2008.04.05 金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:奈良編 (その3)




■2日目




2日目の朝がやってきた。昨日は渋滞でえらい目に遭った奈良公園方面だが、観光地の基本セオリー=早朝に現地入りを忠実に守って、朝のうちに駐車場に滑り込んだ。それにしても奈良公園はとにかく鹿だらけだな・・・




途中、氷室神社で枝振りのよい枝垂れ桜の古木を撮る。物見遊山的にはいろいろ見どころ盛り沢山の奈良公園周辺だが、今回は道鏡がテーマなのでそのへんはばっさりカットしよう。




さて奈良公園方面の見所といえば、東大寺、興福寺、春日大社である。奈良市街地はこれらの寺社に隣接している。…というより、都が平安京に移ったのち、条坊内の大部分の施設も新都に移転してしまい、有力寺社周辺のみが市街地として存続したのである。このうち、興福寺と春日大社が藤原氏の氏寺、氏神であり、東大寺が聖武天皇の遺産だ。

それにしても、平城宮の広さと比較してもこれら寺社の敷地面積は相当なものである。かつての権勢はいかばかりのものだっただろう。




■東大寺



いよいよ東大寺にやってきた。無名時代の道鏡が所属した寺で、当時最高クラスの学府でもある。参道を進むとまず巨大な南大門が現れる。扁額には "大華厳寺" とあるが、東大寺は華厳宗の総本山ということになっているので別称としてこの名がある(別称のほうを玄関先に掲げるのもどうかと思うが ^^;)

華厳宗は東大寺初代別当良弁の招きによって唐から訪れた僧:審祥(しんしょう)によって伝えられた。736年のことといわれ、このときはまだ東大寺は前身の金鐘寺と称している。この審祥が行った華厳経の講義が元となってのちに華厳宗の本尊=毘盧舎那仏が "大仏" として建立されることとなる。




聖武天皇の大仏建立の勅は放浪中の743年であり、華厳宗の伝来からわずか7年後のことであった。当時としては唐から輸入した "最新の科学" に基づいて国家鎮護を図ろうとしたのだろう。

ちなみに玄奘三蔵が天竺から1300巻以上の経典を長安に持ち帰ったのが大化の改新の年(645年)である。玄奘はその後19年にわたって梵字の原典を漢字に翻訳する事業(プロジェクトチームを作ってシステマチックに分業したらしい)を行ったが、存命中に翻訳できたのは全体の1/3ほどであった。それが日本に伝わるまでのタイムラグがおよそ50〜70年…これはこの時代の文化の伝播速度としては割と凄いことではないだろうか。




ちなみに聖武天皇〜孝謙天皇の頃、唐は玄宗皇帝+楊貴妃の治世である。まさに唐の国力のピーク時に相当し、諸国がこぞって唐になびいた時代であった。天平文化とはそんな空気の中で花開いた大陸からの輸入文化であり、東大寺はその忠実なる申し子といえるだろう。




回廊の中は満開の花。そして東大寺のシンボル、大仏殿がその威容を誇っていた。現在の建物は宝永6年(1709)に立て替えられたもので幅が創建時の2/3に縮小されているが、それでも大建築であることに変わりはない。なお創建時には東西に高さ100m(!!)に及ぶ七重の塔を擁していた。とんでもない大伽藍だな…ヽ(@▽@)ノ

ここで大仏開眼供養が行われたのは752年4月9日、孝謙天皇即位後3年目のことであった。近隣諸国から賓客を招き総勢1万人とも言われる参加者のもと行われ、開眼導師はインド僧菩提僊那(ぼだいせんな)が務めた。奈良時代のもっとも華やかなイベントである。

開眼供養は孝謙天皇のほとんど唯一の仕事といっていい。光明皇后と藤原仲麻呂が実権を握っていたため、政治史における孝謙天皇自身の影は非常に薄いのである。やがて父である聖武太上天皇(上皇)が亡くなり、橘奈良麻呂の乱を経て藤原仲麻呂の力が全盛期になると、孝謙天皇は影が薄いまま退位してしまう。758年のことであった。

※聖武太上天皇の死後、その遺品の宝物が東大寺に寄進される。それが収められたのが正倉院である。




それにしても大仏殿は巨大だ。高さは46mあり、ほぼ10〜12階建てのビルに相当する。重機のない時代、人力と手工具のみでこれだけのものを作ったのだからその建築技術には恐れ入るしかない。七重の塔に至ってはこの倍以上の高さがあった。・・・どうやって組み上げたんだろう?




ちなみに大阪城の天守閣が40m(豊臣期)、姫路城天守閣が31m、名古屋城が36mである(※)。なんと1300年前の寺院建築のほうが近世:安土桃山の戦国の城より巨大なのだ。これは実物を見てみないと実感できない。ちょっとした驚きである。

※ここで挙げたのは石垣を除いた木造部の高さ。戦国末期の大型天守閣は土台として石垣を10〜20m積んだ上に建築されるので、石垣まで勘定にいれると大仏殿より若干高くなる。ただし七重の塔には及ばない。




大仏殿に入ってみた。…おお、やはりでかいぞ大仏様♪ヽ(´ー`)ノ

ところでこの盧舎那仏像、大仏殿の柱が視界を邪魔するので実は誰が撮っても同じような構図でしか絵にならない。ゆえに本稿も絵葉書カット風で申し訳ない(^^;)

源平期、戦国期に兵火で焼け落ち何度か修復されているため、現存するオリジナルの部分は台座と腹部、指の一部くらいである。江戸期の初期の頃は大仏殿が台風で倒壊し、首がもげた状態だった時期もある(顔だけ取って付けたように質感が異なるのはこのときの修復によるもの)。…が、説明しだすと長いので話を戻すことにしよう。




さて孝謙天皇+光明皇后側に付いて政敵を倒しまくった藤原仲麻呂だが、頭が切れるのは権謀術数だけではない。政策上もかなり有能な人物である。孝謙天皇が退位して孝謙 "上皇" となったのち、淳仁天皇のもとで聖武天皇時代の遷都令連発や東大寺造営などで疲弊した民衆の負担軽減を図る政策を進めている。



具体的には兵役/労役の対象年齢を繰り上げて老齢者の負担を減らし、雑徭として狩り出される日数も半減、さらに問民苦使(行政監察官のようなものか)を五畿七道に設置し、平準署(物価監視官のようなもの)を設置して穀物相場の安定などに努めている。また悲田院、施薬院といった福祉施設も設置し、こちらは光明皇后の慈善事業として有名である。これらは儒教思想に影響をうけた一種の徳治政策といって良い。

官職名を唐風に改めるなどやや極端な中国化を推し進めたきらいはあるが、行政能力が優れていたためパトロンである光明皇后の信任は相変わらず篤く、皇族以外で初めて太政大臣の地位に就き、恵美押勝の名を賜っている(→面倒なので本稿では藤原仲麻呂で通すことにするが ^^;)。




しかし、頭が切れすぎる才人は次第に暴走気味になってくる。折りしも唐では楊貴妃に溺れた玄宗皇帝の治世が乱れ、安史の乱(756〜763)が勃発、東アジアのパワーバランスが崩れ始めた。この機を突いて仲麻呂は新羅遠征(兵力4万人規模)を計画し、反対する孝謙上皇と対立する。結局この派兵は取りやめとなるのだが、これが藤原仲麻呂と孝謙上皇の不和のきっかけとなった。(※唐の反乱軍が日本に攻め寄せてきたときのため大宰府に警戒令は出しているが、結局は杞憂に終わる)

一方、仲麻呂はその間も着々と地歩を固めていった。参議、右兵衛、越前守、美濃守に息子達を配し、のちに自らは四畿内、三関、丹波、近江、播磨国の兵事使となって都周辺の軍事を掌握、さらには貨幣の鋳造権(!!)まで握ってしまった。現代風にいえば総理大臣+防衛大臣+経済産業大臣+国土交通大臣+日銀総裁+最高裁判所長官といったところだろうか。

※このへんは詳細に語ると前後状況がややこしいので 「とにかく対立したんだな」 くらいに理解して頂きたい(^^;)




道鏡登場前夜の孝謙上皇の境遇は少女漫画的なまでに不幸である。父である聖武天皇に皇太子たる男子がいなかった(正確には基王がいるが幼くして死亡)ために女性として初めて立太子し、実際に天皇となったものの、朝廷内には女帝反対派が多く味方はいない。橘奈良麻呂の乱などの大規模な女帝排除計画もあった。それでもなんとかやってこれたのは、母=光明皇太后が紫微中台に政治実権を集中し後ろ盾になってくれたからであり、藤原仲麻呂という天才的政治家が実働部隊として働いてくれたためでもあった。

しかし760年、その唯一頼れる母=光明皇太后が亡くなってしまう。気がつけば朝廷内の要職は藤原仲麻呂の血縁で固められ、実権はすべて仲麻呂が握っている。しかもその仲麻呂も、今では淳仁天皇というロボット君主を手に入れて孝謙上皇と意見が対立する場面が増えていた。もう頼れるべき者はなく、信頼できる側近もいない。

そんなときに登場したのが、道鏡である。おお、ようやく登場したなぁ…! ( ̄▽ ̄)




761年(天平宝字5年) 10月13日、孝謙上皇は保良宮 (→現在の大津市付近。平城京の副都として計画されたが、のちに未完成のまま放棄)に行幸中、病に倒れる。

どのような症状かはよくわからないが、前後の状況をみると今で言う鬱病のような精神疾患系のものではないかと筆者は想像している。もしかすると単に仲麻呂のいる平城京に戻りたくない理由として病を装っただけかもしれない(^^;)

※保良宮の正確な位置はわかっていないが、大津市国分に残る "へそ石" と呼ばれる礎石がその跡だといわれている。地図に示したのはその位置である。




ここに、看病禅師の肩書きで東大寺から派遣されたのが道鏡であった。看病禅師とは祈祷によって病気を治癒する僧職で、聖武天皇の時代には126人いたと言われる。この時点では道鏡はそのワンオブゼムに過ぎない。

道鏡は宿曜(すくよう)秘法を用いて孝謙上皇の看病をしたと伝えられている。どんな秘法だよ、とツッコミが入りそうだが、宿曜とは古代インド発祥の一種の占星術(月の運行軌道に沿って十二宮を配するのが西洋占星術とは異なる)のことであって、一部の人の期待するようなそっち系の秘術とは異なる。

要するに人の運命や性格、相性などを宿曜術によって読み解くものであって、実態としては人生相談とか悩み事のカウンセリングのようなものだったと筆者は考えている。これは想像に過ぎないが、おそらくは仏教説話の講義や故事などの豊かな知識を動員して、孝謙女帝の "存在の薄い人生" について 「そう嘆きなさいますな。 お釈迦様はその昔こうおっしゃいました、曰く…」 などと、ゆっくりと時間をかけてカウンセリングを重ねたのではないだろうか。権謀術数と殺し合いの日々で疲れ切った熟女(当時40台)には、きっとそんな癒しの時間が新鮮に感じられたことだろう。

男女の仲のようなナニのソレがあったかどうかについては、のちほど唐招提寺の項で考察することとして、ここではいったん置いておく。(巨根説が横行するのはこの付近の詳細が記録に残っていないためでもあるのだが ^^;)




ともかく、この道鏡の "看病" によって孝謙上皇は病(…というか離宮での引き籠もり状態w)から復活するのである。そしてこの出会いののち、孝謙上皇はすっかり道鏡のファンになってしまい、一介の僧侶である彼を側近として傍らに置くようになった。ようやく信頼できる相談相手をみつけられたためか、陰謀と粛清の続く朝廷の現状に嫌気が差したのか、はたまた妖しい恋路のなせる業(わざ)か、それは不明である。しかしこの保良宮の日々が、彼女の人生の一大転機となった。

なんと、孝謙上皇はこの道鏡との出会い以降、まるで別人のように積極的に行動するようになっていくのである。その変身具合は驚くほどであった。




これに危機感をもったのが藤原仲麻呂である。仲麻呂としては上皇が相談相手として道鏡を重く用いはじめたことを、新たな政敵の出現と捉えたようだ。

そしてついに、かつて何人もの政敵を葬ったのと同じように、藤原仲麻呂は今度は道鏡もろとも孝謙上皇をも排除しようと動き出す。(このあたりの展開は、下手なドラマより劇的でダイナミックだなぁ…^^;)



きっかけは、藤原仲麻呂が淳仁天皇を通じて孝謙上皇に 「道鏡への寵愛をやめよ」 と進言したことであった。これに対し孝謙上皇は激怒し、淳仁天皇から行政権限をとりあげてしまったのである。

当時、公文書に用いる玉璽(ぎょくじ:天皇の印鑑)は淳仁天皇が持っており、引退した身の孝謙上皇には何もない。しかしそれでも孝謙上皇は有力貴族達を私邸に衆参させ、なんと出家した尼僧の姿で現れ 「今後は重要案件と賞罰は天皇ではなく自分(上皇)が行う。天皇は小事のみ行え」 と言い放ったのだから仲麻呂は仰天した。影の薄かったはずの女帝の大変身である。これ以降、淳仁天皇は大きく影響力を失う。

これに対し仲麻呂は764年9月、孝謙上皇排除のために軍事訓練を装って諸国から兵を集め、挙兵の準備を始めた。これが藤原仲麻呂の乱の始まりである。




しかし大変身した女は強い。仲麻呂の動きを知った孝謙上皇側の動きは素早かった。まず淳仁天皇邸を急襲、玉璽(ぎょくじ)を回収して仲麻呂の官位剥奪を宣言、仲麻呂が平城京を脱出して宇治〜東国方面に逃れると、吉備真備を司令官に任命して追討軍を派遣した。仲麻呂一族の専横は同じ藤原氏の中でも不評を買っていたため、藤原氏の中にも官軍側に付く者が続出した。

吉備真備の用兵は素早く、まず東山道に抜ける要衝、勢多で橋を落として仲麻呂軍の東国方面(※)への進軍を止めた。次いで仲麻呂軍が転進し琵琶湖西岸を北上していくところを真備は東岸側を素早く進撃し、仲麻呂の息子=辛加知が国司を務める越前国国衙(仲麻呂は反撃の拠点として最終的にここを目指していたらしい)を急襲、辛加知を殺害して越前ルートを押さえた。仲麻呂軍は愛初関で官軍に破られたのち三尾で篭城したが、ついに撃破され敗北するのである。仲麻呂は一族44名とともに斬首され、一ヶ月におよんだ乱は終結した。淳仁天皇は共犯として "廃帝" とされ淡路に流された。

そして孝謙上皇は仲麻呂の勢力を一掃後、後継に誰かを "指名" するのではなく、なんと自らふたたび天皇位に就く(→称徳天皇)のである。この時点で女帝の再登板に反対する者はなく、孝謙上皇改め称徳天皇は道鏡とともに絶対的な権力を手に入れたのであった。まるで映画のような展開だが、奈良時代の政変劇は本当に山あり谷ありのドラマの繰り返しである。(NHKも篤姫なんて歴史上の活躍の少ないネタじゃなくて、称徳天皇で大河ドラマを作れば物凄い盛り上がるドラマが出来るのではないだろうか ^^;)

さてそれはともかく、以後は孝謙上皇を称徳天皇として話をすすめよう。

※藤原仲麻呂は近江国の鉄鉱山を2箇所下賜され、ここに経済地盤があったらしい




乱後、実権を掌握した称徳天皇は、道鏡を小僧都 (東大寺の初代別当:良弁と同位)に任命し、コンビを組んで仏教政策を強力に推し進めていくことになる。話が長くなるので途中を省略するが、道鏡はわずか2年後に太政大臣禅師、翌年には "法王" にまで急速な出世を遂げている。現代風にいえば巨大財閥の一介の係長が社長令嬢と知り合っていきなり取締役になってしまったようなもので、もちろん法王などという地位は律令にはなく称徳天皇が臨時で作ったものであった。

※乱の鎮圧に功績のあった吉備真備も大出世して最終的に右大臣にまで上っているが、ややこしくなるのでここでは言及しないことにする。




さてそれでめでたしめでたし…で終われば御伽噺(おとぎばなし)なのだが、現実はそう甘くない。仏教に深く帰依した称徳天皇+仏教僧:道鏡という組み合わせは、一般民衆にとっては決してやさしくなかったのである。

聖武天皇の時代、乱発される大寺院建立と大土木工事の連続で庶民の生活は疲弊していた。それが藤原仲麻呂の時代に多少緩和されたのだが、道鏡と称徳天皇は再度巨大寺院建立路線を復活させてしまう。なんと東大寺に対抗して西大寺という大伽藍の建設に着手するのである。民衆の 「またかよ!」 という嘆きが聞こえてきそうな話だ。

<次回 奈良編:後編につづく>