■ 2011.07.23 復活のアクアマリン、そして福島原発に向かってみる:後編 (その3)




■新舞子浜


 
塩屋崎を出て、さらに北を目指す。平薄磯から海浜道路(r382)に抜けるコースが通行止めなので、ふたたび r15へと迂回して途中から合流してみた。

海浜道路は写真の付近では道路が若干高い位置にあったのか、津波を被った形跡がほとんどない。住宅地の被害と同様に、道路の破壊も津波に飲まれたかどうかでその状況が大きく異なり、クルマで走っていると無傷の部分と破壊された部分が交互に現れる。天国と地獄の境界はほんの数メートルの高さの違いであり、それを決めたのが神なのか悪魔なのかは知らないが、きわめて理不尽な線引きであるのは間違いない。


 
やがて新舞子浜公園に到達…したのだが、この付近はモロに津波を被っているようだった。路面の陥没やら流失が目立ち、危険箇所を示す三角ポールがあちこちに置いてある。壊れた路面はそのままで、4ヶ月以上経っても工事には手が回っていないらしい。


 
公園に隣接する海水浴場の駐車場に入ってみると、アスファルトがことごとく剥がされてボロボロになっていた。

ちなみに写真右側に見える建物は公衆トイレで、これが破壊されていたら中味がぶちまけられてエライこっちゃになっていた筈なのだが、どうやら無駄に堅牢に作られていたらしくそのようなエマージェンシーな事態には至らなかった。名も知らぬ設計者氏の先見の明に光あれ。


 
さて津波は堤防を乗り越え、同じ高さにあった駐車場を破壊して、さらには防風林をなぎ倒しながら内陸側の公園の方まで流れ込んでいったらしい。

右奥に見える海浜道路の路面からこの駐車場(堤防上面とほぼ等しい)までは3mほどの高低差がある。道路面の標高がやはり3mほどなので、この付近では津波の高さは少なくとも6〜7m以上あったとみてよいだろう。

ちなみに防風林の樹林帯の中を走る海浜道路は基本的に一本道で分岐が少ない。もしここを走っているときに津波に襲われたら、筆者は逃げることも出来ずにお陀仏になっていたことだろう。


 
砂浜に下りてみると、以前はきわめて平坦に広がっていた砂浜が、場所によって大きくえぐりとられたような地形に変貌していた。あたりには人影らしいものは見えない。


 
実を言えば筆者は、夏の海水浴のシーズンになればチャレンジャーなサーファーの一人くらいは居るかも…などと多少の期待をしていたのであった。しかし現実はそれほど甘くはなかったようだ。


 
足元の砂は、粗い粒と細かい粒が不思議な文様を描いていた。粗い砂の作った凹凸模様の谷間の部分に目の細かい砂が溜まってウロコ状の波模様をつくっている。風で出来たものではなく、明らかに水によって作られたものだ。津波がゆっくり引いていくときに出来たものか、あるいは雨水によるものか…。なんともよく分からないシロモノだな…


 
以前浜茶屋のあったあたりまで歩いていくと、一面に瓦礫が散乱していた。建築材に混ざって大量の漁具らしいものも打ち上げられている。


 
普段なら到底波が来そうに無い距離感のところに、ブツ切りになった漁船の残骸が打ち上げられていた。強化FRP製の船体がこんなバラバラになってしまうのだから、津波のエネルギーというのは物凄いものらしい。


 
海水浴場の休憩スペースに作られていた石造りのオブジェは、土台だけを残してなくなっていた。その土台も今では砂ですっかり埋もれており、その砂の堆積具合や濡れ具合を見ると、満潮時には半ば水没しているように思える(※撮影は引き潮の時間帯である)。この状況をみると、やはりここでも地盤沈下の影響が色濃く見えているといえそうだ。

東北地方での震災による地盤沈下は、国土地理院の発表によれば福島県内では相馬市のみで確認されており、その量は最大29cmとされている。しかし実際にはアクアマリンふくしまの復興ブログで満潮時の埠頭が水没寸前になっていたり、永崎の砂浜消失や新舞子のモニュメント水没具合から考えても、いわき市周辺での沈降量はもっと大きいような気がする。かなり大雑把な感覚になるけれども、やはり1m程度は沈んでいるように思えてならない。


 
ただ新舞子の砂浜はもともと奥行きが70〜100mほどもある広大なものである。堆積している砂の量も極めて膨大で、多少の地盤沈下や砂の侵食があっても浜全体の存在が脅かされるほどの状況ではない。大型の瓦礫さえ片付けてしまえば、また以前のような風景に戻る日もそう遠くないように思える。

…筆者にとっては、それが確認できただけでもここに来た価値があった。…少なくとも来年以降も訪れる理由ができたという点で、大いなる収穫なのである。



■防風林


 
新舞子浜の状況を確認した後は、四倉に向かってさらに北上していく。ただし海浜道路はあちこちで通行止めになっており、北に向かうには内陸部を走るR6への迂回が必要だった。

それはともかく、R6に抜ける前に防風林の状況について少々書いておきたい。

上の写真で道路の左右に見えているのが防風林として植えられている松 (おそらく黒松) である。もともと松は塩害に強く、今回の震災でも津波で大量の海水を被ったにも関わらず、枯れることなく樹林帯を維持している。


 
津波をうけた防風林は、最も海側の10〜20m程度の部分でこそ押し倒されているのだが、それより奥側は実によく耐えた。アスファルトやガードレールなどが根こそぎ破壊されているのに、地に根を張った松の幹はしっかりと残って乱杭として機能し、日本の伝統的な治水工法でいう大聖牛(おおひじりうし)の役割を果たしたように思われる。

大聖牛って何?…という方は、"大聖牛 信玄堤" などのキーワードで検索してみると面白い記述に出会うだろう。21世紀になっても温故知新がリアルに通用することがわかる良い事例だと思う。


 
これはR6に向かう道路である。津波は手前側から奥側に向かって進んでいったのだが、手前側の路面がボロボロになっているのに対し、防風林の奥側部分は破壊の度合いが低いことがわかると思う。

同じ水を被るにしても、津波の濁流をモロに受けるのと勢いを殺してじわじわ浸水するのとではこれだけの差を生じている訳で、これが防風林が津波に対してみせたもうひとつの防災効果なのである。


 
松林の手前側では、津波で流されたクルマがいまだに引っかかっていた。海岸の堤防からの距離はせいぜい100m程度の場所であり、押し寄せた海水の水深は数m以上はあっただろう。これを松林が減衰させたわけだ。


 
ちなみに新舞子浜の海浜公園から最も近い集落は平藤間といい、海岸堤防からの距離はおよそ500mで津波はここまで到達しているのだが、家屋の倒壊はなく死者は一人もでなかった。

…素人的な感想ではあるけれど、防災を考える上でこの事例 (=防風林が津波の破壊力減衰にも役立つということ) はもう少し真面目に研究されてもいいのではないか…と筆者は思ってみた。復興計画には 「木を植える」 という単純だが効果の高い施策をぜひとも盛り込むべきなのだろうとも思ってみた。

※写真の市街地はもしかすると平藤間とは違うかもしれない(^^;) 場所はそれほど離れていないはずだが…(汗)




■四倉


 
さて次の経由地は四倉である。ここも砂浜の美しいところで、幹線道路である国道6号線が港に直結しており、海浜道路=r382もここで港に直結している。戦中から昭和30年代の高度成長期には付近の鉱山からセメントや銅を採掘してここから運んだそうで、この辺りでは小名浜に次ぐ活気のある街であった。また古くから漁業基地でもあり、東日本有数の鰹節の産地でもあった。

その四倉は、津波で市街地の1/3を破壊されている。さらにはここは幹線道路であるR6がもっとも海沿いぎりぎりを通る区間で、運の悪いことに泥と瓦礫が散乱して不通となったタイミングで原発危機が起こった。富岡、楢葉、広野といった原発に近い町からの避難民はR6を下ってきてここで渋滞に巻き込まれ、迂回路を求めて右往左往したという。


 
筆者は四倉の住民もこの放射能騒ぎで大勢が避難したのだろうと思っていたのだが、立ち話で聞いた限りでは住民の転出をより直接的に加速したのは断水の影響であったらしい。四倉では幸い停電はなかったそうなのだが、水道は全域で使えなくなり復旧までに1ヶ月ほどもかかった。この間、飲料水程度の給水サービスは行われたそうだが風呂や洗濯に回す水はなく、生活はきわめて不便になった。

放射能と断水と、それぞれがどの程度の影響であったのか正確なところはわからないが、これらのダブルパンチによる破壊力は凄まじく、4月中ごろに現地を訪れた人のブログをみると 「夜間に明かりがついている住宅の割合は10軒に1軒くらい」 との記述がみえる程度にまで人口は激減したらしい。


 
しかしその後、水道の復旧工事は4/10頃までには一巡し、現在では住民も徐々に戻りつつある。災害現場を行くこの種のレポートではともすると "破滅と終焉のストーリー" というものを書いてしまいがちなのだけれど(^^;)、何でも放射能に絡めて理解しようとするのは誤りだろう。水道復旧後の四倉は、震災以前に比べれば人口が減ったかもしれないけれども、"町が死んだ" というほどの世紀末感は漂っていない。


 
さてここは四倉駅付近のR6である。海岸からはおよそ400mほどで、津波は交差点のすぐ近くまで来たそうだが駅までには達しなかった。常磐線は現在、この四倉駅から上野までが折り返し運行されている。

この鉄道が運行しているという事実が住民に与える安心感というのは計り知れない。それは日常が日常であることを示すバロメーターのようなもので、もし常磐線が止まったままであったなら果たしてどれほどの住民が避難先から戻ってきたことだろう。


 
そのままR6を進んで津波を受けた地区に入ると、街の雰囲気は一気に暗くなる。

ここは四倉港前のR6界隈だが、家屋の補修はまだ手がついておらず、私有地内の瓦礫はそのままだった。津波の直後はなかなか水が引かず腰まで浸かりながら避難したという話も聞いたが、道路上の瓦礫や泥はもう片付いている。ただ損壊家屋には人は住んでいないようだ。


 
港の入り口には道の駅の残骸がみえる。通りすがりの人に聞いてみると昨年オープンしたばかりでピカピカの店舗だったものが、津波で流された漁船が突っ込んで大破してしまったのだという。今では築30年の海の家よりも凄惨な状況に成り果てて、諸行無常の沙羅双樹…といった面持ちになっている。

ただし遅まきながら検討の始まった四倉の復興計画ではこの道の駅を "地区の復活を象徴するシンボル" にしようという話が持ち上がっているそうで、実現すればより一層ピカピカの施設が出来上がりそうな気がする。


 
かつてはカツオ船で賑わったという漁港は、稼動しているような雰囲気がなかった。埠頭では港湾内の瓦礫が引き揚げられたあたりで作業が止まっている。…この状況は、まだまだ続きそうだ。


 
ところで四倉港で目に付いたのは、大量のテトラポットであった。新品らしい色合いのものが埠頭の端から端まで一杯に並んでいて、これが実に壮観なのである。他の地区と違ってほとんど唯一 "復興に着手している" ような雰囲気が感じられる風景だった。

港湾の復旧、あるいは消波提設置の工事が本格化するとこういう製品の需要は間違いなく増加するだろう。聞けば四倉にはコンクリート製品を作る工場があるそうで、こういう需要に乗って少しでも地域経済が回っていけば良いと思う。


 
…さて時計をみると、もうそろそろ午後2時半…あまり時間的余裕も無さそうなので先を急ぐことにしよう。


 
四倉を出てからは、一路広野町を目指していく。時間があれば久ノ浜にも寄ってみたかったところだが、今回はカットだ。途中、ガソリンスタンドで給油をしながら聞いてみた。

筆者 「この先、どのあたりまでいけますかね」
店員 「あと10kmもいけないですよ」
筆者 「…その割りに、クルマが多いんじゃないですか?」
店員 「そりゃぁ、皆さん通ってますからね…」

通っている先とは、ひとつしかない。原発事故対策の基地になっている J-VILLAGE だ。…いよいよ、一般人が近づける限界が近くなってくる。 さて、この先はどうなっているのだろう。


<つづく>