2011.07.23 復活のアクアマリン、そして福島原発に向かってみる:後編 (その2)




■平薄磯


 
永崎を過ぎた後は、この地域のランドマーク=塩屋崎灯台を目指してく。本来ならいわき市方面から塩屋崎に抜けるには平豊間という海岸集落を抜けていくのが定番コースなのだが、この日は瓦礫の撤去作業中とやらでそこは通行止めになっていた。仕方がないので珍しく北側から迂回してみることにする。

それにしても…津波の及ばなかった内陸部では街の様子は本当に普通そのものだ。この地域が受けた被害というのは物損としては圧倒的に津波によるものであり、それ以外の地区には殆ど影響は残らなかった。斯様(かよう)に、悪魔の線引きの内側と外側ではまったくの別世界となっているのが今回の震災の特徴だろう。


 
さて塩屋崎灯台に向かうには、途中の塩屋崎ゴルフ場付近で東に折れて北側の平薄磯からアプローチするのが最も近い迂回ルートである。震災後の海岸施設は何かと立ち入り制限が厳しいので灯台に登れるかどうかは分からないが、ともかく状況を確認すべく細道を行くことにする。


 
そんなわけで海岸を目指してみたのだが…


 
山間の隘路を抜けて降り立った平薄磯の集落は、筆者の知っているかつての景色ではなかった。

…なんと、集落がまるごと消失していたのである。


 
比較のために、震災前の↑平薄磯の写真を載せてみよう。ここは海岸ギリギリまでびっしりと住宅が並んで、夏には海水浴客がクルマを停めるのに四苦八苦しているような、景色の映える海浜集落だった。灯台で景色を眺めた後に、ここを通って新舞子浜まで海岸道路をドライブすると非常に爽快な景色が眺められたものである。


 
その爽快な景色を灯台から俯瞰すると、このような状況だった。これは2009年の撮影だが、写真左奥に見えているのがかつての平薄磯集落である。

現在では堤防を兼ねた海浜道路が通っているのでピンとこないかも知れないが、このくらい遠くから眺めると集落が奥行きの長い砂浜の上に作られていることが分かる。多少の盛土はあるのだが気休めのようなもので、標高は2m程度しかない。ここに200軒あまりの住宅と民宿、小学校、中学校、商店などがひしめいていた。


 
…それが今や、見渡す限りの更地になってしまっている。かろうじて住宅が原型を留めているのは海岸から一番奥まったあたりくらいで、もちろん現在では人は住んでいない。根こそぎ流された住宅の跡地には、津波が運んできたらしい砂礫が堆積して砂場のようになっていた。


 
震災の当日、津波は集落のやや南側から襲い掛かったらしい。背後にぎりぎりまで山が迫り、海抜2m程度の低地に住宅が密集したこの地区に、地形的な逃げ場はほとんどない。さらには小名浜港の周辺と違ってここには沖合いに防波堤や消波ブロックなどはなかった。津波は勢いを削がれることなく岸までやってきて、住宅地を直撃したのである。

そして後背地が三方とも山であったことがさらなる不幸を生んだ。奥に抜けることの出来なかった津波の海水は、この狭い集落内で長時間にわたって渦を巻き、ミキサーで掻き混ぜるように住宅街を砕いて流し去ったのである。そのため他の地区と異なり、ここでは海岸沿いの建物は殆ど原型を留めなかった。


 
あとで調べて分かったことだが、いわき市で最も死者の多かったのがこの集落なのであった。福島県全体では死者/行方不明者は合わせて1960名、そのうちいわき市は352名を占める。

ここ平薄磯集落では、南北500m、東西150mという狭い範囲であるにも関わらず死者は104名を数えた。塩屋崎灯台の南隣にある平豊間 (通行止めで今回は訪れていない) も地勢的には似た状況であり、こちらでも死者は75名を数えている。とりたてて大都市部という訳でもないのに、なんと塩谷崎灯台から半径2km以内にいわき市の死者の半数以上が集中しているのであった。


 
集落からは、塩屋崎灯台がよくみえる。 いつもの年なら今頃は灯台を訪れる観光客と海水浴客で賑わう筈なのに、今は街そのものがなくなってしまった。まさかこんなことになっていたとは…。


 
半壊した状態で残った山よりの家屋には "壊して下さい" の書置きがあった。

もう住むつもりはないということなんだろうな・・・




■消防団のことなど




平薄磯の集落跡の中ほどに、目茶目茶に壊れた消防車の残骸があった。

車体には 「いわき市消防団」 とある。状況から見ておそらく最後の瞬間まで住民に避難を呼びかけていたであろうことは想像に難くない。この地区は104名という死者数からもわかる通り、津波が到来した時に住民の避難が全然間に合っていなかった。


 
筆者も不勉強で今まで "消防署員" と "消防団員" の区別がついていなかったのだが、両者には明確な違いがある。簡単に言うと消防署員=専業職員、消防団員=ボランティアと思えばよいらしい。消防団は普段は別の仕事をしていて緊急時に消火活動などに駆けつける。構成員は在宅で仕事をしている人が多く、地元商店街の店主などがよくその役割を担っている。

驚くべきはその薄給で、いわき市の場合、彼ら一般の消防団員の年間報酬はわずか2万7000円でしかなく、それ以外には出動1回ごとに1000〜2000円の手当てを受け取るのみである。日本の消防組織はこうした安上がりの消防団員の比率が高く、それは防災活動の総コストを抑えるのには確かに役に立っているのだが、それにしても命の値段としてはあまりに安すぎる。



 
消防団員については、その内訳はわからないが福島県で20名ほどが殉職しているそうである。宮城、岩手までを含めるとその総数は200名を超え、正規の消防署員の10倍以上の犠牲者が出た。

瓦礫が撤去されても消防車はゴミと一緒の扱いにはならずその場に留めおかれていることから、ここもそんな一角なのだろうと筆者は思ってみた。

…彼らの最後の仕事に、ささやかながら敬意を表したい。




■塩屋崎灯台


 
さて平薄磯の集落跡を抜けて、塩屋崎灯台を目指す。集落南端には中学校(写真右)があるのだが、津波で校舎が破壊されたので現在は休校中である。

その校舎の向こう側に、なにやらゴミの山のようなものが見えてきた。周辺には風が強いわけでもないのに土煙のようなものがうっすらと漂っている。


 
実はこれが瓦礫の山なのである。校庭だけでは間に合わず、プールの中にまで積み上げられている。それにしても凄い量だな…

TVニュースで見る岩手や宮城の瓦礫はもっと大型の梁や柱や壁材のようなものの集合体だったが、ここに積み上げられている瓦礫はまさに "木っ端微塵" といった感じの細かいゴミが多い。津波に巻き込まれた住宅の壊れ具合は想像を絶するような凄まじさだったようで、これに巻き込まれたらとても助からないだろう。



 
肝心の灯台は、案の定というか何と言うか、閉鎖中であった…orz

せっかく周辺の海岸状況を一望して確認できるかと思って来たのだが、灯台は震災以降消灯したままで未だに機能していないらしい。それにしても…こんな状態で付近を航行する船舶の安全は大丈夫なのかね。


 
ついでながら灯台前の売店は、閉鎖こそされていたものの建物は無事のようであった。

壊滅した集落からは標高差にしてわずか2〜3mほど高いだけなのに、こちらはほとんど無傷のまま残った。集落からここまでは、歩いてせいぜい10分程度。…あの日、この売店まで速やかに避難していれば、少なくとも100名を越える死者を出すような大惨事は避けられたかもしれない。

…しかし、現実にはそうはならなかった。そしてその理由を問うべき当人たちは、すでにこの世にはいない。教訓は、想像の中から汲み取るしかないのである。


【つづく】