2008.05.18 金精峠に道鏡の巨根伝説を追う:下野編1 (その2)




■古町




福渡から3kmほど遡り、塩原温泉街のもっとも賑やかな一角が門前〜古町の町並みである。塩原の町並みの中心が元湯にあった鎌倉時代前夜の頃、ここには妙雲禅尼の草庵(後の妙雲時)のみがあった。町としての発展が始まるのは江戸初期の頃、会津地震/日光地震で旧塩原市街(元湯)が壊滅して以降のことである。




さてここにある道祖神を語るには、江戸吉原で人気のあった芸妓:高尾太夫(二代目)について触れる必要がある。芸妓の世界にも代々名前を継いでいく名門とか名人のようなブランドがあり、その中でも高尾太夫はトップクラスの人気を誇った。特に二代目(活躍期が万治年間なので万治高尾とも呼ばれる)の評価が高い。

高尾(二代目)は塩原出身の娘で、幼くして江戸吉原三浦屋の養女としてもらわれていった。しかし三浦屋は有名な振袖火事(1657年)で家屋消失…高尾はお家再興のためにと芸妓となり、その教養の高さから人気を博したという。しかしこの2代目高尾は歴代の中でもっとも才色兼備と歌われながら19歳(一説では22歳)の若さで没してしまう。この高尾を祀る塚は妙雲寺境内にある。そしてのちに高尾観世音菩薩と称する道祖神もつくられた。




それが古町のホテル:グリーンバレーの敷地内にあるのだが・・・どうも典型的な温泉街の秘法館だな( ̄▽ ̄)
聞くところによれば外見はそのまんまの金精神だそうで、なにゆえ名称が "観音様" なのかは不明である。




しかしそのホテルは現在は倒産しており、秘法館に取り込まれた金精神を目にすることは出来ないようだ。
うーん…残念w




…まあ、ここは由緒書だけ確認して先に進んだほうが得策かな(^^;)




■上三依




塩原温泉街を後にして尾頭トンネルを抜け、会津西街道に合流すると、まもなく上三依植物園に差し掛かる。ここは会津西街道と今尾頭道(塩原に抜ける峠道)の分岐点にあたり、ちょっと変わった道祖神が見られる。




駐車場から橋を渡って植物園に至るまでのこの砂利道が、かつての会津西街道の痕跡である。季節柄、木漏れ日が非常にイイカンジで超絶爽やかだったヽ(´ー`)ノ。あたりにはまだ5月だというのにもうセミの声が聞こえており、すっかり気分は高原の避暑地といったところだ。




これは植物園の門前にある七滝。ここから上流側が尾頭峠に向かう道になっている。かつて川に沿って降りてきていた峠道(現R400)は、現在では自動車の通りやすいように大きく北側に迂回して500mほど北側でR121(新・会津西街道)に接続している。




滝の脇に、旧尾頭道の痕跡(左側の小道)が残されている。現代の道路規格から見れば狭くみえるが、江戸期以前はこれで充分幹線道路として通用した。当時の交通手段といえば馬か徒歩であって、自動車の通れるような道幅は必要とされなかった。「せめて馬車の通れる道幅を確保しよう」 と幅4mの規格で街道が整備されたのは明治維新以後のことである。※新道は北側に迂回しているためここには抜けてきていない。




旧道に入って100mほどで渡河ポイントに遭遇。一枚岩の川床は平坦で、水深は20cm程度しかないため徒歩でも渡河は可能だ。川向こうまで轍(わだち)が続いているところをみると、今でも山仕事の軽トラなどが入っているらしい。



そんな渡河点脇の崖の上に、目標の道祖神が鎮座している。なんと娘が男根を抱えているという珍しい形式の像である。道祖神は男根型から徐々に人型に移り変わっていったとする説が有力なようだが、これはその中間的な姿といえるだろうか。

建立の意図としては設置の位置からみて渡河点の安全祈願、もしくは上三依集落を外部の悪霊/疫病から守る遮りの神としての役割が祈願されたように思われ、温泉の金精神とは若干性格が異なるようだ。




道祖神には文政六年(1823)の文字が見える。時代としてはペリー来航の30年前に相当し、江戸時代も後期となって物流や人の往来も盛んだった頃である。

この頃は会津〜江戸を結ぶ街道として会津西街道の五十里ルート、塩原ルート、さらに三斗小屋経由の会津中街道が物流路としての生き残りをかけて競争していた。サービス合戦の果てには、高原宿まで上らず谷底の川治を経由してショートカットするルートも開削された。この影響でついに高原宿が立ち行かなくなって消滅したのは幕末の文久3年のことと伝えられる。




教育委員会の解説文によると、この形式の道祖神は長野、群馬など道祖神の多い地域と比較し
ても貴重なものらしい。那須塩原市も、これに倣って岩乃湯の道祖神(金精神)に保護の手を差し伸べてくれないものかなぁ。




道を引き返して、会津西街道との合流点まで戻った。今は植物園の敷地になってしまっているが、ここには熊野堂が祀られていて、事実上の道祖神のような役目をしていたらしい。




現在では御神体は木札になってしまっているが、左側に見える錆びた刀が昔の御神体である。なぜ刀?…というところまではちょっとわからない。




■川治




上三依を過ぎて、R121=会津街道を南下する。五十里湖に水没した木々が浮島のようで面白い。



この時期、平地より3週間ほども遅れて藤の花が満開になっている。山に自生する株で、会津西街道沿いを走るとしばらくはこの藤とヤマツツジが交互に現れて美しい。




さて五十里ダムを過ぎるとまもなく川治温泉に入る。かつて高原宿を通っていた街道が谷底を通るようになったのは、ここに温泉が発見され人の往来が始まったことに端を発する。

温泉の発見は第一次五十里湖が台風による増水で決壊 (享保8年=1723年) した後のことである。龍王峡の渓谷もこのときの濁流で相当河床が削り込まれたと言われ、偶然の産物とはいえちょうど湯脈が露出した。川治温泉の誕生はそんな自然災害の副産物だったといえる。




さてここでは金精神は旧い集落(飲食店街になっている)の奥まったところに鎮座している。…が、ここでは金精神よりも女陰をかたどった 「おなで石」 の方が有名になってしまった感がある。観光案内にも載っているので場所は誰でも容易に知ることができる。




これが金精神の祠である。白蛇の絵馬が見られるあたり、水神と習合しているようにも思えるがその性格はよくわからない。




金精神をネームバリューで凌駕している 「おなで石」 はこちら。金精神の祠の前に置かれている。昭和も戦後になってから洪水の後に河原で発見された陰石で、これを撫でながら祈願すると子宝、縁結びに霊験ありとされている。まさに現代に生きる性神である。




本家の金精神はもっと起源は古いが、どこまで遡れるかは資料がない。といっても川治温泉は江戸時代の享保年間の開湯なので、それ以降の建立と考えるのが妥当だろう。




それにしてもまあ、御神体の数の多いこと…(^^;)


<つづく>