2008.07.26 伊豆:初島 (その1)




家族サービスをせよという天の声が響いたので、伊豆の初島に行ってまいりましたヽ(´ー`)ノ



初島は熱海温泉の沖合い10kmほどに浮かぶ直径1.2km、周囲4kmほどの有人島である。名の由来は "伊豆諸島の最初の島" という意味合いと伝えられ、縄文時代から人が住むなど歴史は古い。しかしあまりにも伊豆半島に近いため、現在の行政区画上は伊豆諸島(東京都)とは区別されて熱海市に属している。

生産性が限られることから、古くからのしきたりで島民は人口調節を行ってきた。集落の戸数は江戸時代以降41軒で、嫡男以外は島を出て行く掟があった。現在では島には高校がないため子供たちは中学を卒業すると全員が島を出て本土の高校に通い、そのまま就職する者が多いため20代の在住島民はいない。

本土から気軽に渡れる離島として最近はリゾート開発に力を入れているらしく、今回の訪問は歴史的経緯よりはその文脈上でチョイスしてみたものだ。ただし非常に面白い島ではあるので、今回は筆者の趣味に合わせて女子供向けのチャラチャラした展開は大幅にカットしての報告としたい(^^;)




さて季節は夏休みなので首都圏は猛烈な渋滞が予想されている。そんなわけで午前2時頃に那須を出発し、移動については夜が明ける前に都内を抜けてしまう作戦で挑むことにした。早いとこ外環道が完成してくれるとわざわざ都心を通らずに済むのだけれど…工事は遅々として進んでいないようだなぁ。




そんな訳で、日が昇る頃には小田原付近の海岸に抜けることができた。微妙に雲が多いのがアレだけれど、海なし県の住人にとってやはり "水平線のある風景" というのは新鮮である(^^;)




せっかくなのでビーチラインで海岸線を縫うように南下していく。…が、途中の景色はカット(^^;) 道路情報で本日は晴天なので渋滞が…と言っているので一目散に熱海を目指したのであった。




■熱海




ようやく拠点その1の熱海に到着した。到着は午前7時半頃で、海岸の有料駐車場が満杯になるぎりぎりのタイミングだった。やはり早朝移動でやってきたのは正解で、到着があと30分も遅れたら観光渋滞の中を駐車場を探して数時間…という悲劇に見舞われるところだった(^^;)。




公営駐車場は再開発して間もない?と思われるヨットハーバーの地下に作られていた。お陰で地上は散策の出来るちょっとした公園のようになっていて、見通しは割といいカンジだ。

ただ熱海の市街地は実はソープランドなどの風俗店が目立って多く、ちょっと家族連れで散策できるような雰囲気ではない。それなりに健全な風景を眺めようと思うと本当に海岸沿いを海のほうだけ見て歩かなければならず、たまらず熱海城方面に逃げようかとロープウェーの先をみると秘宝館(アダルト施設)を通らなければ登れないようで、結構トンデモな風俗都市なのである。これは想定外だったな・・・( ̄▽ ̄)

※風俗店が増えたのは昭和30年代、団体旅行がブームになった頃だといわれている。お陰で熱海の観光地としてのイメージは一時期非常〜に低下して、近年ようやく持ち直してきたらしい…が、それでもかなりドン引きする( ̄▽ ̄)




さて海浜通りで最も有名なのは、明治時代の小説:金色夜叉(尾崎紅葉)の登場人物、貫一・お宮の像だろう。海岸線の一番目立つところに "お宮の松" とともに建っている。ちなみに題名の金色=ゼニ、カネの色であり、夜叉=鬼と思えばよい。

話の筋書きは、もうメロメロの三角関係劇である。貫一とお宮は婚約者同士であったが、お宮の両親は貧乏学生の貫一ではなく資産家の富山唯継なる男に娘を嫁がせてしまう。怒った貫一は 「そーかい、カネかよ!」 と学業を捨てて高利貸しとなる道を選び、富山とお宮に復讐するために守銭奴人生を歩む。しかしお宮は貫一に未練があり、その後はもう一人、貫一に惚れた赤樫満枝なる第3の女性も登場して三角関係のメロドラマが延々と展開し、最後は女同士の殺し合い、身投げ…と展開する悲劇譚だ。読売新聞に明治30年から断続的に連載され、当時大ベストセラーとなった。

銅像になったのは 「そーかい、カネかよ!」 の別れの場面で、熱海の海岸が舞台となった有名なシーンである。これが大いに大衆にウケて、熱海は観光地としての知名度を増したのであった。

※ちなみに物語の執筆は筆者の地元にある塩原温泉で行われ、のちに塩原のシーンも書かれたことから、こちらでも尾崎紅葉は里の恩人として親しまれている。




さてそんなわけで海岸沿いだけを集中的に歩く(^^;)。整備されたヨットハーバー付近を見ている限りにおいては、気分はすっかり南国ムードというか、黒潮の恩恵ここにあり…といった印象だ。断続的にソテツと椰子の並木が続いていて、こういう演出は旅の雰囲気を高めるのに非常によろしい。




初島へのクルーズはオンシーズンということもあって結構な混雑だった。1時間毎の便が1回待ちで、乗れたのは10:30の便…ちょっと時間的に待ちが厳しい(^^;)




そんな訳でいよいよ出航。

海側からみる熱海は、きわめて狭い急斜面にホテル群が林立している特異な地形である。交通の便が良い割りに収容キャパシティはそれほど大きくなさそうで、むしろ周辺の湯河原、網代、伊藤などの温泉群への "玄関口" として理解したほうがよさそうな気がする。そういう筆者もほとんど素通りで、寝床を確保しているだけだったりするのは内緒だw




■初島へ・・・




それはともかく、いったん沖へ出ると潮風が心地よいヽ(´ー`)ノ
かなりべた凪ではあるけれどヨットなどもまったりとクルージングしている。やはり海はこうでなくては…♪




熱海港から初島までは30分弱の船旅である。湿度は相変わらず高く、陸地(伊豆半島)側はモヤっと感のある霞に包まれているが、洋上は割と視界が通っている。天気予報では気温は35℃くらいまで上がるそうなので、暑さに対してはちょっと覚悟はしておこう。




そして見えてきた初島。逆光条件というのもあるけれど、やはり遠いと霞の中だな・・・




近づくとだんだん全貌がみえてくる。直径1km程度の小ぢんまりとした島である。右に見える大きな建物はリゾートホテル、左側の緑の屋根は中学校らしい。標高は50mほどで全体的に平坦で、周囲は崖になっており海岸は岩がゴロゴロと転がっている。砂浜は存在しない。

※運が良いと定期船の周囲をイルカが伴走したりするそうなのだが、この日は残念ながら見られなかった(^^;)




接岸すると、満員の観光客がぞろぞろと降りていく。定期船クラスの中型船が1隻入港するともう港は一杯になってしまうので、船は伊豆半島に戻る客を乗せるとすぐに出航してしまう。桟橋の外で見せる水上ドリフトターンは山国の住人からすると拍手ものの操船に見える…のだけれど、あまり反応している人がいないというのは、案外基本スキルで珍しくはないのかな…(^^;)




さて、もし今回が一人旅であれば神社仏閣から攻めるところなのだけれど、天の声に従って初島アイランドリゾートを目指すことにする。

この島は戦後すぐの昭和20年に島民が一致して "島外の資本には土地は売らない" との誓約書を交わして団結しており、現在でも売地/売家/借家は存在しない。そこに外部資本が入り込んだのは東京オリンピック直後の昭和39年で、土地はあくまでも賃借で住民が経営にも参画するということで開発許可を出したらしい。これ以降、島の経済は観光産業型に転換していったようだ。




島民の住居は港の周辺に集中している。車は軽トラ程度しかなく、観光客は皆徒歩で移動している。観光施設に続く道沿いには飲食店街が並び、観光客に海の幸を提供していた。




それぞれの店舗はどうやら漁師の直営らしい。その日のネタは活魚のまま生簀に入れられており、その場で捌いて提供されている。なおここには写っていないが、店の目の前の岩場ではウェットスーツ姿の観光ダイバーが多数海に入っていた。どうやら伊勢海老などが捕れるらしい。




集落を過ぎると、島を半周する通路が一本道で続いている。




海岸はご覧の通りの岩場の連続である。潮の流れが強いせいか、砂浜はまったくない。




これは蘇鉄(そてつ)。やはり椰子科の植物は南国らしい情緒があるな…ヽ(´ー`)ノ




■磯内膳の墓




ほんの数百mほどの道のりではあるが、周囲には古い時代の名残がいくつか散見された。これは小田原から流罪にされた武士、磯内膳の墓。

磯内膳は相当に粗野な問題児だったらしく、流罪となって島に来たのちも島民に因縁をつけて果し合いを迫った等の逸話が残っている (…もっとも島民が覚悟を決めて斧を研ぎ出した姿を見た途端、"そなたの覚悟の程はわかったので許す" 云々…と言ってヘタレたそうだけれど ^^;)。 その後も島でたびたび問題を起こした内膳は、ついに切腹を命じられ、小田原の見える場所に葬ってくれと言い残して果てた。

この逸話から判るのは、熱海から10km程度の距離とはいえこの島が流罪の地として認識されていたということだろう。流刑地としての伊豆諸島は平安の頃から高貴な身分の者の遠島先として使われていたが、まだ多数の候補地のひとつに過ぎなかった。江戸時代になると主要な候補地となり、罪状の重さによって近郊〜遠方の島々が選定された。そうすると、磯内膳の罪状は実は島流しの中でも相当に軽い部類であったのかもしれず、割と温情判決でこの島に来たのかもしれない。




■石丁場跡




周辺には、江戸城修築の際に献上する石を切り出した跡もみられた。

伊豆国は江戸時代は幕府直轄地(天領)であり、初島もそれに準じていた(一時期小田原藩領となるが再び天領となっている)。伊豆半島東岸一帯は良質な石材の産地として知られており、初島の石丁場もそのうちのひとつという位置づけだったらしい。




この周辺の丸石とはあきらかに異なる角ばった石が、切石の残骸ということになるのだろうか。




こちらはノミ跡が割とよく残っている。いずれにしても、切石だという認識をもってよく見ないと気がつかない程度ではあるけれど…(^^;)

<つづく>