2014.04.12 那須野ヶ原の桜の見所を行く(その4)



 

■ 烏ヶ森公園




さて気が付けばもう午後3時過ぎ。大田原城址でマターリしすぎているうちに、日が傾いてしまった。やはりタイヤキを小倉、桜、クリームと3個も食べ比べた上にさらにコーヒーをがぶ飲みし、郷土愛溢れる魂の叫びに聞き惚れてしまったのがロスタイムを招いたのか(違)

それはともかく、当初の計画では下石上の工業団地と千本松牧場も考慮に入れていたのだけれど、この時刻ではあと一箇所周るのがせいぜいだろう。…ということで、本日最後のスポットは烏ヶ森公園と定めて、そそくさと向かうことにした。




烏ヶ森公園は、明治21年に西那須野地区の "開拓のお社" である烏ヶ森神社を中心に整備された公園である。開設以来120年あまりが経過しており、那須野ヶ原の公園としては際立って古い。

ちなみに日本の一般的な公園(営造物公園/都市公園)の多くは昭和31年制定の都市公園法に基づいて整備されたもので、防災緑地などを兼ねて戦後になっておびただしく増殖したものである。それ以前は史蹟名勝天然紀念物保存法に基づいて著名な城址/神社仏閣/庭園などが公園とされることがあったが市民の憩いの場というよりも史跡保存に主眼を置いたものであった。そんな訳で明治20年代に誰でも入れる14haもある緑地公園が作られたというのは、実は結構画期的だったのである。




さて日も傾いてきているので早速踏み込んでみよう。時計をみると時刻はもう 15:30 …。花見客の出足は上々のようだが、そろそろ宴を畳んで引き上げるグループがちらほら出ている。うーん、やはりもう少し光線の具合の良い時間帯に来るべきだったか…(^^;)




それはともかく桜はちょうど満開でよい見頃を迎えていた。ここは標高の関係で大田原よりはほんの少し開花が遅れるのが通例なのだが、今日は文句なく花見日和と言っていい。




既に西日になっているので午前中のような爽快な色合いではなくなっているけれども、雨にも風にもあたっていない瑞々しい花は美しい。…でもさすがに花のアップばかりというのもレポートとしてはちょっとアレな気がするなw




そんな訳で本日のレポートの締めくくりは、烏ヶ森神社と開拓団の話でも書いてみようかと思う。




■ 神社と桜と開拓の話




さて烏ヶ森神社の母体となったのは延喜2年(902)建立とされる稲荷社で、神社庁ではこの稲荷社の創建をもって烏ヶ森神社の創建としている。そんな古い時代に人が住んでいたのかよ、とツッコミのひとつも入りそうだが、ここに神社を祀ったのは遥か南方の箒川のほとり=上石上の村人で、付近に山らしい山がないところだったので河辺から延々5kmほども荒地を進んでこの丘の上に鎮守社を設けたらしい。

この稲荷神=倉稲魂神に天照大伸と豊受大神(開拓農地なので日照と食物の神がスカウトされた)を加えて名を烏ヶ森神社と改めたのが明治21年で、公園の造成は神社建立と同時に行われた。つまり最初から神社と公園はセットなのである。その目的は、厳しい開拓事業に参加する人々への心の拠り所の提供だった。




山頂に置かれた神社本殿に至る道は、山の周辺3方から通じている。ちょうどここは肇耕社(三島農場)と那須開墾社の境界で、神社建立の発起人は那須開墾社だが、神社建立の浄財は肇耕社も拠出した。ゆえにどちらにも偏らない向きに社殿をこしらえ、土地の境界に沿って正面参道を設け、肇耕社側、那須開墾社側それぞれに脇参道を下す格好になったらしい。




…といっても肇耕社(三島農場)には既に敷地内の赤田山に母智丘神社という鎮守の社があり、烏ヶ森神社建立の翌年には母智丘神社の里宮の形で三島神社を建立(前年亡くなった三島通庸を合祀)しているので、自前の神社は充実している。そのためかあまり烏ヶ森に意識が向いているという感じがしない(^^;)

一方で那須開墾社には鎮守らしい鎮守社がなかったので、彼らはこの烏ヶ森神社を大変に丁寧に扱った。文字通り開拓者の氏神様として崇敬していたのである。



それを象徴するのが、那須開墾社側のこの脇参道だろう。三島側の上り口と比べて那須開墾社側の参道はかなりしっかりとした石段で整備され、「こちらが正面参道ですヨ」 といっても差支えないくらいの風格が漂っている。




さらには山頂から西側=那須開墾社の方をみると、この階段直下から桜並木が遠くまで一直線に続いているのがみえる。葉桜になってしまうと周囲の樹木と区別がつきにくくなってしまうけれども、今の季節なら花の列としてはっきりと認識することができる。




その参道の向かっている先は、今は失われている那須開墾社の事務所(本部)であった。建てられたのは入植開始から6年あまり後で、最も入植しやすかった一区に置かれていた事務所を開拓の進展に合わせて移転したものだ。タイミングとしては東北本線の黒磯までの部分開通および那須駅(現・西那須野駅)の開業(明治19年)と同時期である。ここは国道4号線にも面していて、これからの発展を展望するならこちら側に拠点を移した方がよいと判断されたのだろう。

烏ヶ森神社の建立はこれに先立ち明治15年頃から工事が始まっており、まだ完了していない段階で那須疎水の起工式(明治18年)の会場にもなった。地割をみると那須開墾社では烏ヶ森丘陵を起点に開拓村の中心部をデザインしており、その姿は門前町型で三島農場の条理区画(碁盤の目)とは趣を異にしていた。このあたりは三島通庸と印南丈作の個性の差が出ていて面白い。




烏ヶ森丘陵は開拓初期には高い木がほとんどなく、周辺を広く見渡せたので展望台として要人がよく訪れた。それが現在のような深い森になったのは、神社建立のときに松との苗木が大量に奉納植樹されたことによる。

神社では普通、生命力の象徴として樫(かし)、椎(しい)、杉(すぎ)などの常緑樹を境内に好んで植えるのだが、松や桜というのは実は少数派である。これらはどちらかというと庭園向きの樹種で、それが主に植樹されたということは、この丘陵が当初から公園化を意識して整備されたことを意味する。植樹は明治21年から始まり、いつごろまで続いたのかはよく分からないが、桜は成長が速いので明治27年にここで開墾成業式典(政府要人を招いて開拓事業の成功を祝った)が行われた頃にはそれなりの規模で花が楽しめたことだろう。




こうして茫漠とした草原だった那須野ヶ原の開拓地にあって、神社のある丘陵の一帯は春になるとにわかに薄桃色の花の湧きあがる苑となった。明治の末期頃には桜は2000本ほどにもなったそうで、花見の名所としても広く知られるようになったらしい。現在の公園のありようは、このときの状態を受け継いでいる。




…さてそれでは、いよいよ参道を歩いてみたい。

現在の参道は、公園の敷地になっているのが社殿から200mほどで、そこから先は一般道となってさらに250mほど続いている。その間、ずっと桜並木である。神社建立からもう120年ほど経っているので寿命の短いソメイヨシノ系の桜は代替わりしていると思われるが、今でもきちんとメンテナンスはされている。




道路沿いの案内図によると参道は周辺道路とともに "公園の遊歩道" という扱いになっているようだ。ぐるりと一周しておおよそ2km…徒歩で30分くらいか。

※ところで写真(↑)のMAPの上方に雲照寺という寺がみえるがこれは那須開墾社が敷地を用意して招聘した寺院である。印南丈作らは神社だけではなく入植者の冠婚葬祭の便には仏寺が必要だと考えていたようで、入植地の中にそのための宗教区画を作っていた。明治初期の世相(→神道の教化が熱心に進められた)にあって新規に仏寺が作られたというのは珍しいことで、こういうところは地元の民間人が集まって作られた那須開墾社らしい一面といえる。(一方で華族農場では神社はあっても仏寺は無いケースが多い)



…それにしても、こちら側はさっぱり人がいないなぁ( ̄▽ ̄;)

やはり駐車場から遠すぎるというのが一因なのだろうか。花見客が多いのは駐車場に近い池の周辺で、どうやら手近なところを眺めて満足してしまっているような気配がある。せっかく沿道に咲いている桜もこれでは少々もったいない気がするなぁ。




参道はやがて那須疎水の第四分水をまたぎ、区画整理された水田の中で途切れてしまうのだが、細い通路を経て100mほど行くと、ついに小さな公園に行きつく。ここがかつての参道の起点=那須開墾社の事務所跡である。今ではひっそりとしたマイナーな史跡といった趣になっていて、人影は見えない。




ここは開拓団の本部であると同時に、かつては西那須野村の役場でもあった。明治22年に施行された市制町村制によって、那須開墾社の開拓地はそっくりそのままひとつの村となり "西那須野村" となった。この年は帝国憲法が発布された年でもあり、西那須野村はその元での第一世代の地方自治体として出発したのである。




この時期の那須開墾社は非常に慌ただしかった。那須疎水の開通が明治18年、鉄道の開通が明治19年、開拓が一応の成功を収め、国から土地の払い下げが完了し、入植者や株主に開墾地の分配が行われたのが明治21年、そして同年は烏ヶ森神社の完成があり、翌年は西那須野村の発足で、国から権限の委譲があり初めての "地方自治" が始まった。日本史上初めての参政権の行使=第一回衆議院選挙があったのもこの年である。社会がどんどん変革しており、人口も増え、現在の停滞した日本とは違って社会に活力があった。




しかしそんな時代も今は昔。広大な農地こそ拓かれたものの、現在では付近の人口中心はすっかり駅前に移ってしまい、ほんの1〜2kmという距離感の差でここは純農村の閑静さの中に沈んでいる。合併で自治体の規模が大きくなることには色々な副作用もある訳だけれど、かつての開拓事業の本部跡がここまで露骨に寂れてしまうと、時代の流れがあるとはいえ少々不憫に思えてくるなぁ…




■ 再び、公園へ




さて事務所跡を眺めたのちは、ふたたび桜の参道を通って公園まで戻った。ほんの数百メートルの距離感で切り替わる侘び寂び感は、何かの歌ではないけれど傾奇者達の栄枯盛衰…といった感じがしないでもない。これが西行法師であれば気の利いた歌でも残したかもしれないが、あいにく筆者にはその素養がないので静かに風景を眺めるだけである(^^;)




公園まで戻ると、そこにはまた見慣れた花見の風景。まあ花を見るのにいちいち歴史を紐解いていたら面倒なことこのうえないので(笑)、素直に 「いい花具合ですなぁ」 とつぶやきながらちょいと一杯やるくらいが精神衛生上は一番良いのかもしれない。




…ということで、あまり上手いオチにはならないけれども、本日はこのあたりまでとしたい。


【完】