前、加賀、能登、信濃、甲斐、飛騨、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、美濃、伊勢、志摩、近江、伊賀、若狭、丹後、丹波、山城、摂津、河内、和泉、但馬、播磨、淡路、紀伊、備前、備中、備後、因幡、伯耆、美作、隠岐、出雲、石見、安芸、周防、長門、阿波、伊予、讃岐、土佐、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩、壱岐、対馬




現在復元中の第一次大極殿工事現場から朱雀門を眺めてみる。あれだけ巨大な門がこんなに小さく霞んで見えるほどに、平城宮は巨大である。

面積は130ha、サッカー場(FIFA公式仕様)なら180面分、東京ドームなら28個が並ぶ計算だ。平城京全体の面積になると2500haもあり、重機のない時代にこれを人海戦術で原野から開墾、整地して都市にまでするのは並大抵のことではなかっただろう。




正直なところ、ここに来るまでは平城宮、平城京がこれほど大きいとは実感していなかった。

当時の日本の人口は、およそ400〜500万人。現代日本の約1/30の規模である。これを作るために、そのうちのいったい何万人が動員されたのだろう。

律令の税制、租/庸/調/雑徭のうちの雑徭は年間60日の労役であり、庸は労役を物納で代用するものだが、そもそも "労役" という項目がなぜ必要だったのか、この巨大土木の跡地をみるとなんとなく見えてくる。動員された人々が本当に期限を守って郷里に帰してもらえたのか、その実態を伝える資料を筆者は知らないが、逃亡、逃散が相次いだと言われる背景には相当過酷な現実があったように思われる。民衆の負担としてはこれ以外に兵役の義務などがあり、これらの重い負担がのちに律令政治を崩壊に導いていく一因になる。

※ちなみに、多くの人が誤解しているのだが、奈良時代にあっても 「あをによし」 の都市景観はきわめて例外的なものであって、一般民衆はいまだ竪穴式住居に住んでいる。実際には広大な縄文、弥生の風景の中に一点豪華主義のように壮麗な寺社建築があるというのがこの時代の風景といえるだろう。




さてその聖武天皇は、散々なまでに仏教に入れ込んで浪費を繰り返した果てに、なぜか大仏開眼を待たずして退位してしまう。一説によると周囲の止めるのも聞かずにいきなり出家して皇位を放り出した…とも言われるが、真相はよくわからない (歴史家というよりは精神科医に分析してもらったほうがよかったりして ^^;)。

跡を継いだのが、娘の阿倍内親王=孝謙天皇である。749年のことであった。




この頃、道鏡は東大寺写経所の請経使である。初代別当良弁に付いて梵語(サンスクリット語)などを学んでいる。このときの師、良弁の推挙によって、のちに道鏡は孝謙天皇と運命的な出会いをするのである。今の感覚で言えば東京大学学長の推薦を受けるようなもので、成績は優秀だったようだ。




一方、女性としてはじめて "立太子" して皇位についた孝謙天皇は、決して皆に愛される存在ではなかった。当時の政権中枢である左大臣=橘諸兄などは女性の皇位継承に批判的だったとされるし、皇位を狙っていた他の皇子たちの不満も一方ならぬものがあったようだ。

それを抑えるためだろうか、孝謙天皇の母=聖武上皇の妻である光明皇后は皇后宮職(皇后の身の回りの世話をする役所)を大幅に拡張し、事実上の行政機能をここに集中してしまった。孝謙天皇には事実上何もさせず、皇后(皇太后)が実権を握る仕組みを作ったのである。そしてこの皇后宮職の長官に任命されたのが、稀代の才人藤原仲麻呂であった(※伝説の巨根の人その1)。

藤原仲麻呂は光明皇后の威光を背景に、すべての役職を中国風の名前に変えるなど極端な中国化を進め、皇后宮職は紫微中台(しびちゅうだい)と改められた。紫微とは直接的には北極星のことであるが、中国思想では北極星は天帝ともされているので、紫微中台とは "天帝の座する役所" と解するのが適当だろう。それにしても凄まじく尊大な名前をつけたものである。




藤原仲麻呂は前時代に権力を握っていた藤原四兄弟のひとり武智麻呂の息子である。四兄弟が天然痘で全滅して以降 政治権力は皇族側の橘諸兄が握っていたが、女帝即位をめぐって賛成派/反対派が入り乱れた結果、仲麻呂の台頭によってふたたび藤原氏側の発言力が増した格好になった。

藤原仲麻呂が光明皇后に見出されたのは、その才覚によってであった。続日本記によれば 「近江朝内大臣藤原朝臣鎌足曾孫。平城朝贈太政大臣武智麻呂之第二子也。率性聡敏。略渉書記。」 とある。頭脳明晰であり、特に数学に強かったという。このあたりの経緯を調べた限りでは、伝説のように巨根だから重用されたというわけではないようだw




ただしこの藤原仲麻呂は、頭のキレる才人ではあったが、キレすぎて怖いところがある。もともと橘諸兄の元で才覚をあらわしその推挙で官位を引き上げてもらったにも関わらず、上司を無視して自分の名前で公文書を発行するなど専横が目立ち、光明皇后直下に付くやいなや、かつての恩人=橘諸兄に天皇呪詛の罪をかぶせて追い落としてしまうのである。

これに対し、橘諸兄の息子=奈良麻呂がこれに不満をもって反撃を計画した。橘諸兄/奈良麻呂親子はもともと女帝擁立反対派である。計画の内容は、藤原仲麻呂を殺害し、さらに女帝である孝謙天皇を退位させて反仲麻呂派の皇子たち…安宿王/黄王/塩焼王/道祖王の候補者の中から天皇を選ぶというものであった。橘奈良麻呂の乱と呼ばれる事件である。

しかしこれも藤原仲麻呂は先手を打って押さえ込んでしまう。計画段階で密告情報をもとに容疑者の身柄を拘束し、拷問によって計画の全貌を "自白" させた上で、これを機会に反対派440名余を大量粛清、さらには自らの親類である大炊王(のちの淳仁天皇:このときは藤原仲麻呂の屋敷に居候している)を皇太子に据えるなど、まるでオセロのようなどんでん返しと血の粛清で政敵を一掃し、皇太子の外戚としての地位も得てしまった。(名目上は孝謙天皇の敵を片付けた、ということになるのだが…ついでに処分されちゃった人も、いるだろうなぁ ^^;)




一方の孝謙天皇は、勝利した側にありながら乱後は難しい立場に立たされていた。藤原仲麻呂によって反対派が一掃されたとはいえ、これだけ大勢の者が自分を支持せず敵に回ったという現実は、女帝として君臨する彼女の孤独をいっそう深めたことだろう。

さらには女帝の宿命(→皇統は男系が継ぐ原則)として、結婚も子を産むこともできない=つまり自らの血縁を後世に残すことができないことが、皇位継承(皇太子擁立)をめぐって政争の繰り返される朝廷内への醒めた感覚を涵養したかもしれない。いずれにしても孝謙天皇に味方をする者は少なく、明るい未来は見出し得なかっただろう。

そして孝謙天皇は、事ここに至りついに退位するのである。後を継いだのは藤原仲麻呂の目論見どおり、大炊王=淳仁天皇であった。




さて、男根型の金精神を追いかけている筈なのにすっかり奈良時代史の概説になってしまっているが、まあ中央政界の粛清史に触れないことには孝謙天皇と道鏡の関係を説明できないので多少の我慢をお願いしたい。そろそろ主役の登場である。

<つづく>